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ライオンの気持ち

小林秀雄で思い出した。そういえば、高校時代、現代国語の教科書に小林秀雄の文章が載っていたのだった。それはたしか、動物園の批判で、たとえ飢えても野生で暮らした方が動物は幸せだ、動物園などというものは止めろというような話だった。

これを読んで感想文を書く宿題があったのだが、私が親しくしていた友人が、なかなか面白いことを書いた。他の人が小林の文章に共感する感想文を書いた中、この友人は徹底的に小林秀雄をこきおろしたのだ。檻に入れられるより飢えた方がましだなどとどうして小林は言えるのか。ライオンやトラの気持ちが分かるのか。彼らに聞いてみたのか?という意見だった(ライオンの気持ちというところが可笑しい)。

先生がそれを朗読してみんなに紹介したとき、教室に笑いが起こったが、先生は「これは面白い」と高く評価した。高校時代の私は、まさか授業でこんな感想文を書いてよいものとは思っていなかったから、とても衝撃的で、その友人を見直したものだった。

ただし、その友人は高校を卒業してほどなく精神を病んでしまったが・・・。

何が「少ない」のか

先の文章の最後の方に「少なくとも現代においては」と書いたが、この場合の「少なくとも」とは、いったい何が「少ない」のかお分かりだろうか。ちなみに英語でも”at least”と、同じ言葉を使うので、もともとは英語の直訳だと思われる。

これは私が考えた問題で、学生時代、2番弟子の田村をこれでいじめたことを思い出した。

Roman Holidayの続き

その後、Roman Holidayについて何人かのアメリカ人に聞いてみたが、熟語の意味を知っている人は、ただのひとりもいなかった。南部だからかと思ってネットで調べてみると、ある人がそういう質問をしているのを見つけた。「Roman Holidayにはそういう意味があることを知ったが、この楽しい映画の題名にどうしてそんな悪趣味なダブルミーニングをしたのか」という質問だ。それに対して別の人が「こんな50年も前のマイナーな映画で、監督のウイリアム・ワイラーがその熟語を知っていたかどうか、ダブルミーニングのつもりだったか、今となっては確かめるすべがない、これはただの娯楽映画なんだからそんな意味のないことを考えるのはよせ」という回答をしていた。

どうも、辞書には載っているけどほとんどの現代のアメリカ人はこの熟語を知らないようだ。となると、私が読んだコラムに書いてあった、『ローマの休日』は誤訳だという主張は、少なくとも現代においては全然違うということになる。

確かめてみないと分からないものだ。それにしても『ローマの休日』をマイナーな映画とは、何者だコイツ?かなり信用できないような気がする・・。

天丼とカツ丼

先週、近隣(といっても車で2時間だが)のコロンバスという町の日本食レストランに行ってきた。

入ってみると、寿司だけではなくてなんと「TENDON(天丼)」「KATSUDON(カツ丼)」と書いてある。喜んで注文をして絶句。来たのは下の写真のような無残なものだった。丼ではないしご飯はチャーハンだしとてつもない量だし天ぷらには何もかかっていない。

思わずウエイトレスに「これ、本当に天丼なんですか?」と聞くと、日本人からはいつも「違う」と言われるけど、アメリカ人用にアレンジした結果だと申し訳なさそうに説明された。

ところがこのチャーハンが意外にもとてもおいしく、アメリカに来て食べたチャーハンで1,2を争う美味さだった。これが天丼だということさえ忘れれば何の問題もなかったのだ。

「知識は不要」と言う理由

知識がないよりはあった方が表現をより味わえるというのは当たり前のことだと思うが、どうしてその逆の主張をする人がいるのか考えてみた。

ひとつ。そう書けば、知識の少ない人たちが喜ぶからだ。「そうか、理屈や情報など要らない、ただ素直に感じればいいんだ。大事なのは心だ。やつらは何もわかっちゃいないんだ!」というわけだ。それで本が売れたり人気が出るので、そう書く人がいるわけだ。小林秀雄のような知識だらけの教養人がそう書くのは、そのためだろう。

もうひとつ考えられるのは、アーティストの言っていることを真に受ける人がそういう考えになるということだ。言うまでもなく、アーティストは自分の作品を評論家に偉そうに論評されるのは好きではない。これは暴走族が警察を嫌うのと似たようなもので、当たり前のことだ。で、アーティストを妄信しているファンは、彼らの言っていることをすべて本気にして「理屈なんか要らない、自由に見て感じればいいんだ」などと言うことになるのではないだろうか。

物を知らないことをそう威張らなくてもよいと思うのだがどうだろうか。

知識と感性

『ローマの休日』の題名についていえることは、表現を楽しむのに、知識はあった方がよいということだ。よく、芸術を味わうのに知識は要らない、素直な感性で味わえという主張をする人がいる。私も十代の頃はジョン・レノンの話を真に受けて、評論などクソだと思っていた。

しかし段々と、そうではないことがわかってきた。ジョン・レノンは歌を作って歌うことの天才だが、彼の考えまで本気にする必要はなかったのだ。

表現を味わうのに知識は絶対に必要である。なぜなら、我々が生まれてこの方、身につけてきた人間の感情、文化、そういったものすべてが知識に他ならないからだ。言語も知らず日常生活もしたことのない人間が表現を理解することなど不可能である。せいぜい、直接刺激に対して痛いとか熱いと感じることぐらいしかできないだろう。その意味で、知識が不要な表現はあり得ないのだ。

あとは、知識の程度の問題でしかない。日常生活の知識なのか、その作品が作られた国の文化についの知識なのか、作者についての知識なのか、作品の背景についての知識なのか。日常生活の知識はあっていいが、作品についての知識を知るのは不純だとする根拠はどこにもない。

先の小林秀雄の本だが、この点でもかなりおかしなことが書いてあった。「芸術作品の良さがわからないという人がいるが、芸術作品は、理解しようとするのではなくて素の状態で感じればいいのだ」と説く。なんだか今流行りのインチキセラピストみたいな口ぶりだ。かと思えば、別の話ではゴッホの人間性と作品の関係について詳細に述べてみたりだ。作品についての情報を得て理解して感動せよと言ってるのか、それらを否定しているのかどちらなのかわからない。いきあたりばったりの思いつきで書いているとしか思えなかった。

ローマの休日

私は『ローマの休日』という映画が大好きだ。初めて見たときは絶妙なユーモアに声を出して笑い、オードリーの魅力に魅せられ、映画が終わったときにこれが現実ではなく作り物であり、この愛すべき人たちが実在しないことを思い出して、なんともいえない絶望感に襲われたものだった。

何週間か前、ネットでこの映画の題名についてのコラムを読んだ。この映画の原題はRoman Holidayで、邦題はこの直訳になっている。しかし、実はRoman Holidayとは熟語で、古代ローマで休日の娯楽として奴隷を戦わせるショーがあったことにちなみ「はた迷惑な遊び」さらには転じて「スキャンダル」という意味なのだという。だからこれは一種の誤訳だとさえいえる、と、こう書いてあったのだ。

この映画は、ある国の王女がローマを訪れ、宮殿を抜け出して新聞記者と恋に落ちるというスキャンダルを描いた映画なので、Roman Holidayという題名は、実は巧妙なダブルミーニングになっているというのだ。確かに辞書で調べるとそう書いてあり、なるほどと思った。こんなに好きな映画なのに、私は題名の本当の意味さえ長い間知らずにいたわけだ。でも、こういう新しい発見はやはり嬉しい。

英語圏の人は本当にみんな知っているのだろうかと思い、同僚のマイクとカイルに一応それを確かめてみた。すると、まず二人ともこの映画自体を知らなかった。それはいいとしよう。そこでマイクにRoman Holidayの意味を聞いてみると「何よそれ。ローマの休日?東京の休日やパリの休日と同じだろ。意味なんかない」と言うではないか。「辞書に載ってるぞ」というと、「俺はな、辞書は読まないんだ」と言われた。カイルも同じだった。

ダメだこりゃ。

尊敬する人

赴任をする前の研修で、何かの話の流れで講師が「子供に『尊敬している人はお父さんです』って言われたら嬉しいでしょ。嬉しい人手を挙げて」と言った。私は嬉しいと思わないので手を上げなかったら「あなた、嬉しくないんですか」という。「いや、嬉しくはないですね」と答えると「変わった人ですね」と言われたので、誉められたと思うことにして、それこそいい気持ちになった。

小さい子供に尊敬していると言われてなぜ嬉しくないのかしばらく考えてみた。無論、不愉快ではない。ただ、物事を知らない子供の戯言だなと思うだけだ。身内の大人だというだけで尊敬されて嬉しがるわけにはいかない。物事を知る歳になってなお私を尊敬し、かつそのポイントが的を射たものなら嬉しいと思うだろう。トンチンカンな理由なら「まだわかってないのか」と残念がるだろう。

私は子供に冷淡というわけではない。それどころか、尊敬されようが軽蔑されようが嫌われようが、そんなことはまったく関係なく私は子供を自分の子供だというだけの理由で底なしに大切に思っている。他にどんな理由も要らない。

世界最高峰の卓球

素晴らしいニュースだ。http://www.world-tt.com/cgi-bin/europe/europe.cgi#8/10

ウクライナ卓球協会のメンバー14人が標高5,600mの山に登り、山頂で卓球の試合をするという人類初の快挙を成し遂げたという。近くギネスブックに申請するそうだ。私の記録といえば、割れたピンポン球でハナをかんだことやスキー場でリフトから小便をしたことぐらいだ(2007/9/28参照)。

我々も負けてはいられない。田村、出番だ!

スポーツオタクのVIP

昨日、日本の本社からVIPが数名、工場の視察にいらした。社員一同、緊張の趣で向かえ、滞りなく工場視察を終えることができた。

夜になって、VIPたちとの飲み会に参加せよとの連絡があり、行くことになった。そんな偉い人たちと何を話したものか、失言をして「ハイ、君クビね」などということになったらどうしようなどと不安になっていると(そんなことがあるわけもないのだが)妻が「話す必要なんかないの。偉い人たちはみんな話がうまくて話したがりで、それで偉くなったような人たちなんだから、盛り上げるように聞けばいいの。誰もお父さんの話なんか望んでないから」と言われた。なるほど、そう言われればそうだ、と気持ちが楽になった。

確かにVIPたちは全員が話が面白くて引きこまれ、とても楽しい時間を過ごした。中でも前社長についての話が可笑しかった。

事前情報で、VIPの中でもっとも偉いIさんは体育会系だと聞いていたので、いきなり「並べえ~っ!」「声が小さい!」などと言われてシバかれたりはしないかと思っていたが、そんなこともなく、むしろ隣の席の私に話題を振る気遣いさえ見せる人だった。

そのうち、私が卓球に詳しいことに話がおよぶと、そこから思わぬ展開となった。なんとIさん、卓球経験者というわけでもないのに卓球に詳しいのだ。荻村伊智朗の話を振ってくる一般人がいるとは夢にも思わなかった。71年の名古屋大会でのピンポン外交、90年代のスウェーデンの選手が左利きが多かったこと(確かに6人中、3人が左利きだった)というようなことまで知っていて、あろうことか「石川は可愛い」「彼女コンタクトなんだよね」「彼氏いるの?」などと言う始末だ。

実はIさんは体育会系というよりは自称「スポーツオタク」で、卓球について以上の詳しさで他のスポーツ全般について広く深く知っていて、オリンピックの記録やら用具の歴史などについての知識で頭が一杯の人だったのだ。それで、卓球に関しても素朴な疑問がいろいろとあるらしく(カットマンの戦略についてなど)それらの質問に答えて、とても喜んでもらえた。

卓球の話をするときはなぜかフォアハンドの素振りを入れながら話してくれたのだが、そのフォームもちゃんと肩が回っていて卓球部といってもおかしくないフォームだった(フォームのおかしい卓球部員には反省してもらいたい)。嬉しい驚きだ。

卓球に詳しいのはIさんだけではない。もうひとりのVIPであるMさんが、愛ちゃんや石川に言及したのは当然のこととして、荘則棟とベンクソンの名前を出したのには驚いた。荘則棟が前陣速攻で、後にスポーツ大臣になったなどという話をするのだ。他にも『タマス』だの『ニッタク』『協和発酵』などの単語を口走るのだから、いったい何者なのだろうかこの人たちは(さすがに『アームストロング』とは言わなかった)。

これまで、卓球に詳しいことが仕事で役に立ったことはほとんどないが、今回ばかりはスポーツオタクのVIPと楽しく語らう役に立ち、無駄なことというのはないもんだなと思った(二度とないと思われるが・・)。

最後にIさんに「卓球の話は面白いけど女の子にはウケないでしょ」と言われた。アウッ。

なお、宮根さんも得意の体操のウンチクを披露し、それもかなり盛り上がっていたので私も嬉しかった。