シナリオ考

先日、知人から日本のテレビドラマのVCDを借りた。先週から中山美穂主演の『眠れる森』を見ていて、やっと昨日見終わった。10年前に大好評だったドラマらしく、なるほど面白かった。話も演技もよかったのだが、前から気になっている日本のドラマのシナリオの嫌なところがやはり目についた。

それは、感情の高ぶった登場人物が自分の気持ちを説明するときの「ずっとそう信じてた」などとという語尾の言い切り方だ。一見すると、何が問題なのかわからないだろうが、これが大問題なのだ。考えてみて欲しい。日本人が現実場面で人と会話をするときにこのような語尾になることがあるだろうか。ないのだ。「信じてたよ」とか「信じてたのに」などとなるだろう。決して「た」で止める言い方はしない。そのため、どんなに上手い役者の演技を見ても、この台詞が出てくると、不自然ないかにもお芝居をしているというような「ヘタな演技」に見えてしまうのだ。現実場面でありえない台詞を言わされているのだから当然である。自然に言いようがない台詞なのだ。

ではどうしてシナリオライターはそういう台詞を書くのだろう。実はこれは文章で読むとおかしく感じないのだ。そう、こういう言い切り型の語尾は、活字の世界での標準形なのだ。女性言葉としての語尾「○○するわ」とか「○○よ」というのも同じく、映像がない活字の媒体での表現方法であるが、これをそのまま映画やドラマに流用してしまうので、結果として役者たちは映画やドラマにしかない言葉使いをさせられているのだ。

私は何も、ドラマのリアルではないことをすべて否定しようとしているのではない。視聴者に登場人物を説明するために本人に向かって「お隣の山田さん」と話しかけたり、話の筋に関係のない電話や訪問者がいないこととか、ドラマの都合上、仕方がない部分はいいのだ。でも、シナリオライターの想像力不足で台詞が不自然になってしまうことだけは我慢がならない。事情を知らない人にとっては、役者がヘタに見えるので役者もかわいそうだ。この台詞が出てくると、どんな役者がやっていても「ああ、またいつものこういう言い方をする演劇部の人が出てきた」と思ってしまう。

私は韓国ドラマ『冬のソナタ』が異常に好きだ。その魅力はとてもひとことでは言い表せないのだが、日本語吹き替え版でもそういう言い切り型の台詞が一切ないことも、安心して見ることができる要因だ。もしかして台詞の意味自体にそういう自分の気持ちを説明するシーンがないのかもしれない。そうだとすれば、やはり優れたシナリオだといえる。登場人物が自分の気持ちを「こう思ってた」「だからこうしたかった」と長々と言葉で説明しなくてはならないドラマはシナリオとしてどうかと思う。

このブログを読んでからドラマの台詞が気になってしまう人がいるかもしれないが悪しからず。