斎藤清と岩崎清信のフットワーク

ここまでやれば当然、昔の日本選手のフットワークはどうだったのか知りたくなるのが人情というものだ。

そこで、1991年の全日本選手権決勝の最後の2ゲームのフットワークを分析した。
当時は21本制なので、2ゲームで75ポイントあった。そのうち、交差歩を使った回数は次のようになった。

斎藤清  23回(全スコアの31%)
岩崎清信 18回(全スコアの24%)

柳承敏の8%と比較してやはり格段に多い使用頻度である。特に斎藤は、フォアサイドに来るボールは半分以上を交差歩で打っていた印象だ。

岩崎にいたっては、左ひざの異様な高さと、ときにはバックサイドで打つときでさえ足が交差することから、交差歩が移動のためだけではなく、フォアハンドスイングの一部になっていることが伺われる。つい80年代まで、飛びつきのときにはひざを高く上げることが重要だとされていたくらいだから当然のことだろう。

当時は日本の誰もがこのような卓球を指導していたし、私の推測では、実績のある指導者ほど過去の常識にとらわれて新しい卓球に目を向けないし、見たとしても理解できない人がほとんどだから、彼らがこのような卓球をしていたのは当然である。

斎藤清はこの卓球で1989年アジアカップで、すでに現代と遜色ない卓球を身につけていた馬文革と陳龍燦を破って優勝したのだから、本当に化け物である。あと5年早い卓球を身につけていたら間違いなく世界チャンピオンになっていただろう。

卓球の進化の影にはこのような悲喜劇があり、それは複雑多様なスポーツである卓球競技の厚みそのものを表している。