映画を見ていたら、またまた傍点の乱発に出くわした。「タール」や「絵画」がいったいどうしたってんだ?
ここまでくると悪意すら疑われる。
演歌の世界で思い出したのが川端康成の『雪国』だ。私は小説というものをほとんど読まない。読まなくてはならないと思うのだが、結論にたどりつくまでの途中を楽しめないし、いつも他のことを考えてしまって話に入っていけないのだ。
人類の英知の鉱脈である『文学』というものを味わわなければ損だと思い、アメリカに赴任するときに古本屋で名作文学の文庫本を何冊か買った。そのひとつが、ノーベル文学賞を受賞した川端康成の『雪国』だ。
「夜の底が白くなった」などというフレーズに代表される表現は面白いと思ったが、いかんせん、話が全然面白くない。妻子ある主人公と芸者だか舞子だかのグダグダしたつき合いを描いたものだが、話のどこにも共感を呼ぶところがなく、それは面白いぐらいであった。
私は文学は一生理解できないのだろう。
それに、『雪国』というタイトルを見ると、学生時代に聞いた「女性は、出身地を聞かれたら東北の県名を言うよりは北国ですと言ったほうが感じがいい」という、週刊誌のバカげた記事を思い出して不愉快になる。九州や沖縄の出身の場合、やはり南国と言ったほうがいいのだろうか(笑)。
昼食を食べていたらふと、小学校の頃に流行した「殿さまキングス」(すごい芸名だ!)の演歌『なみだの操』のフレーズが頭の中で鳴っていた。あなた~のために~守りとおした女の操~という歌だ。好きなわけではないのだが、なにしろ多感な頃に散々聞かされたので(父がうなっていた)無意識にときどき思い出してしまうのだ。
それで、前々から疑問に思っていたことを思い出した。それは演歌の歌詞の世界だ。どうも歌詞を聞いていると、いつも飲み屋の客商売の女の歌らしい。たしかに世の中にはそういう女性がいて、悲しい色恋沙汰があるとは思うが、なぜよりによって飲み屋の女の歌ばかりなのだろう。一般人が経験する色恋沙汰とかけ離れたそういう世界に、ある世代の人はファンタジーを抱くのだろうか。あるいは単に作詞家が自分が銀座の高級バーなどへしょっちゅう行くもんだから、自然とそういう歌になるのだろうか。
大人になったらそういう世界と親しみが持てるようになるのかと思ったら、全然だ。居酒屋へ行ってもせいぜい店員に「以上でご注文よろしかったですか?」と不思議な過去形で言われるくらいのものだ。行く店が悪いのだろうか。
私が仕事中にくしゃみをすると、同僚のティムがいつものように「bless you」と言った。これはGod bless youの省略で、「神のご加護を」とでもいう意味で、まあ、おきまりの台詞だ。
私が「日本ではくしゃみをすると誰かがその人の噂をしているという言い方がある」と説明した。面白いことにアメリカでも似たような言い方があるという。くしゃみをすると「誰かが墓をまたいだ」というものだ。まだ生きているので墓はないのだが、将来、自分の墓になるはずのその地面を誰かがまたいだという解釈だという。なかなか遠近感のある気が利いた面白い言い方ではないか。
仕事でよくパワーポイントというソフトで作った資料を見せられる機会がある。そこでときどき気になるのが、吹き出しの形だ。
パワーポイントでは吹き出しの形がいろいろあって選べるようになってるが、気になるのはそれらの中で、雲形に楕円が連なっている形のものだ。なぜかといえば、これは日本のマンガの文法の中では、「心の中で思っているセリフ」を表すものだからだ。この吹き出しを見ると自動的に「あ、思ってるな」と感じてしまう。そのように刷り込まれているので仕方がない。
仕事のプレゼンテーションで「思っている」ことを表現する必要などないのだから、この吹き出しはそもそもオプションとして不要である。どうしてこんな吹き出しがついているかといえば、パワーポイントは、日本人ほどマンガを読まないアメリカ人が作ったソフトだからだろう。
アメリカ人ならともかく、日本人なのにこの「思っている」吹き出しを使う人がしばしばいるのは不思議なことだ。マンガを読んだことがなくて吹き出しの文法を知らないのだろうと思う。
仕事でこの吹き出しを見せられるたびに「ああ、思ってる、思ってる」と思ってしまう。
癖と言えば、私は小学校高学年から中3ぐらいまで、非常に激しいチックhttp://ja.wikipedia.org/wiki/トゥレット障害と言われる癖があった。
顔を歪めたり、後を振り向いたり、とにかくそうしないと気がすまないのだ。これは文字通り「気がすまない」だけであって、肉体的に何か違和感があるわけではない。私が余りに異常な目つきをするものだから、祖母は私を眼科に連れて行こうとしたが、私は目の問題ではないことが自分でよくわかっていたので「違う、目じゃない。行くなら精神科だ」と言ったものだ。結局、病院には行かなかった。特にきっかけなどは思い出せない。
中学生になるとだんだんと他人から真似されたり「顔に蚤がいるみたいだ」などといわれるうちに自然とやらなくなった。
チックの経験がない人にこれを説明するのは難しい。反射でもないし体の違和感のためでもない。むしろそれをすることは疲れるし面倒なのだが、しないと気がすまない。一種の儀式のようなものだ。似ているものを探してみたがなかなか見つからない。
あえていえば、机の上の物が乱雑になっていたら並べたくなるのと似ているだろうか。私はそうではないが、そういう人はいるだろう。2,3の品物が斜めになっていても何も支障がなく、それをまっすぐに置いた所で何も変わらなくても真っ直ぐに置き直したいという人はいるだろう。それと似ている。それが、チックの場合は、物を真っ直ぐに並べることではなくて後を決められた回数振り返ったり口をゆがめることなのだ。当時はこれがチックというものだとは知らなかったが、後にそういう人が他にもいることがわかって安心したものだった。
気がすまないためだけにやることなので、何か強い理由があれば止めることはできる。私の場合はそれは恥ずかしいということだった。だから今でも一人のときはときどき似たようなことをすることはある。