義姉がメールで、風呂上りに高3の娘から「ハダカデバネズミ(メキシコ産の毛のないネズミ)みたい」と言われたと書いてよこした。
添付ファイルがついていたものだから、てっきりその「ハダカデバネズミ」が写っているものと思ってドキドキしながらファイルを開いたら人形俳句写真の新作だった。
紛らわしい。
いよいよ義姉が、ある劇団からパンフレットの写真を依頼されたという。「劇団ユニット体温」という劇団で、「親の顔が見たい」という劇らしい。http://www.unit-taion.com/index.php
何から何まで怪しい感じだ。
他人から依頼された初の仕事ということで、義姉はかなり興奮しているようだ。
私が卓球王国で連載を始めたときのことを思い出す。発売日がちょうど故・藤井基男さんの出版記念パーティーの日で、東京に向かう途中、仙台駅の本屋で初めて自分の記事が載っている号を手に取ったのだった。雑誌はあとで送られてくるのに、それを買い、何度も何度も何度もそのページを見た(今でもときどき見るぞ)。
連載を始めたのは、手紙をやりとりしていた藤井さんが編集部に紹介してくれたのが縁だった。たった5年前のことなのに、その藤井さんはもういなくなってしまった。
5月に横浜に行ったとき、気分転換にビックカメラでメガネを作った。それまでの小さいものが飽きたので、ジョン・レノン風の金縁メガネだ。
しばらくすると次男が「お父さん、前のメガネの方がいいよ」と言う。その理由は「ゲームやりすぎて頭がバカになった人みたい」だからだそうだ。どういう意味か全然分からないし、第一、ゲームやりすぎてバカになっている本人が言うところが可笑しい。
何日かすると、次男がまたやってきて「自分が何を言いたかったかわかった」と言う。「ゲームばっかりやってる人は服装とか外見に興味ないのね。それで、メガネとか服とか適当に選ぶから似合わないメガネかけるってことなの」だそうだ。
感じたことを表現することが難しいことだと次男が分かるようになったことが嬉しい。メガネが似合ってないかどうかはともかく(でも前のに戻した)。
うんちくシリーズだ。
今頃のアメリカ南部は日差しが強いので、車に乗るときにサングラスをかけることがある。サングラスには、偏光がはいっているものがあるが、偏光が入っていると何が便利なのかご存知だろうか。
偏光グラスによって、水面などの反射光を押さえられることは知っている人もいると思う。しかし、反射光ならなんでも抑えられるわけではない。
光は波である。自然界の光は、いろいろな方向に振動している波が混在しているが、これが面で反射すると、その面に平行な方向の成分が減って、垂直な方向の成分の割合が多くなる。すなわち、偏光される。一方、偏光グラスというのは、ある方向に振動する波だけを通すので、これを利用して反射光を抑えるものなのだ。
さて、ここで疑問が生じる。世の中には、いろんな角度の面に反射する光がある。サングラスをかけた人が顔を傾けたりすれば偏光の角度は変わってしまう。どうやってあらゆる反射光を抑えるというのだろうか。
実は抑えられないのだ。偏光グラスは、人間が直立した状態でかけたときに、水平な面で反射した光を抑えるように作られているだけだ。地球上のあらゆる水面は文字通り水平なので、すなわち、水面の反射光をカットするようになっているだけなのだ。
だから顔を横倒しにして水面を見れば偏光カットの効果はなくなるし、直立しているガラスなどの反射光に対しても偏光カットの効果はない。
下の写真は左から「偏光グラスなし」「偏光グラスあり(正常方向)」「偏光グラスあり(90度回転)」である。
そんなことを思いながら妻に運転をさせ、助手席であれこれ遊んでいた。こういうことを妻に話してもまるで相手にされないのでここに書くのであった。
先週末、市内にあるコースで子供たちと一緒に自転車のモトクロスをやってみた。BMX(Bicycle Motocross)というらしい。
自転車でジャンプしたりするのは、小学校のときに公園でやっていて、いつも大人に怒られて止めさせられていたので、いつか思いっきりやってみたいと思っていた。
しかしコースが思ったよりもきつく、ジャンプは怖いし疲れるしで、400mのコースをたったの3周まわっただけで吐き気に襲われてリタイアとなった(子供たちは6周まわっても平気だった)。
自転車と言えば英語でバイシクル(bicycle)だが、どうしてこう呼ぶのか知っているだろうか。三輪車がトライシクル(tricycle)だと知って、bicycleが、車輪(cycle)が二つ(bi)あるからbicycleなのだと初めてわかって感激した。bicycleのbiは、バイリンガルとかバイセクシャルと同じbiだったのだ(ちなみにトライアスロンとバイアスロンの関係もこれと同じ)。今、出張に来ている谷は自転車が趣味のくせに知らなかった。修行が足りない。
となると、一輪車はモノシクル(monocycle)かな?などと想像して辞書で調べてみたら本当にそうだったのには驚いた。じゃ、4輪車はクアドロシクル(Quadrocycle)か?と思ったらfour-wheeled vehicleだった。ガクッ。
会社で仕事をしていると、よく廊下ですれ違いざまにアメリカ人から「ジョータ!」と声をかけられる。最初は何か用事があるんだと思って「何だ?」と聞き返していたのだが、とくに用事はなく、ただの挨拶だった。「おす」とでもいう感覚で名前をよびながらすれ違うのだ。それにいちいち振り返って「何?」とやっていたのだから相手も困ったことだろう。
まあ、日本人どうしでも「おっ、まさひこ」などと言うことがあるが、それほど多くはない。
最近では慣れて、名前を呼ばれても「ハーイ」などと言って絡まないようにしているが、自分から呼ぶことははしていない。用もないのに「マイク!」などと呼んで「何だ?」と言われたらどうしようと思うと、どうしてもできない。
私も世間の人たちと同様、子供の成長記録をビデオに撮影している。その中で、特に気を使っていることがある。
それは、運動会や学芸会などの特別な場面よりも、日常的な場面に力を入れて記録しておくことだ。特別な衣装を着たり、先生に仕込まれて芸をしているような非日常的な様子よりもむしろ、平凡な日常に、どんなことをしてどんなことをどんな風に話していたかこそ、後で振り返ったときに感慨深いに違いないと考えるからだ。
これは簡単なようで、実はなかなか難しい。なにしろ平凡な日常だから、撮影するときにはそのモチベーションがまったくないのだ。あくまで何年も後に見たときの楽しみのためであって、撮影しているときは全然面白くない(趣旨からして面白い場面である必要もない)。だから、撮影したくないのに一種の義務感で無理やりにときどき撮影するわけだ。意思に反してやるので結構苦しい。
しかしその甲斐あって、ときどきそれらの0歳からの記録テープを見ると、なんとも楽しい。兄弟で何事かゲームのことを真剣に話し合っていたり、取っ組み合いの喧嘩をしたり、何気ない日常の一場面が本当に愛しく感じられる。そしてそのような目で見れば、今日このときも、そのような大切な一日のひとつに変わりないこともあらためて実感させられる。
子供の成長記録に限らず、ぜひとも日常場面こそ記録しておくことをお勧めする。何の行事もない2009年のある日、家でどう過ごしていたかというのは、きっと後で貴重な記録になるはずだ。
ドーサンには日本食の食材はあまり売っていないが、車で4時間かけてアトランタに行くと日本人向けの食材店があり、そこでほとんどのものを買うことができる。ちょっと高いが仕方がない。
そこでみつけた納豆だ。「すべての関西人に捧ぐ日本の伝統食」と書いているが、なんだか関西人は日本人ではないかのようだ。
その名も「うまいねん納豆」。粘りが聞いていそうないい感じのネーミングだ。
粘着性ラバーもこういう名前にしたらどうだろうか。
新参者のキラースピンあたりがやってくれないだろうか。「ひっつく粘(ねん)」とかいって(念もいいかも)。
こういう気をてらったネーミングは昔からTSPが得意だ。桂小五郎(後の木戸孝允)の駄洒落で「桂」と「小五郎」という名前の桂材を使ったラケットを出したことがあるくらいだ。
木戸孝允は幕府を倒して日本を明治維新に導いたひとりだが、なんか荻村伊智朗大先生に似てる。http://ja.wikipedia.org/wiki/桂小五郎
うーむ、納豆からここまできてしまった。これぞ独り言の醍醐味。