なんだかよくわからん。よくもまあこんなに意味不明な俳句を考えつくもんだ。
よし、俺も挑戦だ。
『虫眼鏡 くんずほぐれつ 黄泉の国』
志水一夫氏の逝去に関連して、錯覚についての良いページを見つけた。
http://www.asios.org/visual_illusions.html
凄まじい錯覚だ。思い込みの激しい人なら「これはトリックだ。絶対に明るさが自動的に変わっているのだ。」と言うに違いない。そういう人が幽霊を見ら信じてしまうだろう。
幽霊や超能力といったものは、たとえ見ても、客観的な証拠で検証するまでは信じてはいけない。見た、聞いたという話は全然信用できないのだ。人間はこれほどまでに強烈に錯覚するものだからだ。もっとも、本当のことになんか興味がなく、感じたことを大切にしたいだけということなら、それは仕方がない。
スポーツ報知のマイケル・ジャクソン関連の記事で、ひっかかる表現を見つけた。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090703-00000305-sph-ent
「世界的な超能力者のユリ・ゲラー氏」という表現があるのだ。まるで超能力者であることが事実のような書き方だ。彼は超能力者として売り出しはしたがマジシャンだ。書くなら「自称超能力者」とか、意味ありげに”超能力者”とでもいう表現にしてほしかった。
一方、日本オカルト会の巨星、志水一夫氏が7/3に胃癌で亡くなった。5月に癌が発見され、たったの2ヶ月で55歳の若さで逝ってしまった。http://asios-blog.seesaa.net/article/122768454.html
オカルトを科学的に検証できる数少ない論客だった。
もうひとつ気の回しすぎで迷惑をかける人の話。
飲み屋で店員が飲み物の注文を取っている場面。
ある人が「ビールお願いします」と言ったとする。すると、次の人が「ビール二つ」と言ったりするのだ(しかも二本指まで立てたりして)。前の人と合わせて二つだよ、と店員の変わりに足し算をしてやったつもりで得意満面だ(先入観)。
これがどのように迷惑なのかは言うまでもない。
スペース挿入で他にも不愉快なことを思い出した。
映画の字幕などを見ていると、やたらと傍点を打った文字が出てくるのだ。強調したい言葉でもなんでもないのに、傍点が打たれていて、気になって仕方がない。書いた人の考えを想像するに、あまり一般的ではない話し言葉であるために、文字の区切りを間違える人がいると思って気を利かしてやっているのではないかと思う。それ以外に理由は思い浮かばない。
しかし、下の実例を見てほしい。「きっとふくれる」「ミスらなかった」「トビ心地」こんなもの、何も傍点を振らなくても支障なく読めるではないか。どうしても心配なら「きっと、ふくれる」「きっと膨れる」「飛び心地」とでも書けばいいだけだ。こんなどうでもいい言葉にいちいち傍点をつけられて視線を集中させられるのだからたまらない。読みやすいどころか、はっきりと読みにくいのだ。傍点撲滅運動でもやりたいくらいだ。
そういうわけで、私は自分の雑誌の原稿に傍点を振るのだけは絶対にやらないよう、担当の編集者に伝えてある。
もうひとつ嫌なのが、なぜか片仮名を必ず半角で書く人だ。「今回のガイダンスの問題点は参加者のコミュニケーション不足にあります」という具合だ。文中にいきなり半角のところがあるので読んでいてひっかかるし、濁点のところで文字間隔が変わるのでこれもひっかかってしまう。文字数に制限があって、やむなく半角にして情報を入れようという場合はやむをえないが、日常的にこれをやっている人がいるのだ。
これらの書き方に私が文句をつけるのは、書いている人たちは気を利かしているつもりだからだ。面倒だとか、私利私欲のためだとか、気が利かないとかの理由でやることなら、私は大概のことには文句はない。人間はそういうものだし、お互い様だから他人に多くのことは要求はしないのだ。
ところが、半角スペースを入れたり傍点を振ったり半角片仮名を書く人たちはちがう。気を利かしたつもりで、わざわざ労力を使って読みにくく書いているのだ。親切のつもりで何メートルも後ろを歩いている人のためにドアを開けたまま待っいて、そのために後から来る人を急がせて走らせたりしてしまう迷惑な人と同じなのだ。
学生時代、一足先に就職して外国に赴任した友達から手紙が来たことがあった。それは、異様な文体だった。
「よう 条太 元気か? 俺 は 元気だ。」
というように、単語の間が奇妙に空いた文章だったのだ。そいつは文章などは苦手な男だったから、英語を使う生活に慣れてしまって、日本語の書き方を忘れてしまったのだろう(このような書き方を「分かち書き」というhttp://ja.wikipedia.org/wiki/わかち書き)。いくら理系だったとはいえ、国語が苦手にもほどがあると笑ったものだった。
ところが電子メールが普及すると、外国暮らしをしたわけでもないのに、単語の間を空けて書いてくる人がいることに気がついた。本人は、読みやすいように気を利かせているんだと思うが、まるで新聞の文字を切り抜いて作った脅迫文のようで読みにくいことこの上ない。自分では読みやすいのだろうか。
26個だけのアルファベットで書く英語と違って、日本語は、平仮名、漢字、片仮名、句読点で十分読みやすく書くことができるように発達した文字なのだから、「俺 は 元気だ」などと書かなくても、「俺は元気だ」と書けばちゃんと漢字で書いた部分が平仮名から浮き立って意味の区切りがわかるのだ(もちろん、看板や見出しなどは別だ)。
職場の同僚に極端な分かち書きでメールを出してくる女性がいた。前々から腹に据えかねていたので、ついにあるとき我慢しきれずに「読みにくいから普通に書いてください」とお願いをした。するとその女性は、「そんなふうに書いた覚えはない」と言う。私のパソコンの画面を見せても「原因が分からない。自動でそう変換されるようになってるんじゃないの」などと言う。そんな頭の良いパソコンがあるわけがない。
納得できない私は、その女性の机に行き「じゃ、私が見てるから、いつものように文章を打ってみてください」と言った。すぐに打ち始めたその人、単語を打った後に間髪入れずにスペースキーを叩き、その瞬間、「あっ」と声を上げた。無意識だったのだ。
中 には、わざわざ 半角 の スペース を 入れる 人 も いる(この文のように)。手間をかけて読みにくくしているわけだ。それが読みやすいなら、世の中の本はすべてそのように印刷されているはずだが、そうではない。書くときに生じる、錯覚による違和感が、無駄なスペース挿入作業をさせているのだ。
ただ普通に書けば、どれだけ書きやすく読みやすいことか。
子供の頃に資金や知能が足りなくて思う存分できなかったことを大人になって本格的にできるようになったことが多く、楽しいなあと思う。
子供の頃によく小さいおもちゃの歪んだプラスチック製の虫眼鏡で日光を集めて何かを焦がしたりしたものだが、それほどの威力はなかった。今ではもっと大きく精度のよいガラスの虫眼鏡を持っているので、それでアラバマの強烈な日光を集めて照射するとすごいことになる。黒っぽい紙など、焦点を合わせるのも待ちきれずに炎を出して燃え始めるのだ。これは楽しい。
それで、家の周りに干からびて死んでいる昆虫を焼いてみようと思い立ち、子供たちに「虫眼鏡で虫を焼きたい人集まれ~」と声をかけた。子供たちは騒然として駆け寄ってきたが、妻が大爆発した。「死んだ虫をやるんだからいいだろ。なんでダメなんだ?」と言いかけると「この話これ以上する気ないから」と門前払いで、一同、シュンとなった。
後日、ひとりでこっそり死んだ蜂を燃やしてみたことは言っていない。
先日紹介したノイバウアーのラバーだが、JUICのカタログにも載っていた。普通、卓球用具メーカーはラバーの性能の指標として「スピード」「スピン」「コントロール」の3つをよく使うのだが、『アンチスペシャル』に限っては、「スピード」「スピン」そして「幻惑度」というのだから凄い。そしてこのラバーは幻惑度が100なのだ。素晴らしい。
同じカタログに載っているノイバウアーのラケットには、当たり前のように5万円以上の値段がついている。桁を間違えたのかと思ったが、本当だ。ラージボールにも使えるとも書いているのだが、確かに使えるとは思う・・・。
このラケットにアンチスペシャルを貼ったらいったいどんなボールが打てるのだろうか。考えるだけで楽しい。
このカタログ、とにかく商品名のインパクトが凄い。ちょっと拾ってみると「ゴリラ」「グリズリー」「モンスタークラシック」「ピストル」「ブルドーザー」「バリケード・ディフェンシング」「ハイテクノロジープラス」「スペシャル」「ドライバスマッシュ」「パチスマ」(パチスロじゃないぞ)と、名前を並べるだけで楽しくなってくる。
また、気になるのが「バンブーショット」というラケットだ。カタログには「竹のしなやかさをあなたのプレーに」とは書いているものの、不思議なことに、どこにも竹材を使用しているとは書いていない。調べてみると、ちゃんと使用しているようだ。http://www.iruiru.com/bh/index02.htmlなんという余裕だろうか。
卓球のラケットの材料は、厚みの85%以上は木材とルールで決まっているので、あまり自由度はないのだが、木の種類を選べると思えば、それはそれで結構楽しい。寿司屋でいろんな魚の味を楽しめるように、木材もいろいろ味わいが違うのだ(でも、竹製とは初めて聞いた)。
卓球は本当に楽しい。
以前、職場の同僚が、子供に名前をつけるのに姓名判断にもとづいて画数を検討していると言った。「そんなの信じてるんですか?」と言うと「別に信じちゃいないけど、悪いって言われてる名前をわざわざつけなくてもいいでしょ」と言われた。
私も小学生のころは、大人がすることは正しいことだと思っていたし、まさか本にウソが書いてあるとは少しも思っていなかったから、占いも完全に信じていた。しかし、問題だったのはそのメカニズムだ。
名前の画数が運命に影響する原因にはどんなことが考えられるだろうか。たとえば、自分の名前を書くときに、指を何回動かすか、あるいは他人が自分の名前を書くときに指を何回動かすかが、何かその人の運命に影響するなどの原理があって、偉い人がそれを突き止めたんだろうと思っていた。「名前の画数」と「運勢」の間を埋めるものはそれぐらいしか考えられないからだ。
突き止めるためには当然、膨大な統計が必要になる。不幸な目に合った人と、幸運に会った人の名前を調べ上げてなんらかの傾向をつかみ、作り上げたのが姓名判断なのに違いないと思った。画数が運命に影響を与える本当のメカニズムは分からないにしても、統計的にそのような事実があるのなら、認めるしかない。
易者が箸みたいな棒をまぜて占うのも同様だ。棒を混ぜるといっても、実際に混ぜているのは神様ではなくて占い師なので、占う相手の運勢が占い師の指先に何らかの原理で伝わって、うまい具合に箸を混ぜ合わせて、相手の運勢を表現できる結果になるのだろう、世の中にはこんなに不思議で面白いことがあるのだな、と思っていた。
現実には、私の大前提が間違っていたことが後で分かった。つまり、世の中には平気でウソやデタラメを書く大人がいくらでもいて、そのような原理も統計も何一つなく、すべてはただの戯言だったのだ。