海外赴任者の子息には、希望者にはアトランタ領事館を通じて、日本の教科書が無料で配布されることになっている。
昨日、中学生の息子に国語を教えていたら、教科書に村上春樹の文章が載っていた。題名は「ふわふわ」という短編で、猫に関する文章だった。
そこには、「長い間使われていなかった広い風呂場を思わせるような、とてもひっそりとした広がりのある午後に」とか「僕ら二人はからまり合うようにして、まるでおなじみの泥水みたいに、そこに静かに転がっている」とか「猫の時間は、まるで大事な秘密を抱えた細い銀色の魚たちのように、あるいはまた時刻表には載っていない幽霊列車のように、猫の体の奥にある、猫の形をした温かな暗闇を人知れず抜けていく」などと、中学生に容赦のない相変わらずの意味の分からない比喩だらけの村上春樹ワールドが展開されていた。
この作家のどこが優れているのか、次のように息子たちに説明をした。たしかにこれらの比喩にははっきりとした意味はないが、作者は言葉にできない何かを感じて、それを読者に伝えようとしている。「長い間使われていなかった広い風呂場」という言葉や「猫の形をした温かな暗闇」という言葉を聞いたときに、読者はそれぞれ自分の経験に基づいて何物かを思い浮かべるはずだ。それが作者のそれに一致していなくても、それが読者をなんらかの形で楽しませることができる力があるから、この作者は天才と言われている。「おなじみ」と「泥水」という誰でも知っている二つの言葉をくっつけて「同じみの泥水」とすることを思いつくことができるところが凄いのだ。比喩は、まず意外性がなくてはならない。しかし、ただ意外なだけではダメだ。意外でありながら、そう言われればそうだと納得できるような巧妙なものでなくてはならない。それが凡人にはほとんど不可能といっていいほど難しいことなのだ。村上春樹は、誰でも知っている言葉の海の中からそういう言葉の組み合わせを見つけることができる天才なのであり、それが大勢の人が彼の文章を読むためにお金を払う理由だ。
私はまだ村上春樹のファンではないが、説明しているうちに興奮してきて、なんだかファンになったような気持ちだ。私も中学の国語の時間にこういうふうに教えてもらっていたら、もっと授業も面白かったろうに、と思って悦に入っていたら、妻が「お父さん長すぎ。さっさと次いって。」と言われた。ギャフン。