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荻村伊智朗の伝記

卓球の本を集めて久しい。

これまでいろいろな卓球の本を買ったりもらったりしたが、その中でも特別貴重な本が、荻村伊智朗の伝記『荻村伊智朗 スポーツ界伝説の人物とその世界的使命』だ。

シェリル・ロバーツという人が1993年に発行したもので、私は日本語版と英語版を持っている。こんな貴重な本をいったいどこから入手したのか定かではないが、ひとつは大学の卓球同好会の先輩で米谷さんという人が、DVDのお返しに送ってくれたものだ。

この本、内容はまあ普通なのだが、もの凄いのが挿絵だ。表紙は写真を写しただけあってまともなのだが、他の絵が凄すぎである。下手ウマとかそういう問題ではない。なにもかもが奇妙に歪んでいて、一度見たら忘れられない強烈な絵だ。右下の絵も、荻村がカバンに手を入れているところだが、あまりに顔が怖いため、なんだかエスキモーがアザラシの腹かっさばいて手を入れているかのようだ。さらに、いくら文章を読んでも、この挿絵に該当する場面が見当たらない。いや、そもそも何をしているところなのかさっぱり分からない。

まったく素晴らしい本だ。

どちらの頭が固いか

よく、科学者は頭が固いと言われることがある。とくに、超能力や幽霊などのオカルト談義になると、そういうものを証拠がないと認めない科学者に対して固いと表現されることがある。しかしこれは事実だろうか。

興味深い実験がある。ある大学で、学生を集め、占星術を信じるグループと信じないグループにわけ、それぞれに対して、その信念に反する実験結果を捏造して見せたのだ。つまり、占星術を信じるグループには、星座と運勢が関係がないデータを作って見せ、信じないグループには逆のデータを見せたわけだ。

実験の目的は、これらの人たちが、自分の信念と異なる事実を突きつけられら時に、信念を変えるのか変えないのかを見ることだ(それにしても意地悪な実験だ。さすが科学者)。

結果は見事に分かれた。占星術を信じないグループの人たちの多くは信念を変え「占星術には何かあるかもしれない」と考えを改めたのだ。それに対して、占星術を信じるグループの人たちは「これはたまたまだ、データがおかしいんだろう」と言う具合にデータを認めず、信念を変えることはなかったのだ。

どちらが頭が固いのか明白だろう。オカルトを信じている人たちは、どんな否定的な証拠をつきつけられても、それとは関係なく信じたいから信じるのである。ただし、オカルト否定派の中にも理由もなく闇雲に否定する人たち(大槻教授みたいに)がいるが、これも否定したいから否定しているだけであり、信念の方向が違うだけで信者と同じ穴のムジナである。

そもそも、科学者の仕事は定説を覆す新事実の発見が主なわけだから、頭が固くては科学者としても全然ダメなのだ。だから、科学者が頭が固くて理論に合わないことを認めないというのは間違いだ。科学者の神様は信念や理論ではなくて「事実」なのだ。

クラッシュについて

クラッシュがどのようにチンピラなのかあるいはチンピラではないのか、ちょっと説明したい。あの映像だけで誤解されるのもまずいので。

ともかく、箇条書きにしてみる。

・クラッシュの歌はラブソングはほとんどなく、1人称で書かれた社会や政治についての歌ばかりである。先に紹介した映像も「白い暴動(white riot)」という曲で、「白人の暴動を、自分自身の暴動を起こせ、コントロールする側になりたいのか、される側になりたいのか、自分で決めろ」というような歌だ。
・メンバーは喧嘩早く、ちょっとしたことで殴り合いの喧嘩をする
・普段から過激なファッションをしているのみならず、ガンをつけたりもするので、明らかに近づきたくない人たちである
・ドラムがサウンドの要と考えるリーダーのジョーは、ドラマーをオーディションでロンドン中を探したが、200人までオーディションをしたことは覚えているという。その末に見つけたのがトッパーだった。
・ジョーは、ギターのミックを「時間を守らない」という理由で、ドラムのトッパーを「ヘロインに手を出した」という理由でクビにし、それによってバンドとしての力が落ち、解散につながった。「メンバーがドラッグをやっているのに『ドラッグを止めろ』という歌を歌えるわけがない」と語った。
このように、チンピラといっても、本人たちとしてはものすごく真面目なのだ。しかも一般的な不良少年と違って「外見は怖いけど仲間内ではいい奴」ではなくて、なんだか本当に殺伐としていて、自分の信念のためには仲間を犠牲にすることも厭わないような奴らなのだ。つまり、日本で言えば不良やツッパリ(死語)ではなくてどちらかといえば学生運動の過激派というところだろうか(これとても私は全面的には認められないが)。

これに対して菅生のロックンロールオリンピックでDJが語った「女の子の一人も守れねえのかよ」「どうせお前ら就職するんだろ」というセリフは、甘えと通俗モラルが正体の見掛け倒しの反逆精神であり、私の知っているロックと正反対のものだった。だからやたらと腹が立ったのだった。

パンク

私はロックが好きだが、そのくせ、マスコミなどで「ロック魂」「生き方がロックだった」などという表現を見ると、何か気恥ずかしい気持ちがする。今、こう書いていてもとても居心地が悪い。

それは、世間一般に思われているロックのイメージが「不良」「暴力」「粗暴」というものであり、私はもともとそういうものは嫌いだからだ。ニュースなどでロックという言葉が出てくると、ロックを肯定する内容であっても「本当はバカにされてるんじゃなかろうか」と思ってしまうのだ。

困ったことに私がもっとも好きなのはパンクロックという種類のロックで、もっとも過激で暴力的なロックなのだ。1977年のこの映像を見てほしい。
http://www.youtube.com/watch?v=TwUpZDf3aDA
技術も何もない、勢いだけなのだが、私はこのバンド、クラッシュに完全にノックアウトされているのだ。
ジョー・ストラマーのギターはただ痙攣しているだけだし、ポール・シムノンのベースはかっこばかりつけていてろくに弾いてないように見えるし、ミック・ジョーンズのギターは「もう一回同じフレーズ弾けねえだろ」と言いたくなるようなめちゃめちゃさだ。そこがかっこいい。

さて、私が否定している不良少年と、私が肯定しているクラッシュは何が違うのだろうか。彼らはただ音楽の才能があっただけのチンピラなのだろうか。そうは思いたくないが、実はそうなのかもしれない。

さらにこうも考える。クラッシュはロック史に残る偉大なバンドだから私は認めているが、もし今、同じ質の若いバンドが日本で登場したら、私はその価値を素直に認めることができるだろうか。できないような気がする。

この矛盾がどうにも困るのだ。

寄せ書きラケット18,120円で落札

寄せ書きラケットが最後には2万円近くの値がついて落札されたようだ。こんなものをほしがる人が複数いたとは嬉しい驚きだ。

18,120円という半端な値段に、競り合いで負けた人の最後のあがきが見て取れる。私は入札しなかったが、自分がほしいときは、落札前にブログに書くのは厳禁だと分かった。

500円でほしがっていた2番弟子の田村が「公開先に立たずですね」と書いてよこした。

卓球マニア

ゲストブックにK.O.さんという卓球マニアの方から、寄せ書きラケットのサインの主について情報が寄せられた。どうも、宮田俊彦と長谷川清隆という人がいるらしい。しかし、手元の当時の卓球雑誌では確認できなかった。よくこんな人たち(失礼)を知っているものだ。

オークション開始時、500円だったのに、今では1万円になってしまっている。このブログに書いたせいだろうか。

ところで、オークションを良く見ると、ラケットには両面書かれているらしく、藤井基男、長谷川喜代太郎、野平明雄、児玉圭司などの名前が見られる。

問題は、中央付近にある、中心に点の打ってある円だ。これはもしかして、田中利明の「田」ではないのか。そういえばその隣にある小さい模様が「中」のように見えなくもない。その近くにあるアルファベットはもしかしてToshiakiではないのか?
しかし田中利明がわざわざアルファベットを書くようにも思えないし、そうも読めない。

本当は誰なのだろうか。

超ド級

「超ド級」と書いたが、このドとはなんだろうか。単なる強調のドなのかと思うとそうではない。これはイギリスの戦艦、ドレッドノート号の略なのだ。つまり、超ド級とは、「戦艦ドレッドノート号を超える戦艦」という意味であり、これが転じて破格のクラスのものを表すようになったのだ。だからドを漢字で書くのは当て字で、片仮名でドと書くのが正式だ。こんなことまで辞書にはちゃんと載っているのだ。

辞書は本当に面白い。もっと楽しい発見を期待して、電子辞書を「あ」からすべて読もうとしたが、2度ほど断念している。たぶん一生できないのだろう。

ヤフオクの寄せ書きラケット

知人から、ヤフーオクションに貴重なラケットが出品されていると情報があった。
1956年世界選手権東京大会の日本代表選手たちの寄せ書きラケットだ。
http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/129953115

それぞれのサインの主を当時の卓球雑誌をあたって調べてみた。

まず簡単に分かるのは荻村伊智朗、富田芳雄、角田啓輔、大川とみ、渡辺妃生子だろう。

ちょっと難しいのが川井一男、設楽義子だ。何が難しいって、読むのがではない。失礼ながら、あまり有名ではないので、あまり知っている人がいないという意味だ。

そういう意味で上級編は次の3名だろう。

坂井昭一、金田一丈夫、田坂常雄

後半2名は選手ではなくて、日本選手団長と監督なのだからさすがの私も知らなかった。

最後までわからなかったのが、右端の縦に並んでいる2名と左下のやつだ。右のは田中良子と読めなくもないが確信がないし、左のは長谷川と書いてあるように見えるが、長谷川喜代太郎なら総監督なのだが、どうも喜代太郎には読めない。

なんといってもこの寄せ書きの最大の欠陥は、田中利明と江口富士枝がないことだろう。こんな超ド級の選手のサインがないなんて。

ところで、設楽(したら)義子っていうのは、山形出身でもあることだし、私の隣の大学にいた設楽選手のお母さんか何かなのだろうか。卓球が得意な設楽という名字の人がそういるとも思えないし、顔写真も似ている。

それにしれも、字を見るだけで荻村伊智朗はなんかカッコいい。ただの字なのに、もう、光って見えてしょうがない。松下浩二が、自分の試合のビデオを見ていて、不意に荻村伊智朗が登場しただけで緊張するという。なんともすごい人がいたものだ。生きているうちに会いたかった(下手な記事を書いて抹殺されていたかもしれないが)。

社内卓球の奇妙なルール

昼休みの卓球は今も毎日続いている。

私はときどきそれを見に行くのだが、先日からちょっと気になる光景を見ていた。ときどき、台上で2バウンドするサービスを見逃してノータッチする場面があるのだ。いくら動きが悪いアメリカ人とはいえ、それほど短くもないサービスにノータッチとはおかしいし、第一、わざと動きを止めている様子がある。

先日、ちょうどそれがゲームの最後の場面であったため、ノータッチをしたレシーバー側に点が入ったことが分かった。驚いて、「今、どうしてこっちに点が入ったの?」と聞くと、「だってダブルスでは2バウンドするサービスはミスだろ」と言うではないか。どうも、”卓球通”であるデリルがそういうルールをみんなに教えたものらしい。ミスどころか普通の卓球の試合では、長いサービスはすぐに相手に攻撃されるので、90%はショートサービスを使うのだ。

会社のアメリカ人たちはずっとデリルの誤ったルールを信じていたのだった。私が卓球のラリー回数を多くするために考えていたルール改正案と奇しくも同じであった。

1986年 ロックンロールオリンピック in 菅生

ロックが好きなのにミュージシャンやファンの素行の悪さが嫌いである矛盾の続きだ。

それを初めて強く感じたのは1986年に宮城県菅生であったロックンロールオリンピックという野外コンサートだった。ルースターズとスターリンを目当てに行ったのだが、ファンたちが中高校生ばかりで、すでに22歳だった私は場違いなところに来てしまったような気がした。レコードは聴いていたが、コンサートにはほとんど行ったことがなかったのだ。

ロックンロールオリンピックは、朝から晩まで何組かのロックグループが順番に出てくるお得なコンサートで、当時、毎年夏にやっていたイベントだった。

客席は椅子もないただの芝生なので、人気グループが出てくると客たちは一斉に前列に押しかける。そのたびにDJが、前の人が怪我をするので前に押しかけないように注意をしていた。何度注意をしてもほとんど効果がないようだったが、あるときついにこのDJの我慢が限界に達した。突然、声色が変わり「お前ら、止めろって行ったら止めろ!」と怒鳴ったのだ。そこまではいい。次にこのDJは「お前ら、女の子のひとりも守れねえのかよ」と言ったのだ。なんだそれは。いったい、何がこのDJにこんな不良同士の仁義のような奇妙な台詞を言わせたのだろう。このDJ本人が、大人にもかかわらず本気でこのような価値観を持っているのか、それともロックファンの中高生ならこう言われればその気になって反省すると思ったのだろうか。とにかくこの不快感は忘れられない。

さらにこのDJ、怒りが収まらないと見えて、ファンたちに説教を始めた。はっきり覚えているのは次のような台詞だ。「どうせお前ら、こうやってロックだなんだと大騒ぎしてるけど、あと2、3年もすれば綺麗にスーツ着て大人しく就職活動して、電車に揺られてるんだろ?」と批判したのだ。わけが分からない。一緒に行った、中学教師を目指して就職浪人をしていた友人が「間接的にオレが批判されてんのか?就職のどこが悪いんだ」と言った。

このDJの主張を要約すると、どうもロックファンは、コンサートでは会場の秩序ではなくて女の子を守るために前に押しかけないようにして、なおかつ就職はしないものらしい。

こいつ、たまたま自分がDJという職を得ているからそんなことを言っていられるんであって、DJの才能も音楽の才能もない大多数の凡人にそんなことを勧めてどうしようというのだろう。この世界では物事がわかっていないこんな人間が大きな顔をして、あろうことか中高生に説教までしているのだ。

ロックという表現は大好きだが、その周りにたむろしているこういう人たちとは絶対に関わりたくないと強く思ったものだった。