カテゴリー別アーカイブ: 未分類

チック

癖と言えば、私は小学校高学年から中3ぐらいまで、非常に激しいチックhttp://ja.wikipedia.org/wiki/トゥレット障害と言われる癖があった。

顔を歪めたり、後を振り向いたり、とにかくそうしないと気がすまないのだ。これは文字通り「気がすまない」だけであって、肉体的に何か違和感があるわけではない。私が余りに異常な目つきをするものだから、祖母は私を眼科に連れて行こうとしたが、私は目の問題ではないことが自分でよくわかっていたので「違う、目じゃない。行くなら精神科だ」と言ったものだ。結局、病院には行かなかった。特にきっかけなどは思い出せない。

中学生になるとだんだんと他人から真似されたり「顔に蚤がいるみたいだ」などといわれるうちに自然とやらなくなった。

チックの経験がない人にこれを説明するのは難しい。反射でもないし体の違和感のためでもない。むしろそれをすることは疲れるし面倒なのだが、しないと気がすまない。一種の儀式のようなものだ。似ているものを探してみたがなかなか見つからない。

あえていえば、机の上の物が乱雑になっていたら並べたくなるのと似ているだろうか。私はそうではないが、そういう人はいるだろう。2,3の品物が斜めになっていても何も支障がなく、それをまっすぐに置いた所で何も変わらなくても真っ直ぐに置き直したいという人はいるだろう。それと似ている。それが、チックの場合は、物を真っ直ぐに並べることではなくて後を決められた回数振り返ったり口をゆがめることなのだ。当時はこれがチックというものだとは知らなかったが、後にそういう人が他にもいることがわかって安心したものだった。

気がすまないためだけにやることなので、何か強い理由があれば止めることはできる。私の場合はそれは恥ずかしいということだった。だから今でも一人のときはときどき似たようなことをすることはある。

長い瞬き

他人の癖というのは気になりだすと、とても気になるものだ。

最近特に注目してしまうのは、話すときに目を閉じたまま話す人だ。自分が話している間中、目を閉じていて、話し終わると安心したように目を開いてこちらを見るのだ。私はひそかにこれを「長い瞬き」と名づけて観察している。話しにくい内容でもないし、思い出すのに労力が必要でもない。話の内容に関係なく、とにかく目をつむって話す人がときどきいるのだ。中には、白目をむいたままものすごく速い瞬きを連続しながら話す癖の人もいる。どうして白目をむくかといえば、人間は目をつむると目玉が上を向くようになっているので、そのまま瞬きをすると白目が点滅することになるのだ。

これは何かの心理の表れだと思っていると、職場のアメリカ人にも「長い瞬き」をしながら話す人を発見した。これは文化に寄らず人間という種に共通の癖なのだと思われる。しかし仕事中にこれをやられると、「いったい何秒間、目をつむったままなんだろうか」「車の運転中だったら大変だな」などと考えてしまってドキドキしてしまう。

恋愛至上主義の犠牲者

40代で未婚の女性の知人がいる。本人は結婚したがっているのだが、なかなかチャンスがなく、この歳まで来てしまったという。

美人であり性格も特に異常なわけでもない。お金も十分にある。本人が結婚する気がないならともかく、結婚したいのなら、見合いでも結婚相談所でも行けばよさそうなものだが、頑としてそのアドバイスには従わない。

見合いをしてもロクなのがいないし、結婚相談所に来るような男は嫌だというのだ。それがいかに間違った偏見であるかを言葉を尽くして説明しても理解しない。

彼女は恋愛至上主義の犠牲者である。日本で恋愛結婚が見合い結婚を上回ったのは1960年代のことだ。ほんの50年前までは誰もが当たり前のように見合い結婚をしていて、それで何も問題がなかったのだ。彼女はたまたま、恋愛が何よりも価値があるという妄想がはびこる現代に生まれたばかりに、根拠のない偏見にとらわれて結婚の機会を逃し続けているのだ。

見合いや結婚相談所に偏見をもち、自然な出会いで相手を見つけなくてはならないという考えは、たとえていえば、スーパーで売られている果物には目もくれず、野山を歩いて偶然に見つけた果物だけにこだわるのと同じ滑稽さがある。

恋愛至上主義という現代特有の妄想にとらわれてしまった彼女には、出会いの形など何の意味もなく、どこで見つけようが気に入れば同じことであることがどうしても理解できない。

おそらくこのままこの妄想に縛られていくのだろう。果たして運よく野生の果物を偶然見つける日は来るだろうか。

昆虫採集セットの欺瞞

子供の頃、昆虫採集セットを買ったことがある人は多いだろうと思う。中でも特に印象に残っているのが、虫を殺すための赤い液と保存するための青い液があって、それを注射器で注射することだろう。この2種類の役割の違う液を注射するというところがなんとなく専門家っぽくて楽しい作業だった。

ところが、これがとんでもない策略だったのだ。というのも、知る人ぞ知る昆虫採集道具の老舗、『志賀昆虫普及社』の息子が会社に入ってきたのだ。養老猛など、昆虫好きなら誰でも知っている超有名店らしい。その後輩によると、あの昆虫セットの赤い液と青い液は、専門家らしいどころか、どちらも無意味な色水なのだという。そもそも昆虫だろうがなんだろうが、体液の何倍もの液体を注射されれば死ぬに決まっているし、昆虫は放っておいても腐りはしないという。あれは、私のように昆虫に注射して悦に入っている子供をその気にさせるための、文字通りの「子供だまし」の商品なのだという。

本当の昆虫採集家は注射など使いもせず、昆虫を傷めないように紙で包むなどする、一般人の知らない特別な取り扱いをするという。その後輩は小さいときから家業のために昆虫採集を手伝わされていて、いろいろな昆虫の飛び方や習性を心得ていて、かなりのノウハウがあるらしいが、彼にとってそれは趣味ではなくてあくまで「仕事」に他ならなかったという。

何事も一般人が思っていることと専門家の世界は違うものだなあと思ったものだった。卓球もそうなんだろうけど。

送別会での出来事

またひとり、日本に帰ることになったので、送別会を行った。ドーサンは連日40℃を越える暑さなので、プールは夜でも生ぬるい。

例によって例の如く、一次会が終わると男性たちのプールへの落とし合いが始まった。全員、そのつもりで着替えを用意してきているので、どうってこともないのだが、一応、盛り上がった。

一人、とても体毛の濃い人がいて、あまりに見事なので撮影させてもらった。じっと見ていると、彼の腹が狼男かなんかの顔に見えてくるから不思議だ。今でこそ慣れたというが、高校くらいのときにはこれが恥ずかしくて、懸命に抜いたりしていたそうだ。毛は胸からお尻までつながっているらしいが、不思議なことに背中はツルツルだった。

元の同僚にも、首と胸の間だけものすごく毛の濃い人がいた。シャツの胸元から、長いトウモロコシの毛のような豊富な毛がふさふさと出ていたのだ。それより下はいったいどんなことになっているのだろうと想像すると、なんと濃いのはそこだけで、服で隠れている部分はツルツルなのだ。とんだ見掛け倒しである。

日本人だと、全身の毛の合計の上限は限られていて、全身の毛が濃いということはあまりないのだろうか。

「〃」記号

アメリカでは日本人が可否の意味で使う、○×あるいはその中間の△といった記号は通じない。ヘタに書くと「なんだそのサークルとエックスとトライアングルは?」などと言われることになる。もちろん、一度説明すれば納得してくれるのでなんら問題はない。

さらに、日本人がよく「同上」の意味で使う「〃」という記号があるが、なんとこれは意外なことに英語圏共通だったのだ。会社の書類でときどきこの記号を見かけていて「日本の会社だからマネしてくれてるんだろう」と思ってたら、ちゃんと辞書にも載ってた。

英語では「同上」をdittoと書くのだが、辞書でdittoを引くと、その用例の中にditto markとして「〃」がちゃんと載っているのだ。

これ、ちょっと意外ではないだろうか。いや、なんとなく。

気の回しすぎ

もうひとつ気の回しすぎで迷惑をかける人の話。

飲み屋で店員が飲み物の注文を取っている場面。
ある人が「ビールお願いします」と言ったとする。すると、次の人が「ビール二つ」と言ったりするのだ(しかも二本指まで立てたりして)。前の人と合わせて二つだよ、と店員の変わりに足し算をしてやったつもりで得意満面だ(先入観)。

これがどのように迷惑なのかは言うまでもない。

気の利かせすぎ

スペース挿入で他にも不愉快なことを思い出した。

映画の字幕などを見ていると、やたらと傍点を打った文字が出てくるのだ。強調したい言葉でもなんでもないのに、傍点が打たれていて、気になって仕方がない。書いた人の考えを想像するに、あまり一般的ではない話し言葉であるために、文字の区切りを間違える人がいると思って気を利かしてやっているのではないかと思う。それ以外に理由は思い浮かばない。

しかし、下の実例を見てほしい。「きっとふくれる」「ミスらなかった」「トビ心地」こんなもの、何も傍点を振らなくても支障なく読めるではないか。どうしても心配なら「きっと、ふくれる」「きっと膨れる」「飛び心地」とでも書けばいいだけだ。こんなどうでもいい言葉にいちいち傍点をつけられて視線を集中させられるのだからたまらない。読みやすいどころか、はっきりと読みにくいのだ。傍点撲滅運動でもやりたいくらいだ。

そういうわけで、私は自分の雑誌の原稿に傍点を振るのだけは絶対にやらないよう、担当の編集者に伝えてある。

もうひとつ嫌なのが、なぜか片仮名を必ず半角で書く人だ。「今回のガイダンスの問題点は参加者のコミュニケーション不足にあります」という具合だ。文中にいきなり半角のところがあるので読んでいてひっかかるし、濁点のところで文字間隔が変わるのでこれもひっかかってしまう。文字数に制限があって、やむなく半角にして情報を入れようという場合はやむをえないが、日常的にこれをやっている人がいるのだ。

これらの書き方に私が文句をつけるのは、書いている人たちは気を利かしているつもりだからだ。面倒だとか、私利私欲のためだとか、気が利かないとかの理由でやることなら、私は大概のことには文句はない。人間はそういうものだし、お互い様だから他人に多くのことは要求はしないのだ。

ところが、半角スペースを入れたり傍点を振ったり半角片仮名を書く人たちはちがう。気を利かしたつもりで、わざわざ労力を使って読みにくく書いているのだ。親切のつもりで何メートルも後ろを歩いている人のためにドアを開けたまま待っいて、そのために後から来る人を急がせて走らせたりしてしまう迷惑な人と同じなのだ。