不幸の比較

震災で不便を感じている人たちが、自分がいかに大変かを話すのを聞くことがある。

自分だって大変だと苦労自慢をしているような様相を呈している。他人の苦労を聞くと同情と興味の入り混じった感想を持つと同時に、わずかのひけ目を感じ、自分だって苦労しているという不幸自慢をしたくなってしまうのだ。

私は人間の体験しうる不幸というものをよく考える。今回の震災で家を流され避難所で暮らす人たちは本当に気の毒だ。しかし、ちょうど震災のあった3/11に末期癌を宣告された仙台市民だっていたに違いない。その人にしてみれば、家を流されたって、体が健康で自由に息ができて歩けて何でも好きなように食べられ、当面は期限を切られることなく生きられる人たちが羨ましくて仕方がないだろう。

私は18歳のときに自然気胸という病気で手術のために1ヶ月間入院をした。体に管を差し込んでずっとベットから離れられず、大小便も看護婦さんを呼んでオマルにする生活だった。ほとんど心配のない病気だったのだが、弱気になって、このまま二度と退院できないのではないかと悪いことを想像した。そのときに考えたことは、自分で好きなようにトイレで用をたす、仙台の街の歩道を自転車で好きなようにブラブラするなんてことが、なんて輝かしく楽しいことだったんだろうということだ。退院したら絶対にその楽しさを味わおうと思ったものだ。もちろん退院するとそんなのはすぐに忘れたのだが、今もときどき思い出して忘れないようにしている。なんたって、いつ本当にそれが不可能になるかわからないのだから。

さて、不幸比べだが、私が考えるもっとも辛いことは、自分の子供が異常殺人者になることだろう。憎みたくても憎めない、どんなに考えても理解できない、その上、世間の誰の同情も得られないのだ。これほどの生き地獄に耐えられるとはとても思えない。

その次が、家族を殺されることだろう。そんな経験をする人は稀にしかいないので、これも同情はされても誰の共感も理解も得られず孤独になるだろう。そして病気や事故、災害と違って、本来死ななくてよいものを故意に死なされるのだから、その無念さたるや比較するものがないだろう。

どんな手を使ってでもこれを防ぐべきだろうと私は思う。国民全員に生まれたときから発信機をつけて位置をモニターできるようにし、殺人者は必ず死刑にするとか、そういう強烈な法律を作るべきではないかと妄想することがある。プライバシーの問題などいろいろと実現が難しいことはあると思うが、人が理不尽に殺されないようにすることより国民のプライバシーが大切だとは思えない。結局、理不尽に殺された人の遺族は圧倒的少数なため、その無念さは無視されているのだろう。

交通事故も同じだ。すべての自動車の制限速度を時速30キロにすれば死亡事故は激減するだろう。まあそれは無理だろうが、とにかく理不尽な死に方をする人がひとりもいない世の中にする方法はないのだろうかと思う。