久しぶりにビートルズ

久しぶりにビートルズのパロディといこう。今回は、写真ではなくてイラストだ。『ロックンロール・ミュージック』というアメリカ編集盤アルバムがある。あまり好きなジャケットでも内容でもないのだが、もともとがイラストなので、簡単に描けそうだということで、高校の授業中にノートに書いたのだ(罫線が見えている)。ジャケットだけでは寂しいので、日本版の帯をつけたところがよい判断だったと思う(実際にイラストに帯を巻いてある)。もっと大きく手間をかけて描けば上手く描けるのだが、こういうものは、そんなことをしてそっくりに描いても何の意味もない。この手抜き加減がよいのだ。

当時、友人の似顔絵をよく描いていて、ビートルズの4人のうち、リンゴだけをそいつの顔にしてしまうギャグをよくやっていて、ここでもドラムのところにおでんを持たせて座らせている。

先日、知人の家に遊びに行ってカラオケをすることになった。それで『なごり雪』を歌った。これ、曲も歌詞も好きなのだが、サビの「今、春がきて君はきれいになった」というところだけがどうしても好きになれない。歌うたびになんとなく不快な気持ちになるのだ。綺麗かどうかなど完全に主観なわけだが、あたかもそれを客観的事実のように、あるいはミスコンの審査員かのように判定、批評するような言いっぷりが不愉快なのだ。お前、自分が惚れてるくせして、この後に及んでなに相手を評価してんのよ、という感じだ。「前より好きになった」なら勝手なので問題はない。さらに、綺麗ということがそんなに重要なのかということもある。人の価値はさまざまだ。一昨年死んだ祖父は、祖母と結婚した理由を「土地がよかったから婿にきたんだ」と当たり前のように語った。「今、春がきて君は丈夫になった」でも「疑い深くなった」でも「黄色くなった」でもいいわけである(そんな歌あるかよ)。

ずいぶんと前、ある席で美人と評判の人と同席したことがある。そのときにある奴がその人のことを「美人だろう、きれいだろう」とその本人の前で私に同意を求めたのには困った。まさか「なんとも思わない」と本心を言うわけにはいかないではないか。「そうですねえ」と心にもないことを言うのが本当に苦しく、なんで俺はこんなことで本心を偽らなくてはならないのだと、聞いた奴に腹が立った。

もしかすると『なごり雪』のあの歌詞が嫌いなのはそのことが原因なのかもしれない。