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日本で最初の卓球本

卓球に興味のない人には申し訳ないが(本当はそういう読者が間違ってるのだが)、今日は卓球本コレクションの紹介だ。我が家には、あちこちで集めに集めた卓球関係の単行本があるのだが(日本で発売された単行本のほとんどを持っていると思う)、その中でもっとも貴重なのは、なんといっても、日本最初の卓球本、『ピンポン』(伊東卓夫著、明治35年)である。

東京高等師範学校(現・筑波大学)の坪井弦道が英国留学から卓球セットを持ち帰ったのが、日本への卓球の伝来であるが、その同じ年に、すでにこの本が発行されている。題名が卓球ではなくて『ピンポン』なのは、まだ卓球という呼称が存在していなかったからだ。卓球という単語が考え出されたのは大正7年で、卓球が伝わってから16年後のことだ。「卓越」にも通じるよい呼称だというのでこれに決めたらしい(だからこの本の著者の名前に『卓』の字が入っているのは偶然である)。

サーブのときに、なんとボールを手で直接ラケットに押し付けて回転をかける方法が紹介されていて面白い。ラバーもない時代の話だ。そういえば私の祖母もやっていた。なお、私の持っている本は大正時代の改版である。いつか本物を見たいものだ。

ペンサコーラの祭り

土曜に、ペンサコーラという町の祭りに行ってきた。町の通りを封鎖して、さまざまに仮装をした何台もの山車がパレードをする。その山車に乗っている人たちが、沿道に集った観客にビーズなどを投げるのだ。プラスチック製の見るからに粗悪なビーズなど只でも要らないものなのだが、いざ投げられると不思議なもので、欲しくなるのだ。ときどき5本ぐらいが束になったまま飛んでくることがあり、それを捕るととても得をしたような気になる。要らないのに。パレードは2時間も続き、我が家5人で捕ったビーズは写真の通りだ。いったいどれだけのビーズが用意されたのか見当もつかない。Tシャツも捕った。

これだけの量になるととても重いのだが、子供たちは交代でひとりが全部をまとめて首にかけていて、マサイの首長族のようになっていた。

なぜビースなのかとか、ビーズを捕ると幸せになるとか、何か由来があるのかもしれないが、とりあえずは知らない。

座談会テープ

昨年、ドーサンに赴任する直前、2番弟子の田村と杉浦くんに私の送別会をしてもらった(文字通りさせたのだ)。会場は田村にまかせたら、やはり食い放題の店だった。しかしさすがにミルキーウエイのサラダバーということではなくて、どっかのビルの4階ぐらいに入っている洒落た店だった。

田村も杉浦君も学生時代からの卓球関係の友人なので、卓球を中心に語らった。田村がテーブルにi-podみたいなのを置いているので手にとって見ようとすると「触るな」という。どうして触ってはいけないのか、なかなか口を割らなかったのだが、とうとう、送別会の記念に会話を録音しているのだと白状した。それで赴任してから5時間分のデータが送られてきた。

そんなもの聞くヒマあるかよと思っていたら、その機会は意外と早く訪れた。昨年の夏ごろ、カゼで熱を出して2日ぐらい寝込んだ。そのときに寝ながらヘッドフォンで5時間分を2回聞いた。さすがに自分たちの会話だけに内輪受けの極致であり、熱があるのに面白くて寝られなった。しかも本人だけあっていちいち言うことに納得がいく。随所に忘れていた話題もあり、田村の仕事に感謝したい。

バカ話を録音するなど、ちょっと異常な感じに思えるかもしれないが、そうでもない。大学4年のとき、大学院の入試に落ちた。クラスで22人が受けて落ちたのは私と友人の2人だけだったのでさすがに落ち込んだ。するとたまたま東京の大学に通っている高校時代のクラスメートである小原から一本のカセットテープが送られてきた。聞いてみると、それは小原ともうひとりのクラスメートである佐々木が、酒を飲みながら高校時代のクラスメートや先生の悪口やら矢追純一のUFOやらノストラダムスの大予言やらを琵琶のようなギターをポロポロと弾きながら語っている愚劣なテープだった。落ち込んでいた私にとってこれは本当に楽しく、何度も何度も聞いたものだった。

私は友人に感謝したり、ましてやそれを公言することなどないが、このときばかりは本当にありがたかった。私がお返しのテープを送ると、その後も何度かテープが送られてきた(私には高校時代の卓球部以外の友人はこの二人しかいない。3年間、クラス替えどころか席替えさえなかったので、入学時の50音順の席で隣と斜め後だった小原と佐々木は3年間そのままだったのだ。姓名が友人を決めた珍しい例である。席替えはやった方がいいと思う)。記念に、送られてきた封筒をカセットのラベルにして大切に保管してある。

それ以降、私は録音を目的に自宅にマイクを2本備え付け、人を集めて数時間会話を録音して一本のテープに編集し、参加者に配ることを趣味としていた。座談会や討論会といってもすべてバカ話なので(寝る奴がいたらそいつの寝息を録音したり、悪口を言ってやったりだ)、一般的には何の役にもたたないクソテープであるが、20年も前の自分の声と頭の中が分かるテープなので、私にとってはこれほど貴重なものはない。

まだ若い皆さんにお勧めの遊びである。

サナギの缶詰

例の韓国雑貨店でめずらしい缶詰を見つけた。缶に印刷されてある写真を見ると、どう見ても何かのサナギのようだ。書かれていた英語を辞書で引いてみるとやはりサナギだった。私はサナギは食べたことがないが、写真を見ると、なにかイカの燻製のような色合いで、食べなくても味が想像できる。美味いに決まっている。鍋に入れて湯気を立てている写真が念入りで楽しい。

こういうものは気の持ちようである。海老などまるっきり昆虫と同じだし、蛙だって鶏肉と変わらない味だった。わたしはいわゆる青虫などは嫌いだが、蚕(かいこ)はきらいどころか可愛いと思う。小学校の頃、実家で養蚕をやっていた時期があるのだ。金になると思うと、気持ち悪いどころか「がんばってくれよ」というような気持ちになって、何匹もまとめて掌にのせてなでていたりした(ひんやりしていたな)。蚕を飼っている部屋に入ると、何万匹もの蚕が桑を食べる音が「ザーッ」と部屋中に響き渡るのが、当たり前とはいえ凄いと思った。

繭を作る時期になると、4cm四方ぐらいの格子が10×10ぐらいならんだ紙製の枠に蚕を一掴み置く。するとうまい具合に格子に一匹づつ蚕が入って、体を反らしながら口から糸を吐いて繭を作り始める。何日かすると完全に真っ白な繭ができ、あとはそれを棒で抜いて出荷するのだ。中のサナギはどうなったのか覚えていない。煮ていたような気もするし、繭を裂いていたような気もする。

毛虫と蚕の違いといえば毛だが、一概に毛があるから気持ちが悪いというわけでもない。杉崎君は何年か前の年賀状に「俺の可愛さランキング」というのを書いてきた。それによると、「猫>子供>ハムスター>亀」だそうだ。当時は息子が生れたばかりで情が移っていなかったようだが、さすがに今では一番だという。毛が生えている点で猫に軍配が上がったそうだ。

シャララ会長との邂逅!

1月12日にペンサコーラというところで卓球の試合に出てきた。そのあたりのことはまた雑誌に書くが、まさか国際卓球連盟のシャララ会長と試合をするとは思わなかった。まあ、ヒゲが似ているだけだと思うが(右が本物)。

郊外の風景

ドーサンから遠出をするとき、ふと車窓から郊外の風景を見ると、なかなか味わい深いものが見える。そのひとつがトレーラハウスだ。トレーラーハウスというのは、長方形の住居で、タイヤがついていてトラックで運ばれてきたものだ。そう考えると、なにかキャンピングカーのようなものを思い浮かべるかもしれないが、そうではなくて、これは貧しい人たち用の低価格の住居なのだ。移動を目的としているわけではなく、製造、設置までの簡便さのためだけにタイヤがついているのだ。電気も水道も下水も通っているらしい。低価格といっても家なので、300万円ぐらいはするのだろうがよく知らない。トレーラーハウスに住んでいる知り合いは一人もいないが、内部がどんな感じになっているのか、いつか見たいものだ。

また、以前、警官がレストランや自宅に帰るのにパトカーをそのまま使うことを紹介したが(10/30参照)、なんとスクールバスもなのだ。ドーサンに限らず、町の郊外に行くと、ときどき普通の民家の庭にスクールバスが停めてあるのをよく見かける。最初は、たまたま迎えに来たのかと思ったが、通るたびに同じ家の前にあるのでネットで調べてみたら、アメリカでは運転手が自宅にバスを持ち帰ることは普通なのだと書いてあった。

スクールバスについては、日本にはない交通ルールがある。スクールバスの上には降乗車中に光るランプがついているのだが、このランプが点灯中は、バスに向かって走っている車は対向車も含めてすべて停車しなくてはならないのだ。なかなかよいルールだと思う。

漢字の読み間違い

『なごり雪』で思い出した。元の職場の同僚で、「名残り」を「なのこり」だと思ってずっとそう読んでいた人がいた。「なごり」は知っていたが、別の言葉だと思っていたそうだ。こういうことは誰でもあるのではないだろうか。あまり人前で話す必要がない言葉で、いつも黙読している言葉にそういう間違いを犯す危険がある。この歳になってそういう思い違いを発見するのは恥ずかしくもあるが、それ以上に新鮮な驚きで嬉しくなる(自分で気づいた場合に限る)。

たとえば私は大学時代まで「教諭(きょうゆ)」のことを「きょうろん」だとばかり思っていたし、5年ぐらい前まで「造詣(ぞうけい)」のことを「ぞうし」と読んでいた。また、つい昨年まで「思惑(おもわく)」を「しわく」と読んでいたし、読みではないが、「系譜(けいふ)」のことを「譜系(ふけい)」と書いていた。「こんな一般的な単語も出てこないのか」とパソコンに毒づいていたが、間違っているのは常に私の方だった。自分の読みで変換されない単語があったら、まず自分を疑った方がよい。

「破綻(はたん)」を「はじょう」と、職場まるごと全員が誤読していたケースもあった。どうやってパソコンで変換していたのだろうか。

何年か前、上司が「示唆」を「ししゅん」と言ったのには困った。なにしろ厳しくて怖い上司で、しかも怒られているときに言われたのだ。まさか「それ”しさ”です」などと言えるはずもない。結局、教える機会はなかったので(あるわけがない)、今でも彼は「ししゅん」と言っているのだろう。言われた人の気持ちを思うといたたまれない。

「対症療法」を「対処療法」といい間違えるくらいは意味も似ているし気づかれにくいのでいいとして、「ししゅん」はやばいだろ。

またまた面白い映像を見つけたので貼っておく。

1つめのネタは、フランス人がhの発音をできなくてハンバーガーをアンバーガーとしか言えないこと等をネタにしている。昨年、フランス人の出張者が来たのだが、相手をしたフランス赴任経験者の宮根さんによると、彼らはsecond halfのことを「スゴンドアルフ」と言うのだそうだ。「へえー、フランス語ではそう言うんですか」と言うと、そうではなくて、これは英語を話しているのだそうだ。我々日本人の英語はもっとひどいのだろうか。

2つめの映像は、自分の発言に字幕がついていることに腹を立てるイラク人のネタ。隣のイラク人には字幕がつかないことで怒りはエスカレートする。彼は早口言葉を披露して見せるがずっと字幕はついたままだ。レポーターが無理やり話をまとめているところがおかしい。

久しぶりにビートルズ

久しぶりにビートルズのパロディといこう。今回は、写真ではなくてイラストだ。『ロックンロール・ミュージック』というアメリカ編集盤アルバムがある。あまり好きなジャケットでも内容でもないのだが、もともとがイラストなので、簡単に描けそうだということで、高校の授業中にノートに書いたのだ(罫線が見えている)。ジャケットだけでは寂しいので、日本版の帯をつけたところがよい判断だったと思う(実際にイラストに帯を巻いてある)。もっと大きく手間をかけて描けば上手く描けるのだが、こういうものは、そんなことをしてそっくりに描いても何の意味もない。この手抜き加減がよいのだ。

当時、友人の似顔絵をよく描いていて、ビートルズの4人のうち、リンゴだけをそいつの顔にしてしまうギャグをよくやっていて、ここでもドラムのところにおでんを持たせて座らせている。

先日、知人の家に遊びに行ってカラオケをすることになった。それで『なごり雪』を歌った。これ、曲も歌詞も好きなのだが、サビの「今、春がきて君はきれいになった」というところだけがどうしても好きになれない。歌うたびになんとなく不快な気持ちになるのだ。綺麗かどうかなど完全に主観なわけだが、あたかもそれを客観的事実のように、あるいはミスコンの審査員かのように判定、批評するような言いっぷりが不愉快なのだ。お前、自分が惚れてるくせして、この後に及んでなに相手を評価してんのよ、という感じだ。「前より好きになった」なら勝手なので問題はない。さらに、綺麗ということがそんなに重要なのかということもある。人の価値はさまざまだ。一昨年死んだ祖父は、祖母と結婚した理由を「土地がよかったから婿にきたんだ」と当たり前のように語った。「今、春がきて君は丈夫になった」でも「疑い深くなった」でも「黄色くなった」でもいいわけである(そんな歌あるかよ)。

ずいぶんと前、ある席で美人と評判の人と同席したことがある。そのときにある奴がその人のことを「美人だろう、きれいだろう」とその本人の前で私に同意を求めたのには困った。まさか「なんとも思わない」と本心を言うわけにはいかないではないか。「そうですねえ」と心にもないことを言うのが本当に苦しく、なんで俺はこんなことで本心を偽らなくてはならないのだと、聞いた奴に腹が立った。

もしかすると『なごり雪』のあの歌詞が嫌いなのはそのことが原因なのかもしれない。

アクセス増加

このブログのアクセス数だが、あるURLにアクセスをしてパスワードを入れると、下のように棒グラフで推移を見られるようになっている。最近、アクセス数が過去にない動きを見せている。年末から正月にかけてアクセスが減少していたのだが、ここにきて一気に挽回しているのだ。

とくに珍しいのが、土日のアクセス増だ。1/20が全日本選手権の最終日だったので、それがきっかけで卓球王国に来る人が多く、ついでにここにも来たのだと思われる。日曜にこんなにアクセスがあったのは初めてだ。その後も高目を維持しており、最高記録である一日294件は更新できていないが、月平均では過去最高を更新しそうな勢いだ。

You Tubeで卓球関係の面白い映像を見つけたので貼っておく。すごい奴らがいるものだ。

卓球とは関係ないが、こちらも傑作だ。

こんなに可笑しい映像が世の中にどれだけ埋もれているんだろうかと思うと悔しい。私は面白い話が好きなのだが、見たり聞いたりした面白い話を、どんどん忘れていくのがもったいなくて仕方がない。忘れないようにいつも思い出して反芻するようにしている。人に話すときも、ほとんど相手かまわず話してしまうのだが、それは自分のために話しているからなのだ。このブログを書くようになってから、ここに記録することで安心するためか、そういうことはあまりなくなったような気がする。

シナリオ考

先日、知人から日本のテレビドラマのVCDを借りた。先週から中山美穂主演の『眠れる森』を見ていて、やっと昨日見終わった。10年前に大好評だったドラマらしく、なるほど面白かった。話も演技もよかったのだが、前から気になっている日本のドラマのシナリオの嫌なところがやはり目についた。

それは、感情の高ぶった登場人物が自分の気持ちを説明するときの「ずっとそう信じてた」などとという語尾の言い切り方だ。一見すると、何が問題なのかわからないだろうが、これが大問題なのだ。考えてみて欲しい。日本人が現実場面で人と会話をするときにこのような語尾になることがあるだろうか。ないのだ。「信じてたよ」とか「信じてたのに」などとなるだろう。決して「た」で止める言い方はしない。そのため、どんなに上手い役者の演技を見ても、この台詞が出てくると、不自然ないかにもお芝居をしているというような「ヘタな演技」に見えてしまうのだ。現実場面でありえない台詞を言わされているのだから当然である。自然に言いようがない台詞なのだ。

ではどうしてシナリオライターはそういう台詞を書くのだろう。実はこれは文章で読むとおかしく感じないのだ。そう、こういう言い切り型の語尾は、活字の世界での標準形なのだ。女性言葉としての語尾「○○するわ」とか「○○よ」というのも同じく、映像がない活字の媒体での表現方法であるが、これをそのまま映画やドラマに流用してしまうので、結果として役者たちは映画やドラマにしかない言葉使いをさせられているのだ。

私は何も、ドラマのリアルではないことをすべて否定しようとしているのではない。視聴者に登場人物を説明するために本人に向かって「お隣の山田さん」と話しかけたり、話の筋に関係のない電話や訪問者がいないこととか、ドラマの都合上、仕方がない部分はいいのだ。でも、シナリオライターの想像力不足で台詞が不自然になってしまうことだけは我慢がならない。事情を知らない人にとっては、役者がヘタに見えるので役者もかわいそうだ。この台詞が出てくると、どんな役者がやっていても「ああ、またいつものこういう言い方をする演劇部の人が出てきた」と思ってしまう。

私は韓国ドラマ『冬のソナタ』が異常に好きだ。その魅力はとてもひとことでは言い表せないのだが、日本語吹き替え版でもそういう言い切り型の台詞が一切ないことも、安心して見ることができる要因だ。もしかして台詞の意味自体にそういう自分の気持ちを説明するシーンがないのかもしれない。そうだとすれば、やはり優れたシナリオだといえる。登場人物が自分の気持ちを「こう思ってた」「だからこうしたかった」と長々と言葉で説明しなくてはならないドラマはシナリオとしてどうかと思う。

このブログを読んでからドラマの台詞が気になってしまう人がいるかもしれないが悪しからず。