日別アーカイブ: 2018年1月15日

荻村伊智朗の反論

それは1992年5月号に『目の技』という特集で、1月号に対する「より深い考察」と「軌道修正」として荻村伊智朗の文責で掲載された。

荻村は、現代卓球ではインパクトを見るのは無理であることを認めつつも、インパクトまで顔の正面で見ることのメリットとして

①アゴを引くことにより姿勢がよくなる

②体の前で打球するようになる

③初心者がミスをしたときにラケット角度の調節がしやすい

④イレギュラーバウンドに対応しやすい

を上げて、その必要性を説いている。このような理由で、インパクトは見なくてはならない、しかし極端に予測能力が高い人や熟練者は見ない場合もあるとした。

あくまで原則としては「見るべし」というスタンスで、その実例の写真をちりばめ、あとはあらぬ方向を見て相手にフェイントをかける技術など、議論の焦点を外したことを紹介して特集は終わっている。

師匠の荻村伊智朗に押し切られた形だ。

世界選手権で12個の金メダルを獲り、国際卓球連盟会長(それにしてもなんという肩書きだ)の男にこれ以上逆らえるはずもない。

しかし、荻村の主張はいずれもかなり苦しいと言わざるを得ない。

①姿勢をよくするためにボールを見るのなら、姿勢が良ければ見る必要はないことになるし、そもそもアゴを引くことが万人の卓球にとって有利かどうかもわからない。劉南圭はほとんど斜め上を見ながら恐らく史上最速のドライブを打って初代五輪チャンピオンになっている。

②は本末転倒だろう。体の前で打ちたいなら打てばよいのであり、インパクトを見たいがために前で打つのではない。その証拠に、80年代までの日本選手は思いっきり首を回してインパクトを見てなおかつ体の横、ときには斜め後ろで打球していたため、顔が斜め後ろを見ている選手さえ普通に見られた。インパクトを見ても打点は変わらないのだ。

③も無理だろう。飛んできたボールを目で追ってきて、突然それと逆方向に動いて衝突するラケットの角度を視認できると思う方がおかしい。初心者であっても、途中までのボールの軌道と手の感覚から角度は調整できるし、その方がラケットの角度を視認するよりはるかに簡単だろう。実際、そうだから現代、誰もそれで困っていないのだ。

④これは統計はないが、もしかするとインパクトまで見た方が有利かもしれない。もっともそれは「本当にボールを見ていれば」の話だ。

かくいう私も、1月号で目から鱗が落ちて初めてこのような感想を持てたのであり、その前までは完全に旧来の理屈を信じていたので、後輩にもインパクトを見ろと教えていたし、インパクトを見ないで弱い選手がいると「だからダメなんだ」と思っていた。

この特集から少し後、旧来の選手たちも、インパクトを見ているようでいて実はほとんど見ていなかったことが判明する。もともと見ていなかったのだから、いくら見た方が良い理屈を並べても、それらはすべて無意味だったのだ。

ボールを見るということ

1980年代までの日本の卓球界では、インパクトまで顔の正面でボールを見ることが正しい基本とされていた。インパクトまでボールを見るのはもちろんのこと、横目で見ると遠近感が狂うので、顔の正面でボールを見なくてはならないという理屈だった。

そのため、正統派の指導を受けた選手たちは中学生も高校生も例外なく首を回して顔の正面でインパクトを見ていた。

ところが1990年代になると、あまりにラリーが速くなり、そのラリーを実行している中国やヨーロッパの選手たちがさっぱりインパクトを見ていないことが目立ってきて、次第に日本選手もインパクトを見なくなり、今では美誠パンチに限らず、ほとんどの打法で、インパクトを見なくてもよいことが常識となっている。

「首を回してインパクトを見る必要はない」ということを日本で初めて活字にしたのは、かつてヤマト卓球株式会社(現ヴィクタス)が発行していた「TSPトピックス」という雑誌だった。現卓球王国編集長、今野さんが編集していたものだ。

それは1992年1月号に掲載された「ボールを見て打つのウソとホント」という特集だった。

 

これは、現代卓球ではインパクトを見る必要がないことを数々の写真でこれでもかというほど実証するものだった。トップ選手の誰もインパクトを見ていないことの動かぬ証拠が写真に写っているので、その説得力は絶大だった。

この記事の衝撃は大きく、まさに当時の読者の目から鱗を落としたものだった。実際の全国の読者の反応は知るよしもなかったわけだが、私の周りの2、3人がそうだったので間違いない(笑)。

これが旧来の卓球人にとって、いかにセンセーショナルな記事だったかを物語るのが、次のエピソードだ。

この号が出るやいなや、今野さんは、今野さんの卓球の師匠かつ当時国際卓球連盟会長だった荻村伊智朗に自宅に呼びつけられ「何を考えてるんだ!」とものすごい剣幕で怒られたというのだ。

そして荻村は、その年の5月号に大々的な反論の記事を寄せることになる。