人生の意味

先日ブログに書いた、死の恐怖に関連して、人生の意味やらなぜ自分はここにいるのかといったことを相次いで話したりメールをもらったりした。

こういうことは、もの心ついたころから誰でも一度は考えたことがあると思うし、哲学的にも永遠のテーマだろう。

しかし実は私はその答えはとっくにわかっている。誰でもわかっていると思う。わかっているけど認めたくないだけなのだ。

自分や人間がここにいることに意味や目的などあるわけがない。

地球ができてから現在までの46億年を1年にギュッと縮めたとすると、最初の生命が誕生したのが2月17日頃だ。恐竜が登場したのが12月12日頃で、12月26日頃には絶滅した。現在の人間が登場したのは12月31日の午後11時31分頃だ(これが20万年前)。

意味とか目的などというのは、人間の考えた概念である。人間がいなかった気の遠くなるような長い時間のことを想像してみる。地球にどんな洪水や噴火が起こっても、生物が登場して繁栄と絶滅を繰り返したとしても、それを「楽しい」とか「悲しい」とか「思う」ものが何一つ存在しない世界だ。せいぜい、痛いとか暑いとか旨いという感覚がある程度だろう。そういう、明らかに意味も目的もない世界が46億年も続いてつい最近登場した人間が意味だの目的だのと考えているわけだ。人間は意味と目的だらけの生活を送っているから、あたかもこの世にはすべて意味や目的が最初からあったような気になるのだ。

しかし、人間も生物の一種であり、犬やねずみや細菌と同じく、遺伝子の突然変異と自然淘汰で偶然に登場しただけのものだ。人間が登場して生きていることも、磁石のプラスとマイナスが引き合うことや物体に力を加えると加速することと同じように、もとをたどれば自然現象の一つにすぎない。

そういうものに原理はあっても、意味などない。それは人間の脳の中にある妄想のようなものだ。

「人間の存在には意味も目的もない」ということをどうしても認められない人は、神様という、いかにも人間が考えたような人間に似たものをこの世界の根本原因とむりやり想定して意味を見つけるのである。

その気持ちはよくわかるが、明らかに人生に意味などない。目的もない。人間が正月の午前0時30分(つまり20万年後)に絶滅してしまっても、3月頃に太陽がどんどん大きくなって地球を焼き尽くすまでは、また意味など考えるものがひとつもない荒涼とした世界が延々と続くのだ。歩いているときや車を運転しているときなど、つい目に映る物体を見て、まだ文明がないころ、このコンクリートの材料たちはどこの地中や山に埋まっていたものだろうとか、吸っている酸素原子は原始地球誕生以来、どういう経路をたどって今ここまで来たのだろうかなどと考えてしまう。

人生に意味はないけど、楽しいことを味わう特権を得たと思って楽しもうとは思っている。どっちにしろ我々はあっという間にいなくならなくてはならないのだ。