月別アーカイブ: 5月 2016

息子たちの逆襲

息子たちがテレビでテニスの錦織の試合を見て「すごいすごい」と言っていたので、酔った勢いで

「こんなテンポの遅いラリー、卓球にくらべたら退屈で見てられない」

と言ったところ、高校時代にテニスをした次男が

「卓球なんて小さくてチャカチャカと忙しくて、まるで蟹のケンカ」

「カッコつけて卓球台の下がカブトムシの角みたくなってて笑った」

などと言う。

聞いていた双子の長男まで調子に乗って

「ユニフォームからまず変えないと」

と散々である。

卓球コラムニストの息子がこの体たらくとは一体どういうことだろうか。

つくづく下手なこと言うものではないなあ。

とうぎょう(東京)

しつこくてすまんが、引き続き東北弁の話だ。

黒柳徹子の半生を描いた『トットてれび』を見ていたら、典型的な間違った東北弁が出てきた。東京を「とうぎょう」と発音したのだ。この間違いはもう、映画やドラマに出てくる東北弁ではまるでそれが作法ででもあるかのように定着しているが、残念ながら「とうぎょう」とは絶対に言わない。「き」に濁音がつかないことになっているわけではない。「先」は「さぎ」と言うし「時」は「どぎ」と言う。

地名や固有名詞が訛らないわけでもない。福島は「ふぐすま」、鈴木は「すずぎ」、下の名前さえ武を「たげし」と言う。それでも東京は「とうぎょう」とは言わないのだ。

なぜかと言われても困るが、ぼんやりとした区別としては、音読みの熟語には濁音がつかないような気がする。法則化はかなり困難と思われる。

「っぺし」問題

『アヒルと鴨のコインロッカー』を見直したが、本屋の若い女性店員がこれまた標準語の合間に唐突に「おら」などと訛っているのに苦笑した。いくらなんでもこんなヤツいない。どう考えてもいない。絶対にいない。

さらにこの店員、ある人物の噂をするときに、声を潜めて「ここだけの話、クスリとかやってっぺし」と言うのだ。なんとも言えない違和感だ。「っぺし」という語尾は確かにある。しかし、この場面には微妙にそぐわない。

「っぺ」という語尾は「べ」と並び、推測を表す「だろう」の意味だ。これに話に続きがあるように思わせる昨今流行の語尾「し」をつけて「っぺし」となる。したがってこの場面を翻訳すると「ここだけの話、クスリとかやってるだろうし」となる。「ここだけの話」という重要情報が推測というのはいかにもおかしい。

仮に推測でよいとしても、この翻訳「やってるだろうし」は、どこか舌足らずな感じがしないだろうか。言うなら「やってるだろうし」ではなく「やってるんだろうし」ではないだろうか。これに対応する東北弁は「やってっぺし」ではなく「やってんだべし」となる。したがって「ここだけの話、クスリとかやってんだべし」ならば、まだなんとか成立した。残念なことだ。

なお、「っぺし」という語尾には、誘い掛けの「やろう」の意味の「やっぺし」「すっぺし」もある。関東圏でも「やっぺ」「やるべ」などとして使われているものと同源で、本来は「やるべし」「するべし」だ。これらの語尾の「し」が省略されたのが「やるべ」であり、語尾が残ったまま前半が促音化されたのが「やっぺし」「すっぺし」だ。しかしこの映画では「やってっぺし」と言っており「やっているべし」という、意味が通らないつながりになっているしそもそも文脈から、誘い掛けではありえないので、違うだろう。

こういう違いは、ネイティブの東北人でも、聞いたときに違和感を覚えることはできても、その違和感の正体を分析して表現できる人は希だし、何回も口に出していると次第に自分でもよくわからなくなるものだ。だからスタッフの中にネイティブの東北人がいれば済むというものではないのだ。これが、映画で間違った東北弁が使われ続ける本当の理由だと思われる。

そいうわけで、困ったときは私に声をかけてほしいものだ。かけられるわけないが。

アヒルと鴨のコインロッカー

テレビで『アヒルと鴨のコインロッカー』という映画を見た。

原作も読んでいたが、仙台が舞台の映画でロケも仙台ということで興味深く見た。

内容はともかく、東北弁が滅茶苦茶だった。いや、東北弁自体はメチャクチャではないのだが、用法があり得ないのだ。主人公たちは東北人ではない設定なのだが、それに話しかける地元の人たちの訛り方が尋常ではない。

バスの運転手やら店員やらアパートの住人やらが、主人公たちにあり得ないほどに容赦なく訛るのだ。しかも、当然ながら東北弁にも敬語とタメ口があるのに、すべてタメ口なので、まるで東北人は全員が無知で粗野で非礼な人たちのようだ。

そもそも今どき公共の場で、相手が標準語なのに手加減もなしに訛る若者などいるわけもない。テレビでは毎日標準語を聞いているし、あくまで東北弁は非公式なものだという意識があるから、学校の授業中でも先生も生徒も技術的な限界はあるものの、意識の上ではなんとか「よそゆき」の言葉である標準語を話そうとするのだ。そんなことはテレビでインタビューに答える東北の若者たちを見ればわかるではないか。

この映画での東北弁の違和感は、たとえていえば、横浜が舞台の学園ドラマだからといって生徒たちが授業中に先生に向かってタメ口で「ぼくんち二世帯住宅じゃん」と言うようなものなのだ。

どうせなら仙台の人にも違和感なく映画を見てもらいたいと思わないのだろうか。本当に不思議だ。