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アメリカの納豆

ドーサンには日本食の食材はあまり売っていないが、車で4時間かけてアトランタに行くと日本人向けの食材店があり、そこでほとんどのものを買うことができる。ちょっと高いが仕方がない。

そこでみつけた納豆だ。「すべての関西人に捧ぐ日本の伝統食」と書いているが、なんだか関西人は日本人ではないかのようだ。

その名も「うまいねん納豆」。粘りが聞いていそうないい感じのネーミングだ。

粘着性ラバーもこういう名前にしたらどうだろうか。
新参者のキラースピンあたりがやってくれないだろうか。「ひっつく粘(ねん)」とかいって(念もいいかも)。

こういう気をてらったネーミングは昔からTSPが得意だ。桂小五郎(後の木戸孝允)の駄洒落で「桂」と「小五郎」という名前の桂材を使ったラケットを出したことがあるくらいだ。

木戸孝允は幕府を倒して日本を明治維新に導いたひとりだが、なんか荻村伊智朗大先生に似てる。http://ja.wikipedia.org/wiki/桂小五郎

うーむ、納豆からここまできてしまった。これぞ独り言の醍醐味。

「ハー?」

アメリカ人は人の話を聞くときに、「ハーハン↑」という独特の相槌を打つ。日本人としては「ほう、それがどうした?」というニュアンスにとれて、なんだかバカにされているような気がするのだが、今では慣れて私もやっている。

それよりも抵抗があるのが、何かを聞き返すときの「ハー?」という言い方だ。日本人の感覚だと「呆れて物も言えない」というニュアンスだが、これが標準的な返事なのだ。「ハア↑?」と言う場合もあるが、一定の高いキーで「ハー?」とやられると、突き放したような冷たさが加わって、なんとも嫌な感じがする。さすがにもう言われることには慣れたが、マネする気にはなれないでいる。

妻がバッフェレストラン(日本で言うバイキング)に行き、ステーキを焼いてくれる列に並んだときの話。

店員 「ハウ・ウドゥ・ユー・ライク(焼き具合は)?」
アメリカ人「ミディアム・レア」
店員 「ハーハン↑」
次のアメリカ人「ミディアム・レア」
店員 「ハーハン↑」
妻  「ミディアム・レア」
店員 「ハー?」 (妻 ガクッ)
次のアメリカ人「ミディアム・レア」
店員 「ハーハン↑」

よっぽど悪いんだな、妻の発音。

人形の家

義姉から「片付けたに決まってるでしょ」とメールが来た。やはりそうか。
普段は、撮影道具を自転車につむためのダンボール箱がたくさんおいてあるそうだ(ときどき、ダンボールの回収業者と間違われるらしい)。

人形にもっと寄って、不気味な感じの写真をお願いして送ってもらったが、見事に不気味だ(ひざを抱えてる少女あたりが特に)。

「上半身の写真を」と注文したら、自分の写真かと思って化粧を始めたらしいが、人形と間違われるので止めた方がいいと思う。

しかし、どうしてこんなことをする人になってしまったんだろうかお義姉さんは(人のことは言えないが)。

人形作家の部屋

話に出したついでに、どうせならと義姉から部屋の写真を送ってもらった。

リアルな人形だらけでもっと異様な部屋になっているかと思ったら、そうでもなく、意外と普通に見える。ちょっときれいだが、やっぱり掃除してから写真撮ったんだろうか。

人形は30cmではなくて40cmぐらいらしい。

人形俳句写真『電影的女』

義姉の人形俳句写真だ。人形の実物はたしか30cmぐらいだが、こんなにバンバン作ってどこに保管しているんだろう。こんな人形ばかり密集している部屋というのもちょっと不気味だ。

でも、なんだろう電影的女って。

ピースサインのバカ面

2,3日前に、自分のピースサインをしている写真を見てすっかり嫌気がさしたと書いたが、下の写真を見てもらえばそれが分かってもらえることと思う。

まったく見事なバカ面ぶりだ。酒によった赤ら顔でピースサインを出し、あろうことかマイクまで持っている。

良心

「良心的」という言葉をめぐって人形俳句写真の義姉としばらく議論をしていた。

議論の発端は、義姉がこの言葉を使ったことだったが、考えてみると私は以前からこの言葉に縁があった。

以前、他人に理解できない理由で怒り出す、ちょっと異常な同僚Aがいた。その同僚と別の同僚Bがある装置の予約について口論となった。その装置は混んでいるので、使う日の使う時間帯だけ予約を入れるのが普通なのだが、同僚Aはさすがにおかしいだけあって「いつ使うか分からないから」という理由で、一週間まるまる朝から晩まで予約を入れてしまった。

これには当然、他の使用者たちが騒然となり、同僚Bが代表して同僚Aを説得にかかったのだった。私は俄然楽しくなって、二人の口論に聞き耳を立てた。

口論の中で同僚Bが「使う時間に対して予備としてどれくらい多めに予約するかは、使用者個々の・・」と言いかかったときだった。同僚Aが突然ブチ切れて「『良心』なんて言ってみろ!ブン殴るぞB!」と絶叫したのだ。「良心」という言葉に脈絡なく反応して激昂するAがなんとも可笑しく、それ以来、この言葉はお気に入りとなった。

良心的商売

よく、商品の値段を安く設定することを良心的ということがあるが、違和感がある。

商品を安く売ることと人間の良心が関係あるだろうか。単に安くして競合他社より売ろうという戦略かもしれないし、欲がないだけのことかもしれない。欲がなくたって良心があるとは限らない。あるいは、買う人から感謝されていい気持ちになりたいという浅はかなエゴのためかもしれない。自分の利益を減らしてでも買う人の幸せを願うためだったたとしても、ライバル他社にとっては迷惑な行為であり、その社員や家族の幸せにはつながらない。良心はあるかもしれないが、その影響は必ずしも意図どおりにはならない。

商品を安く売るのは、結果的に消費者にとって都合がよいというだけのことで、それを良心的と表現するのはなんかおかしいと思う。良心があるとは限らないからこそ良心「的」とつけているのだと言われればそれまでだ。いわば、良心「風」と同じ意味ならよしとしよう。

客を欺かない商売をすることは良心的と表現してよいと思うのだがどうだろうか。あるいはそれが普通で、欺いたら悪人と言う方がしっくりするか。

ピースサイン

写真を撮るときにピースサインをしなくなってから久しい。

大学2年くらいのとき、卓球同好会の部内の試合で入賞をして、その夜の飲み会で、商品をもらいながらカメラに向かってピースサインをしている自分の写真を見て以来、していない。

その酔っ払っていい気になった顔でピースサインをしている自分の写真を見たときにとても恥ずかしくなった。いい気になっているのが恥ずかしいし、それにこの動作の意味がわからない。なぜ自分はこんな、意味を説明できない不必要な動作をしているんだろうと考えたら、なんだかとても決まりが悪くなった。あえて意味をいえば、自分は幸福だ、元気だ、機嫌がよい、とでもいうことの意思表示だろうか。それにしてもはっきりはしない。

それに、日本中の小中学生が決まりきったように出すピースサインをなぜ私も同じようにやらなくてはらないのか。それで、二度とやらないことにした。

調べてみると、ピースサインの起源にはいろいろあるが、イギリスの首相チャーチルが第二次世界大戦のとき、ある戦いに勝ったときに勝利のビクトリーの頭文字の意味でVサインをしたのが起源だという説が有力のようだ。その後、60年代のアメリカでヒッピーたちが平和をうったえてピースサインを出して流行したようだが、今ではアメリカでは通常、する人はいない。

日本では、70年代に井上順がコニカのテレビコマーシャルでやったのが最初らしく、それ以前の日本人の写真にはピースサインはほとんど見られないという。

こういう歴史を考えると、ますますピースサインなどできない。

まあ、どっちにしても40すぎのオヤジがピースサインなど普通はしないわけだから、今さら力説するまでもないことだが。

胃の中の吹き矢

マーティンという同僚が、朝っぱらからなにやら楽しげに写真をみんなに見せている。

よくみると、なんだか内臓のようではないか。なんでも、14歳の息子が吹き矢で遊んでいて、まちがって矢を飲み込んだそうで、その胃カメラの写真だと言う。

そういえば私が鎖骨を折ったときにグレッグに聞いた話では、8歳の息子が木から空中回転して飛び降りようとて腕の骨を折り、手術でプレートを埋め込んだ後、まだくっついていないうちにまた同じ遊びをして同じところを骨折したという。

アメリカ人って、もしかして・・・