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小便飛ばし競争

息子たちの幼稚な振る舞いにあきれた妻がよく「中学男子ってこんな程度なの?」と私に聞くので、大体、以下のような話をすることになる。

中学一年のとき、学校の休み時間に小便飛ばし競争が流行った。当時の男子便所は小便器がなくて、ついたてで左右を仕切られて、床に溝が彫られた壁に向かって立って放尿する便所だった。コンクリートの壁に小便のあとが残るので、いつしか、その高さを競うようになってしまっていた。

そのためにわざと途方もない量の小便をためるやつや、飛び跳ねて記録を伸ばそうというやつがいたし、あろうことか助走をつけて失敗するやつまでいた(考えればわかりそうなものだが)。記録はどんどん伸び、ほとんどの生徒は自分の頭より高い記録を作っていた。40半ばとなった今では考えられない勢いだ。今でも覚えているのは、隣でがんばっていた友人の小便が方向を失い、ついたてを越えて私の正面に振ってきたことだ。このときばかりは、自分たちが便所の設計者の常識を超えた遊びをしていることを実感したものだった。

また、あるとき、その便所の小便だまりに赤のボールペンが落ちているのを発見した。聞いてみると、卓球部の阿部が落としたという。これを知った私は、阿部を驚かしてやろうと思い、汚いのを我慢してそれを拾って洗って机の上に返しておいた。親切心を装った高度なイタズラだ。阿部の反応を見たい気持ちが、小便を汚いと思う気持ちに打ち勝った瞬間であった。

このような話をするので、妻の苛立ちはますますつのることになる。

劣性遺伝

刑事コロンボを見ていたら、船酔いをしたコロンボが犯人の男から「君はコロンブスの子孫じゃないのかね」とからかわれて、「きっと劣性遺伝なんでしょう」と答えるシーンが出てきた。英語では「違う家系だと思う」と言っているのに面白くするためにわざわざこのように吹き替えている。

書いた人はどうかわからないが、多くの人はこの台詞を「劣った性質が遺伝した」ととるだろう。しかしコロンブスは船酔いをしなかったのだから、それでは意味が通らない。そこで「性質が劣った形に変化して遺伝した」などと勝手に解釈するのだろう。

劣性遺伝とは劣った性質の遺伝のことではない。その遺伝子を持っていても体に現れにくい遺伝子のことだ。つまり、体に現れる力が劣っているのであって、生物が生きるために有利か不利かとは関係がない。

たとえば金髪の遺伝子しか持っていない人と栗毛の遺伝子しか持っていない人の子供は、両親から金髪と栗毛の遺伝子を一個づつ受け継いでいるが、必ず栗毛になる。金髪は劣性遺伝だからだ。金髪の遺伝子だけをもったときだけ金髪は体に表れる。こういう遺伝子のことを劣性遺伝子という。

何日か前、ハプスブルグ家が滅亡したのは近親婚を繰り返したことによって、障害などの劣性遺伝が顕在化しやすくなったためであるとの研究結果がニュースになった。何割かの人はこのニュースを「近親婚を繰り返すと障害を引き起こすような劣った遺伝子が増える、あるいは生まれてくる」というように読んだだろう。もちろんこの研究者の言いたいことは違う。

障害を引き起こす遺伝子をもっていても、それが劣性遺伝の場合は、持っていても体に現れないですんでいる。ところが、近親婚の場合は、同じ劣性遺伝子をもった人同士のこどもがその遺伝子だけを持つ個体になる可能性が高いから、その場合には体に表れてしまう。それが障害の遺伝子だろうが金髪の遺伝子だろうが青目の遺伝子だろうがである。だから、障害をもつ遺伝子が増えるとか沸いて出てくるという話ではない。

これを分かっている人がこのニュースを読めばちゃんとそのように読めるのだが、分かっていない人が読むとまず間違いなく誤解する。「障害などの劣性遺伝が顕在化し」のところが本当に紛らわしい。本来体に現れにくい遺伝子=劣性遺伝子が「顕在化」つまり体に現れるということをまったく正しく書いているのだが、うっかりするとこの部分は、「劣性遺伝子=障害を引き起こす劣った遺伝子」が顕在化=生み出される、というように読めてしまうのだ。

もちろん誤解のもとになっているのは「劣性」という言葉だ。優性、劣性のかわりに顕性、潜性とでもすればよかったのだ。劣性遺伝を劣った遺伝子だと思うのは「検査の結果が陽性」の「陽性」が陽気な性格のことだと思うようなものだ。

さて、コロンボが「劣性遺伝」の意味を正しく知っていたとして先の台詞を解釈してみる。「コロンブスが船酔いしなかったのは、船酔いの遺伝子が劣性遺伝子だから、コロンブスの体には表れていなかったんだろう」となり、一応、筋は通っている。書いた人が本当にこのように考えて書いたのか、それともよくある誤解に基づいて書いたのかは本人に聞いてみるより他ない。このように、ほとんどの場合、よくよく聞き返してみないと誤用しているかどうかもわからないケースが多いのだ。だからこの誤用は訂正されにくく、したがって延々と誤解が万延することになる。

「長々と何を当たり前のことを」と思う人も多いと思うが、このブログを読んだ人の何人かが劣性遺伝を誤解していたとしたら、書いた甲斐があるというものだ。実はこれ、中学校の理科で習うことなのだが、知らない人が多いのも事実なのだ。それにしても、エンドウマメの実験から遺伝子の概念を発見したメンデルの偉大なことよ。http://ja.wikipedia.org/wiki/メンデルの法則

正直な話

大学教授殺人事件の犯人が捕まったようだ。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090522-00000075-maiall-soci

犯人が捕まって、学生が「正直ほっとした」というコメントが寄せられている。こういうコメントはよくあるが、見るたびに吹き出してしまう。

なぜ「正直」なのだろう。殺人事件の犯人が捕まってほっとするのは当たり前ではないか。そもそも本心を偽る必要がないのだから、「正直」はまったく不要だ。「正直、事件のことは忘れてました」とか「スリルが減って正直残念です」とでもいうなら正しい。建前と反対の本心を言うからこそ「正直」とつけるのだ。犯人が捕まってほっとしたのが本心なら、いったいどんな建前があったというのだろう。もしかして自分で捕まえたかったとか。

長々と揚げ足取りをやったが、誤用の理由はわかっている。何も考えていないただの口癖なのだ。めったやたら「逆に」を連発する人や、さんざん話した後で最後に「結論から言うと」と言う人と同じで、意味などないのだ。

このコメントを聞くたびに「ほほう、それが偽らざる本音ですか。じゃあ、いったいどんな偽り、建前があったのかな?」などと発言者を問い詰める想像をして愉しんでいる。

さらに訛りの話

アクセントを直すのが難しいと書いたが、私より上の世代ともなると、アクセント以前に、母音の発音すら難しくなる。

高校の卓球部の10歳上の先輩など、日本語の50音を発音することさえできなかった(もちろん今もだ)。「あ・い・う・え・お」と言っているつもりでも実際には「あ・うぃ・う・い・うぉ」となる。同様にサ行は「さ・す・す・し・そ」という具合だ。

「5時 に 駅裏 に 来い」

と言う場合、実際の発音は

「ごづ ぬ いぎうら さ こ」

となる。もちろん、本当の発音は日本語の母音の中間音なので書き表すことはできないが、もっとも近い音がこのようになる。母音の発音、アクセント、単語そのものと、彼がアナウンサーになるための道は果てしなく遠い(なるわけがないが)。

今のように方言の再評価などされる前は、方言はとにかく「悪い言葉」という扱いだった。この先輩など、小学校のとき、先生に黒板に頭をガンガンぶつけられながら「訛るな」と指導されたという。成果はなかったようだ。なんとも切ない話だ。

かつては「東北人の発音が訛っているのは舌の構造に欠陥があるのではないか」と本気で考えた学者もいたほど、発音の訛は根が深いのだ。

「し」が発音できないなんてことがあるのかと思う人もいるだろうが、フランス人など「ハ行」を発音できず、ハローと言えずにアローと言うくらいで、小さい頃に身につけないと、発音は難しいのだ。

卓球と同じだなっ!

訛りの続き

訛りの話が琴線に触れたようで、ゲストブックやらメールやらでコメントをいただいた。

田舎者が方言を直すのでもっとも難しいのがアクセントであることは論を待たないが、意外な落とし穴が、標準語と別の意味で使われている方言だ。この場合、そもそも方言だと思っていないわけだから、直せるはずがない。

中学生のとき、クラスで厳美渓という観光地に遠足に言ったことがある。学校に帰ってきてから国語の時間に短歌を書かされたのだが、そのときにある友人が書いた短歌が次のようなものだった。

『厳美渓 川の間をスルスルと だんご走るよ カネ痛ましく』

厳美渓では、川に渡したロープで名物のだんごを渡すパフォーマンスがあり、友人はそれを歌にしたのだ。問題は最後の部分の「カネ痛ましく」だ。痛ましいと言えば標準語では、「痛ましい事故」などのようにかわいそうというような意味だが、実は私の育ったあたりでは「もったいない」という意味で、とくに金銭についてよく使われる言葉なのだ。つまりこの友人は、だんごを買ってみたはいいが、金がもったいなかったと悔やんでいるのだ。

天然記念物に指定された名勝地まで行って感じたことが「金がもったいない」というこの友人の心がけがなんとも可笑しい。さらに言葉も間違ってるのがよけいに可笑しくて今もこの短歌を忘れられない(そもそもその可笑しさがわかって注目したのは私だけだったはずだ)。いかにこの友人が短歌など書きたくなく、またその素養もなかったかがよくわかる。たぶん本人は全然覚えていないだろう。

ちなみに、実際には我々は「痛ましい」などとは言わず「いだます」としっかりと訛って発音している。これをちゃんと標準語風に「痛ましい」と書いたところまでがこの友人の能力の限界だったわけだ。

そういえばこいつも卓球部だった。

訛りに関する思い出

私の育った岩手県はもちろん東北弁が通常の会話で使われる。小中学生ともなると、標準語を使うことはかなり難しい。もちろん普段から本を読んだりテレビを見たりしているわけだから、読む、聞くは問題なくできる。しかし、話すのは難しい(英語みたいだなまるで)。

高校時代の卓球部の友人に聞いた話によると、彼が中学のとき、友達同士で「訛ったら負け」といういかにも東北の少年らしい、もの悲しい遊びをやったらしい。

それでゲームを始めはいいが、第一声で「僕は、んで・・」と言って負けてしまったという。「んで」とは「それじゃ」という意味だ(標準語圏でも「それで」の意味で「んで、どうしたの?」などと使うことがあるので比較的分かりやすいだろう)。標準語を話すという緊張を「僕は」までしか保てなかったというわけだ。

偶然だが「んで」については私にも思い出がある。小学生のとき、東京の親戚が埼玉に住む知人一家をつれて我が家に遊びに来た。当時の我々にとって埼玉はもちろん東京と同じことだ。その家には私とほぼ同年代の少年がいて、すぐに打ち解けて遊んだのだが、ひとつだけはっきり覚えているやりとりがある。私はなんとか緊張しながらも標準語を使って意思疎通に成功していたのだが、地元のこどもどうしで話しているときに「んで」と言うと「それどういう意味?」と聞かれた。「『それじゃ』という意味だよ」と言うと、「じゃあ、どうしてそう言わないの?」と「素朴な疑問」を呈されて、私はそれにうまく答えられず、なにか負けたような気持ちになったのだった。視野の狭い小学生どうしの異文化交流らしいちょっとだけ居心地のわるい思い出だ。あのヤロー、今頃どんな大人になっているだろうか。

キリシタン

うちの子供が通っている学校はクリスチャンスクールで、もっとも大事な授業は聖書だ。なにしろ科学の教科書の題名も「God’s world」だ。進化論はウソだと教師も全員信じているし、子供の友達もおなじ考えだ。

私は会社で同僚何人かに神様を信じているか聞いてみたが、全員が「イエス」と答えただけではなくて「ものすごく強く信じている」と胸を張る。なんとかひとりぐらい例外はないものかと思うのだが、先日も大敗した。最近いっしょに仕事をしている、ジョークのわかる気の合う奴に聞いてみたのだ。するとそいつは間髪入れずに”Yes. You can kill me.”と言った。一瞬、意味が分からなかったが、説明してもらうと「たとえ殺すと言われても信仰を守る」ということだった。話がわかるどころか、これまででもっとも強烈な答えだ。

「でも、本当に拳銃をつきつけて信仰を捨てろと迫られたらすぐに俺は折れるよ。そんなことをする時点で、そいつは狂ってるわけだから相手にしてもしかたがないからね」などとご丁寧に言わずもがなの現実性を説明してくれた誠実さがおかしい。誰もそんなことしないって。豊臣秀吉じゃないんだから。

続・意味ないなあと思うこと

フェアな試合をするのは賞賛されるべきだが、ときどき、それを意識しすぎて異常な行動を示す人がいる。

大学時代の仲間だが、相手のボールが台をかすめようものなら、それこそ異常な反応速度で審判のように両手を左右に広げてセーフのジェスチャーを示し、「入った」ことを相手に告げるのだ。たいがい、ボールはまだ床に落ちていないタイミングである。あれほどの反応ができるなら、打ち返せるだろうに。意味ない。

もうひとつ。卓球の弱い後輩が、個人戦で他校の有名選手と当り、問題なく負けた。戻ってきて一言「○○さん、マナーが素晴らしかった」と言った。どこの世界に、格下の相手とやるのにバッドマナーをする選手がいるというのか。さすがに見るところが違うなと思ったものだ。

エッジ問題再び

名前は伏せるが、私が書いたエッジ問題について、一番弟子からメールが来た。

彼によれば、あの審判はあのボールがエッジであることは百も承知であり、問題は彼が香港の審判だったことらしい。香港、シンガポール、ともに中国卓球界と深いかかわりがあり、公平なジャッジは不可能だったというものだ。だからこれは「物理法則」の問題でもなければ「論理」の問題でもない、「政治」の問題だったというのだ。

水谷に詰め寄られて無表情だったあの審判の顔は、家族を人質にとられている主の顔だったというわけだ。そう考えれば納得がいく。それにしたって、ビデオで証拠を示せばあの審判も堂々とサイドと判断できたはずで、あいまいだったからこそ政治的判断を入れる余地があったわけだ。ビデオ解析をしなかったのが惜しまれる。

それにしても、水谷が明白に台の内側で打球したボールをすぐさま「サイド」にしてしまおうとガッツポーズをとったシンガポール選手もある意味、見事なものだった。