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エッジ問題再び

名前は伏せるが、私が書いたエッジ問題について、一番弟子からメールが来た。

彼によれば、あの審判はあのボールがエッジであることは百も承知であり、問題は彼が香港の審判だったことらしい。香港、シンガポール、ともに中国卓球界と深いかかわりがあり、公平なジャッジは不可能だったというものだ。だからこれは「物理法則」の問題でもなければ「論理」の問題でもない、「政治」の問題だったというのだ。

水谷に詰め寄られて無表情だったあの審判の顔は、家族を人質にとられている主の顔だったというわけだ。そう考えれば納得がいく。それにしたって、ビデオで証拠を示せばあの審判も堂々とサイドと判断できたはずで、あいまいだったからこそ政治的判断を入れる余地があったわけだ。ビデオ解析をしなかったのが惜しまれる。

それにしても、水谷が明白に台の内側で打球したボールをすぐさま「サイド」にしてしまおうとガッツポーズをとったシンガポール選手もある意味、見事なものだった。

岸川/水谷 ダブルス準々決勝の誤審

横浜大会の男子ダブルス準々決勝、岸川/水谷組対シンガポール組戦の第6ゲームの8-9からのエッジ判定のシーンをあたらめてITTFのビデオで見直した。

私は当時の実況で「あれはサイドに見える」と書いたが、それはあくまで会場のスロー再生映像だけを見ての感想であり、あらためてビデオを見ると、その判断は間違いであることがわかった。あれはエッジ以外ではありえない。なぜなら、水谷はボールを台の内側で打球しているからだ。台の内側で打たれたボールが、卓球台の側面に当たることは、現代の卓球のボールの軌道ではありえない。水谷がそれを「I push ball here. No possible.」と審判にアピールしている声が入っている。「自分はここでボールをツッツいたんだからサイドはありえない」と言っているのだ。しかし審判はなぜか無反応。まるで水谷の言っている意味が分かっていないような表情だった。他にも年配のおじさんがやってきて水谷と同じような説明をしていたが、誰一人として近くにあった長方形の紙切れを卓球台に見立ててボールの軌道を指し示して審判を納得させようという試みをできなかったのが、今映像を見るともどかしい。

会場のモニターには、問題の核心とばかりに、ボールが台をかすめたシーンばかりを何度もスロー再生していたが、それだけではエッジかサイドかを判定することは難しい。卓球を知っている人なら、水谷がどこでボールを打球したかをこそ再生すべきだった。したくてもできなかった事情があったのかどうかわからないが、当時放送していただろう複数の局のアナウンサーや解説者たちはそのスローが必要であることをコメントしていたのだろうか。「水谷がどこでボールを打ったかが重要ですね。そのVでませんか?」とか言ってくれていたのだろうか。「水谷が台の内側でボールを打った」「そのボールが台に触れた」この二つの証拠があれば、どんな審判でもサイドとは言えない(それでもサイドと言うようなら審判の資格剥奪だろう)。それができなかったのがなんとも残念だ。勝った負けたの問題ではない。こんな明らかな誤審がまかり通ることが残念だ。

学生試合、ある大会で他校の有名選手が同じようにもめたことがある。そのとき彼は、審判にこう詰め寄った。主審に対して「お前は、俺がここ(台の内側)でショートをしたのを見たよな?」と聞いて「はい」と答えさせ、次に副審に「お前は、俺のボールが台に触ったのを見たよな?」と聞いて「はい」と答えさせ、「じゃあこれは絶対にエッジだ。サイドではあり得えない」と審判と相手を納得させた。

選手であろうと審判であろうと放送局であろうと、コレくらいの論理的な判断をしてもらいたい。

なお、私が見逃していた事実がもうひとつあった。今回の卓球台は、側面が鉛直ではなく、下に傾いていたことだ。ボールの入射角と反射角の関係からして、もしサイドなら、ボールはもっともっと下方に落ちなくてはならないから、あのボールの落ち具合を見たなら、やはりあれはサイドではなくエッジの可能性が高いと考えるべきだろう。しかしこれは定量的ではないので絶対的証拠にはならない。もし水谷が台の外でボールを打った場合なら、審判に従うしかなかっただろう。でも今回は違う。ビデオさえ使えばエッジであることを証明することができたのだ。

無意識の素振り

卓球マニアはどうも日常生活で無意識に素振りをする傾向があるようだ。

私もそうだ。どういうときに何の素振りをするか考えてみると、歩いていて左に曲がるときにフォアドライブのインパクトの形を手でやっている。手は、シェークのグリップのチョキだったり、手のひらをブレードに見立てたりだが、後者の方が多い。ときどきシュートドライブになるが、なぜかカーブドライブをすることはない。

次に多いのが、シェークのバックハンドフリック。こちらはグリップのチョキの形をすることが多い。以前はフリックではなくて、相手のフォアに逆モーション的に流すブロックばかりやっていたことがある(素振りの話だぞ)。ワルドナーが世界的に広めた技術だ。

当時、仕事の会議中に、無意識にこれをやっていたらしく、正面に座っていた耳の聞こえない人が反応し、「何?」という顔をした。後で聞いてみると、チョキにして体の前から右に動かすと「とっても」という意味の手話になるらしいのだ。それで、私がその手話を彼女に送っていると誤解されたものらしい。

そういえば村上力さんに弟子入りしたての頃は、指を使ったフォア前の逆モーションフリックばかりやっていた。それと、首を左にひねりながらのバックハンド逆モーションスマッシュ。もちろん指はペンのグリップになっているので、一般人から見ると”OKマーク”を出していることになる。これはもう他人に見られたら完全に神経の病気だと思われるので、度胸のある方はお試しあれ。

おっ、チンキ!

横浜でテレビ放送の画面で陳杞をチン・キと表示するのを見て以来、チキンを見ると反応してしまう。

成田空港でもチンキ弁当に目がいった。機内でもチンキビビンパだ。

人形俳句写真『絶滅した夢』

義姉の人形写真の新作を紹介する。俳句冒頭の漢字は「さえずり」と読むそうだ。

人形はとてもよかったのだが、私は写真がどれも気に入らず、何回も撮り直ししてもらって、やっと33枚めに人形の良さが出る写真を送ってもらえた(当然ながら、私が気に入らないものはここには載せないのだ)。ところが妻は義姉に私と正反対の意見を送っていたらしい。私は「もっと大きく」と言っていたし、妻は「もっているカバンが大事なので全身を」と言っていた。私が「背景はぼかして」と言えば妻は「背景の建物をはっきりと」と、見事に正反対だ。かくも人の意見は違うものなのか。いちいち全員の意見を聞いていたらさぞ混乱することだろうと思う。卓球王国編集部はいつもそういう目に合っていることだろう(『逆も~ション』最高!&止めさせろ!とかね)。

義姉はこの人形を作るのに、鏡に向かって顔の筋肉を動かして慟哭する表情をつかんだそうだが・・・想像したくない・・・。

中国人名の読み

卓球選手には中国人が多いので、その読み方について議論になることがある。卓球とは関係なく、あるときから、日本政府と中国政府の協定で、お互いに自国の読み方で読むことに統一すると決めたので、NHKでは必ず日本語読みをしている。これはそう決まっているからだ。

これに対して卓球専門誌では、必ずしもそれに従わなくて良いらしく、漢字の横に中国読みに近い音を片仮名で表記するのが今の潮流だ。以前はそうではなかったので、私の世代にとって荘則棟はソウソクトウだし、江加良はコウカリョウだ。たしか陳龍燦あたりまでは日本語読みが主流だったと記憶している。原語に近い読みが増えてきたのは、馬文革、王涛あたりからだろうか。今では王励勤はオウレイキンよりはワンリキンと言う人の方が多いだろう。

日本語読みと原語読みのそれぞれの利点を考えてみる。

日本語読みの利点
・初めて見たときに読める(しかしマ・リン、バ・リンなどのように一意に決まるとは限らない)。
・読みを覚えやすい。
・パソコンで変換するときに便利(そんなに必要なことではないが)。
中国語読みの利点
・読みを覚えておくと、英語表記を見たときに誰のことか分かる(卓球ファンはこれが結構必要)
・本人や欧米人と話すときに、誰のことか分かってもらえる(一般人にはほとんど不要)

こんなもんだろうか。卓球に興味のない一般人にはやはり日本語読みするのが妥当だろうし、卓球関係者は振り仮名をみて原語を覚えると便利だから、今のやり方がいいだろう。なにしろ違う言語なので完璧な解決方法はないのだ。

ただ、80年代後半に、「人の名前を別の読み方をするのは失礼だ」という論調があったが、これだけは違うと反論しておきたい。本人に話しかけるときはそうだろうが、それ以外の場合では失礼とは思えない。中国人だって日本人の名前を中国読みしているに決まっているが、それを失礼だと考える日本人はいないだろう。日本という国名でさえ「ニホン」とは発音されないし、それならまず世界中に日本をJapanではなくてニホンと聞こえるように読ませなくては筋が通らない。

今のように、中国人名の漢字に片仮名で原語に近い振り仮名をつけるのはもっともいい方法だと思うが、あくまでその理由は「本人に失礼だから」ではなくて「便利だから」だというのが私が言いたいことだ。

仮に、卓球選手の英語表記を見る機会も選手本人に呼びかける機会も、アメリカ人と卓球選手について話す機会も一生ないとしたら、荘則棟をソウソクトウと呼び続けて何の問題があろう。

『横浜メダカの会』

「横浜」「メダカ」でネット検索したら、なんと『横浜メダカの会』http://yokohama-medakanokai.cocolog-nifty.com/と言うのを見つけた。なんでも、横浜固有の黒メダカというのを保存する会らしい。いろんな会があるものだ(お互いさまなような気もするが・・)。

どうしてこんな検索をしたかというと、今月発売の卓球王国の私の世界選手権の記事に関係があるのだ。見てのお楽しみだ。

レーティングについて

アメリカの卓球界にはレーティングというものがあるのだが、これが面白い。卓球の強さを数字で表すのだ。初心者は500ぐらい、もっとも人数が多いのが1700台、アメリカの代表ともなると2800ぐらいだ。私は現在2006だ。http://www.usatt.org/member_rankings.shtml

どうやって計算するのかというと、相手と自分のレーティングと、その試合結果によって決まるのだ。たとえばレーティングが100高い相手に勝つと20上がり、負けると4下がるといった具合だ(相手はその逆の動きとなる)。大会に出ると相手のレーティングはわかっているから、「こいつに勝つと上がる」とか「こいつに負けたら大変なことになる」などと思いながら試合をすることになるわけだ。試合結果も、何位になったとかだけではなくて、なによりもレーティングがどうなったかを励みに大会に出るわけだ。

選手たちはそれぞれあちこちの試合に出るので、レーティングと実力の関係は網の目のようにアメリカ中にうまく広がっていて、同じくらいのレーティングならアメリカ中どこの人でも、やってみなくてもお互いの実力がだいたいわかるのだ。実際、私は1700台の人は試合前の練習をしただけで負けそうにないとわかるし、1900台だとかなり厳しく、2100以上だと「多分負けるな」という感じがする。卓球というこれ以上ないほどの複雑多様なスポーツの強さをひとつの数字で表せて、それが意外に妥当だというところがなんとも楽しい。

先日紹介した林さんたちは、それを日本に導入しようとして大会を企画したりしているのだ。しかしレーティングの性質上、日本中の多くの人が参加しないと意味がないし面白くない。身近な人同士の実力関係なら何も数字にしなくてもわかる。試合をしたことのない人どうしが「私は1970なのですがあなたはどれくらいですか」などとやれるところが面白いのだ(「インターハイ出場」などという基準では県によってレベルが違うので比較はむずかしい)。もちろん、レーティング1800台の人だけ参加する大会とかも企画できる。

レーティングが広まるまでは入っても意味がないので参加する人も取り入れる大会も少ないだろう。しかしある一定の参加率に達すれば、急激に増えるだろう。レーティングを重要視するようになると、レーティングに関係のない試合には出る気がしなくなるし、大会主催者も参加選手を集めるためには「レーティングと連動した大会です」とうたわざるを得なくなる。

しかしそこまでいくのが大変だ。本当はこういうのは日本卓球協会がやればいいと思うのだが、林さんたちにはぜひともくじけずにがんばってもらいたい。

草なぎ剛の件

草なぎ剛が逮捕された件だが、ほとんどの世論は彼に同情するもののようだ。ただ裸になっただけなのだから当然だ。そんな奴いくらでもいるし、うるさくした以外に他人に迷惑をかけたわけでもない。

不思議なのは、それくらいで一斉に放送を自粛したり広告を止めたりする企業だ。おそらく彼ら個人個人だって、たいしたことじゃないと思っているはずだ。しかし「俺はいいけど、そう思わない人がいるから」という理由で判断をするのだろう。「人間として最低の行為だ」と啖呵をきった政治家もいたようだが、逮捕されたのだからとりあえず批判しておけばいいと思っただけだろう。そう短絡的に思った心情を考えると可笑しい。

それにしても一社くらい、事件に何の影響も受けずに平然と放送したり広告を続ける会社がないものだろうか。「わが社は自分の頭で考えています」とか言って。その方がよっぽどイメージアップになるだろうに。不思議だ。

知人の結婚式の披露宴で、余興をやりに出た「友人」が全裸にネクタイをつけて歌を歌ったそうだが、これはやりすぎだ。まずコイツを逮捕してもらわないと(笑)。