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高級手帳

年末に手帳を買った。

2008年の7月にダイエットをしたときから胸ポケットに入るようなメモ張を携帯していて、それに飲食物のカロリー、体重とともに、原稿やらブログのネタやら雑多なメモをし始めたのだ。

白状するのはちょっと恥ずかしいが、これは『刑事コロンボ』でコロンボがメモをするのがカッコいいと思ったのと、荻村伊智朗関係のパーティーで同席したノンフィクションライターの城島充さんが、会話のあいだ中、メモ用紙にメモしっぱなしだったのを見て「うわ、作家ってこうなんだ、カッコいい」と思ったからだ。

それで、ときどき私も人前でこれみよがしにポケットからメモ張を取り出してメモをすることにしたのだ(ね、恥ずかしいでしょ?)。メモ張はアメリカのスーパーで買ったもので、1ドルくらいのものだ。2冊目を使い終わったので3冊目を買おうと思ったのだが、2冊目があまりにも粗悪品(週刊誌のような紙質なのだ)でボロボロになったので「いい物」を買いたくなった。

それでデパートのそれらしい売り場にいくと、意外にも欲しいものが売っていない。私が欲しいのは、何年か先までのカレンダーがあって、あとは罫線だけのものだ。ところが売り場においてあるのは、マンスリーだのウイークリーだの毎日の日記だのの印刷がしてあってメモ欄は全体の半分もなく、どいつもこいつも表紙に2012年と印刷してあるものばかりだ。考えてみると、こうしないと毎年売ることが出来ないから当然なのだろう。一方で、カレンダーがついていないただのメモ張ならいくらでもある。しかし、カレンダーのついたメモ張というものはないのだ。

それであきらめて家に帰ったのだが、ネットで調べると完璧なものが見つかり、それを売っている店に行って買った。バインダー式になっているので、別売りの用紙で好きなように構成できるのだ。ダビンチというブランドで、メモ張としては異常に高い物だが、本当に欲しいものが手に入った嬉しさでいっぱいである。品質が良いことも偉いが、こういう細かな客のニーズに応えるところも高級品だということなのに違いない。牛革の匂いもなんともかぐわしい。革が手になじんで手垢が染み込み、ボロボロになるまで使い込もうと思う。

私はブランド指向ではないが、今回ばかりは「なるほど、ブランド品っていいもんだな」と思った。ただし、手帳ぐらいで止めておこうとは思う。靴だのカバンだの時計だのに興味を持ち始めたら大変だ。いわんや車をや。

元旦のネットカフェ

昼はやることもないので近くのネットカフェに一人で行ってきた。元旦のネットカフェにはカラオケの客は次々と入ってきたが、マンガ喫茶コーナーにはほとんど人がいなくて、気温も結構低くすっかり寒くなってしまった。

『カバチタレ!』を読みに行ったのだが、途中でかわぐちかいじの『僕はビートルズ』が目に入り、最新巻の第7巻までを完読した。ビートルズのコピーバンドをしている若者4人が、偶然、ビートルズがデビューする直前の時代にタイムトリップする話だ。4人は本物のビートルズよりも先にビートルズの曲を次々と発表する。それを聞いたデビュー前のビートルズがさらにすごい曲を書いてくれるに違いないと思ったからだ。ところがジョン・レノンはあまりに完璧な4人の曲(本当は彼らが将来書くはずの曲なのだが)を聴いてショックを受け、デビュー前にビートルズを解散してしまう。4人は世界からビートルズを奪ってしまった責任を感じ、自分たちがビートルズの曲を世界に残す決意をするが、あまりに簡単に完璧な曲を作る彼らの素性に疑問を持ち始める人が現われ・・という話だ。作者のかわぐちかいじは、ビートルズの音楽の素晴らしさを間接的に描きたかったという。まさにその通りの内容で、読んでいて何度も鳥肌が立った。

その後、『ガラスの仮面』のいいところを飛ばし読みし、『カバチタレ!』を4冊読んだら7時間も経っていた。

途中、天婦羅ソバ+塩カルビ丼セットを注文して食べたが、大変に美味しくなかった。私はだいたいこういうメニューで美味しくないということはないのだが、なにしろソバの汁がお湯のように薄いのだ。ソバのタレの濃度をケチっていったい経費がいくら浮くというのだろうか。「糖尿病のためには塩分を控えた方が良いのでこれでよかったじゃないか」と思うことにした。つづいて手をつけた塩カルビ丼は、ご飯は水分が多すぎてカルビは脂身が50%以上の面積を占めるもので、こちらも「カロリーを抑えるためにはちょうどよかったじゃないか」と思うことにして半分だけ食べて残した。

まあまあ印象深い元旦となったのであった。

初夢

元旦の朝、とても不愉快な夢を見た。

会社の前社長となぜか私が卓球の試合をすることになったのだ。前社長とは話したこともないし卓球経験者でもないのだが、なぜだか卓球の試合なのだ。ところがいざ試合をしようとすると、その前にプレゼンだの打ち合わせだのがあって、なかなか試合ができない。結局、試合どころか卓球台もラケットも出てこないうちに夢は終わった。まったく不愉快である。ちなみに、その前社長がペン裏ソフトであることだけは確定しているのであった。年配者であるがゆえのことだろうか。

黙祷

リビングの壁に貼っている息子たちの小さい頃の写真を見るたびに「もし震災で誰かが死んでいたら」と思うと胸が締め付けられる。一生、写真を見て泣いていたことだろう。クリスマスや正月といった印象深い思い出がある日には特にそうだろう。

あの日、しばらくは一人の行方がわからず、妻は一時、あきらめたのだ。

家族が死なずに済んだ幸運を噛みしめるとともに、家族を亡くした人、亡くなった人に申し訳ないような気持ちになる。

県道のアビイ・ロード

ビートルズになりたかった高校時代、家の前の県道で撮った写真とアビイ・ロードを合成した。ロンドンの町並みに忽然とビニールハウスが現われている。

どうだ、まいったか。

卓球談義

飲み会の後は杉浦君と田村の家に行って、自分たちの練習風景のビデオを見ながら卓球談義となった。

田村は、グルッパのドライブがどうのこうのと立ち上がって吼えていた。

少なすぎる梅酒

友人たちと恒例の忘年会を行った。

この店、料理は美味しかったのだが気になることがあった。梅酒や焼酎のロックを頼むと、コップにあまりに巨大な球形の氷が入っているために入っている酒の量が少ないのだ。どれくらい少ないか確かめようと、氷だけとなったコップにカクテルを注いで見ると、なんとほんの2cmほどそそいだだけでコップは一杯になってしまった。ムチャクチャな少なさである。写真の赤い円が氷の大きさだ。カクテルに入っている氷もかなり怪しい大きさではあるが。

あまりのことに面白がって写真撮影をする杉浦君であった。

『アビイ・ロード』のB面

注文をしていたジョージ・ハリスンの伝記映画『リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』のブルーレイが届いた。念のために書いておくと、ジョージ・ハリスンとはビートルズのメンバーだった人で10年ほど前に死んだ人だ。

当然、ビートルズ関係の映像やらエピソードがたくさん出てきて、勢いがついてしまったので、久しぶりにビートルズの曲を聴き込むことになった。

何ヶ月か前にテレビでビートルズの曲名をタイトルにした映画『ゴールデン・スランバー』を見たこともあり、その曲が入っている『アビイ・ロード』のB面(アナログレコード時代の用語だ)を聴いた。

『アビイ・ロード』はビートルズのメンバー間の関係が最悪で、できるだけ顔を会わせないようにして録音した最後のレコードである。発売は『レット・イット・ビー』の方が後だが、録音は『アビイ・ロード』が最後だ。当然、ビートルズ自身もこれが最後かもしれないと思いながら録音したので、曲の内容とか歌詞がそれを意識したものになっている。少なくともファンにはそう聞こえるが、ロックという表現形態を考えれば、バンドの状況を歌にしていたとしても不自然ではない。

『アビイ・ロード』のB面は曲の間の切れ目があまりなく、メドレーになっている。未完成の曲が多かったので、面倒だからつなげてしまえとポールが思いついたと言われている。
メドレーの後半「ゴールデン・スランバー」では「昔、道があった/故郷へと帰る道」という詩で曲は始まり、黄金のまどろみを誘う子守唄が奏でられる。
次の「キャリー・ザット・ウエイト」ではいよいよ「おまえはあの重荷をずっと背負っていくんだ/これからずっと」と繰り返し「僕は君にまくらを渡すわけじゃない/招待状を贈るだけだ/そしてお祝いの真っ最中に/僕は倒れる」といかにも意味深なことを歌う。彼ら自身へなのかファンへ向けてなのかとにかくただならぬ歌詞だ。

そして曲調が変わり「ジ・エンド」へとなだれ込む。冒頭に登場するのは、ビートルズの曲で最初で最後のドラム・ソロだ。かつての無名時代、メンバーがドラマーを探していたとき、ドラム・ソロなんかやる自己顕示欲の強いドラマーは嫌だと思っていたボールは、声をかけたリンゴ・スターに「ドラム・ソロなんてどう?」とわざと聞いて、ドラム・ソロをやりたがらないことを確認したというエピソードを自然に思い出す。メンバーは、最後を迎えるにあたってその花道をリンゴに用意したのだ。
ドラム・ソロが終わると、今度はこれまたビートルズには珍しいギター・ソロだ。ビートルズはテクニカルなバンドではないので、ギターのテクニックを誇るような曲はほとんどないのだが、ここでは憎いことに3人のメンバーが、ポール、ジョージ、ジョンの順で同じ長さづつ思い思いのソロを3回繰り返して弾く。もちろんこれは聞いて分かるわけではなく、そういう説明がされているというだけのことで、本当はこの順ではないのではないかとか、誰かがひとりで弾いているのではないかとか言っている人もいる。

最後のジョンのギター・ソロが終わると同時にそれまで大量の楽器で盛り上がっていた音はすべて消えうせてポールのピアノの単音だけとなり「結局のところ/君の受ける愛は/君が与える愛と同じになるんだ」と歌われ、オーケストラがかぶさり音的にも大団円を迎える。
http://www.youtube.com/watch?v=4HCaBAV4ZTI&feature=related

余りにも見事な構成である。後年、ポールがアビイ・ロードのメドレーをスタジオで再現したとき、エンジニアが感極まって泣き出したという。そりゃ泣くだろ、目の前でポール・マッカートニーにこれをやられたら。

そのようなことを思い出しながら『アビイ・ロード』のメドレーを聴きなおしたのだった。オチがなくてすまん。

善意合戦

正月が近づいて思い出すことは、親戚同士がよくお金を押しつけ合う光景だ。

お互いに遠慮だか礼儀だかを重んじて相手にお金を押し付け合うのだが、この光景がなんとも私には不愉快なのだ。一度や二度のやりとりならわかる。しかし延々とこれを続けるのはどういう神経なのか。

どう考えても相手はお金を渡したがっているのだから、それを突き返すのは礼儀どころか相手のことを考えていない自分勝手な所業である。中には、自分の金を延々と返されることに本気で腹を立てて怒り出すヤツまでいたり、帰り際にこっそりと相手の持ち物に金を忍ばせて勝った気になるヤツまでいる始末だ。こういうのは、礼儀が何のためにあるのか、まるで分かっていない人たちがやることなのだ。礼儀を「善意の勝負」だとでも思っている風である。

私は小さい頃からこういう光景を見せられてきて、そのバカバカしさにほとほとうんざりさせられてきた。小学生だったあるときなど、親戚が余りにも目に余る金の押し付け合いをしているのを見てムラムラと腹が立ってきて、そのお金を横から取り上げ「そんなに要らなかったら俺が捨ててやる」と言って遠くに投げたことがあった。当然、父にしたたかにぶっ叩かれて泣く羽目になったが、私の考えは今も少しも変わらない。

その反動もあってか、私はお金を出しても二度ぐらい遠慮をされたら引っ込めるし、もらうときも同じである。その方が相手は心地よいのだし、こちらは金が儲かるのだから一石二鳥だ。とにかくこのような空疎なやりとりは一刻も早くやめてもらいたいものだ。

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