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ビートルズ9

今回はアメリカ盤『アーリー・ビートルズ』である。曲はイギリス盤の既存曲の寄せ集めで、ジャケットは『ビートルズ・フォー・セール』の裏ジャケットをそのまま流用しているというお手軽さだ。

どうしてこれを真似したかというと、バックの黄色の落ち葉の色が、家の馬屋(現代は馬がいないのだが、わたしの実家あたりでは昔のなごりで今でもこう呼んでいる)に、牛の食料として蓄えられたワラの束で再現できそうなことに気がついたからだ。

かくして、黒っぽい服を用意して、高校の卓球部のメンバーだけで撮影をしたのだった。これは大学1年か2年に帰省したときのものだ。なんだかまともすぎて可笑しい要素が何もない。こんな写真を撮ってどうしようというのか。あらゆる意味で救いようのない写真である。何かをしようという意欲はあるのだが、空回りばかりして本当に空虚な時期だった。

その頃、祖母に「何をやっても面白くない」と不満を漏らしたところ「バカいうんじゃない。20歳なんて一番楽しいときじゃないか。60まであっという間だぞ」と言われたことを覚えている。

それから20年。その祖母も昨年死んだ。たしかに40歳まであっという間だった。一般的には20代は楽しいものなのだろうが、こんな写真を撮ることしかやることがなかった20歳の頃には戻りたくない。今のほうがずっと面白い。
車マニアの大宮からメールが来た。「洗車場は6時からしか開いてないので5時からではなくて6時からです」だそうだ。同じようなもんだろ。

車マニア

私もかなりの卓球マニアだと思うが、車のマニアには敵わないと思う。元の職場の後輩に大宮と言う奴がいるのだが、これがすごいのだ。

休日になると、朝5時から洗車場に行って車を磨くのが楽しみなのだという。週に何回どころではない。とにかく車を洗えるときは洗うのだそうだ。その洗車場には同じような車マニアが集っており、埃ひとつないような車を持ってきて、さらにそれを磨いて輝きを競い合っているらしい。「自分なんて全然ですよ」と大宮は謙遜する(謙遜になってないような・・)。彼らは自動の洗車機など細かい傷がつくので絶対に使わないそうである。何種類もの洗剤やスポンジを使ってすべて手磨きをするのだという。2年に1回の車検の時しか車を洗わない私からすれば信じられない話だ(しかも洗ってもらうわけだが)。

なんでも宮城県のどこかに、車磨きのプロがいて、その人のところに日本中、いや世界中から客が来るのだという。その人は、塗装の厚み以内の精度で塗装を削ることで、傷の修復や光沢を取り戻す技術がある達人なのだそうだ。当然、失敗は絶対に許されない作業だ。とても高額なのだが、何ヶ月先まで予約が詰まっているという。大宮は、そこに行ってその人の話を聞いて感動して帰ってきたそうだ。いや、なんとも・・。

大宮はそれだけ凝っているせいか、あるときアパートの駐車場から夜中に車を盗まれたという。普通、そんな目に会う奴などいないわけだが、大宮の車の価値がわかる同好の奴が盗んだのだろう。怖ろしい世界だ。
何年かしていつものように車屋をまわっていた大宮は、盗まれた車のホイールが売られているのを見つけた。どうして自分のホイールだとわかったかというと、そのホイールには彼が自分で傷を修復した跡があって、その形を覚えていたからなのだ。それどころか写真まで撮っていたので、警察を呼んでそれを示し、そのホイールを返してもらったという。それをきっかけにして犯人もつかまったそうだが、盗んだ相手が悪かったとしか言いようがない。

今回、この話をブログに載せるので写真を送るよう頼んだら、「車全体は恥ずかしいので部分写真を送ります」とのことだ。顔写真じゃあるまいし、車の写真が恥ずかしいとは驚くべき感覚である。車をすっかり人間扱いしてるのだ。

一度、今の車を売ろうとしたらしいのだが、廃車にすると聞かされ、「そんな奴に売ることはできない」と、売ることを止めたそうだ。ずっと家に飾っておく気らしい。ちなみに、奥さんは特に車に興味のないノーマルな人なのだが、大宮のような夫といっしょに普通に車に乗っていられるのかどうかが心配である。

幽霊の話

幽霊が怖いと言う人がいるが、私は幽霊がいてくれたらどんなにいいだろうかと思う。普通、人が一番いやなのは死ぬことだ。だから世界中の宗教が死後の世界、霊魂というものを前提としている。自分というものが無くなるなど考えたくもない怖ろしいことだからだ。

もし幽霊というものが実在するのなら、霊魂の存在が確定することになる。つまり自分が死んでも魂が残るということだ。これは嬉しい。自分がなくならないのなら、たとえ幽霊にたたられて、最悪、死んだとしても、自分もまた幽霊になって好きなように人生(霊生?)を謳歌すればいいのだからどうってことないではないか。

そう考えると、幽霊が怖いどころか、愛しささえ感じてくる。もし幽霊に出くわしたら「よくぞ来てくれました」と諸手を上げて出迎えるだろう。幽霊だってもとは人間、話せばわかるはずだ。英語も要らないのでアメリカ人よりよっぽど楽である。霊界が未知の世界だと言っても、もとはみんな人間なのだから、卓球部を卒業したOBみたいなもんだろう。ときどき頼まれもしないのにしつこく部活に来て説教をしたり、これ見よがしにスーツにネクタイを締めて社会人風をふかしに来たりする鼻持ちならないOBと同じことだ。そんなやつらを怖がるヒマがあったら練習しろってことだ。

完全に話がそれた。言いたいことは、「幽霊」よりも「幽霊がいないこと」の方がよっぽど怖ろしいということだ。

赴任直前に学生時代の友人および後輩と久しぶりに飲んだ。そこでこの話をしたのだがその後輩は「僕、死ぬのは全然いやじゃないですよ。むしろ生きるのがつらくて仕方がないですよ。」と言う。彼は人を悲しませず迷惑もかけずに楽に死ねるならいつでも死にたいと言う。一流企業に勤めて奥さんももらい、最近家を建て、そんなにハードに働いているわけでもないのにだ。こういう本能が欠けたような特殊な奴と話してもさっぱり話が噛み合わない。さらにもう一人の友人は宗教にどっぷりと浸かっていて、「条太、進化論は間違っているって知ってるか」と主張し始め、私の送別飲み会はいよいよわけのわからない議論で白熱していったのであった。

来客のおみやげ

先週、会社に日本の材料メーカーが訪ねてきた。

お土産のお菓子を何箱か持って来てくれたのだが、アメリカ人たちが「臭い臭い」といって面白がって他人に食わせてみたりして喜んでいる。ジョンは「早くどっか他のところにもって行って日本人だけで食ってくれ」と言う。

どれどれ、とお菓子の置いてあるところに行ってみると、包装にまで凝った、とても高級そうなせんべいで、開けてみると海老の香りがした。どんなに高級であっても海老せんべいはやっぱり臭くて食えないようである。

妻が、私のブログは長すぎて読む気がしないという。話がくどくて短ければ短いほどよいらしいので、今日のところはこれぐらいで勘弁しておいてやる。

アトランタ食い倒れツアー3

9時頃ホテルに帰ると子供たちがまたプールに入りたいと言う。夜にプールに入るという非日常的なことがやりたいのだろう。翌朝の朝食のこともあるので、それもよかろうと思い、1時間ぐらい遊ばせた。
翌朝、バイキング形式の朝食をたっぷり食べると、子供たちがまたプールに入りたいという。昼食のこともあるので、また1時間ぐらい遊ばせることにした。人一倍暴れまわった次男が「膝がガクガクする」という。よしよし。それでいい。

チェックアウト後、貨幣博物館を見てから昼食のためインド料理店ZYKAへ向かった。着いてみると、あまりに外見がさびれているので「これはダメかも」と思ったのだが、そうではなかった。値段が安い上、カレー、ナン、タンドリーチキンなど、とても美味しいのだ。本場のインド料理がどんなものかは知らないが、少なくとも仙台で本格的とされている何軒かのインド料理店と遜色ない味であった。また行きたいと思う。

その後、マイクに紹介された「世界中の食材が集っている」というYour Dekalb Farmers Marketへ移動。なぜか入り口に「写真・ビデオ撮影禁止」と書いてあるがこっそりと撮影した。

ブドウの袋に切れ目が入って開いているものがあるので、試食してみると確かに美味しい。あれもこれもと全種類のブドウを家族全員で試食していると、よく見るとすべての袋に切れ目が入っており、試食品ではないことに気づき愕然とする。これでは泥棒だ。マイクによれば、試食品があちこちにおいてあるはずだったが、試食品など全然ないではないか。

ビーフジャーキーのコーナーに「バイソンジャーキー」なんかおいてあり、興味があったのだが、もし変な味がしたら後悔すると考えて普通のビーフジャーキーを買った。他にもチーズやパンを買い込んで車の中で食べ始めた。

その後、テレビ局CNNセンターの見学ツアーに参加した。腹をすかしてから夕方に広東ハウスに行く予定だったのだが、ぜんぜん食欲が戻らず、ドーサンに帰ることにした。

家についたのは9時頃だったが、まだ夕飯を食べる気にならず、そのまま寝ることにした。今回のツアーがかなり不本意だった妻は、もう次の食い倒れツアーのためネットで店探しを始めていた。

アトランタ食い倒れツアー2

FUNEに着いたが、なんと寿司が廻ってない。廻ってないどころか、コンベアの上に何一つ乗っていないしコンベアも止まっている。客は2人だけ。壁面に映画など上映しているのが虚しい。明らかに余計なことに金がかかっている。

気を取り直してテーブル席に案内された。カウンターの内側には東洋人が二人、なにやら忙しそうに働いているが、会話を聞いていると中国人らしい。

黒人のウエイターがオーダーを取りに来た。妻が「寿司はいつ廻るのか」と聞く。もはや正常な判断力を失っているようだ。客が2人しかいないのに廻すはずがないではないか。やっとあきらめてマグロ、鯖、ウニ、ネギ巻き、味噌汁、FUNEロールを注文した。ところが「マグロと鯖を切らしている」という。鯖はともかく、マグロを切らしている寿司屋かい!

しばらくすると、次々と注文の品が運ばれてきたのだが、どれもこれもカウンターとは反対の奥の方からさきほどのウエイターが運んでくる。カウンターの中の東洋人が何のために働いているのか不明。味噌汁が凝った竹細工の上に置かれて出てきたのだが、飲めないほどしょっぱい。具は乾燥ワカメだけだ。しかも戻しが足りず、ところどころ堅い。コップの水を入れて飲める濃度にしてなんとか飲んだ。切らしているはずのマグロが出てきたが、めんどうなのでもう余計なことは聞かずに食べる。意外にもウニが美味しかった。日本の回転寿司屋の普通グレードのウニより明らかに美味しい。よかった。

チャーハンをぎっちりと詰め込んだはずの子供たちがなぜかどんどん食べて、チップを入れると100ドルを超えてしまった。チャーハンを食わせていなかったら大変なことになっていた。

それにしてもいくら火曜とはいえ、この客の少なさは異常である。次に行くときにはもうなくなっているに違いない。ジョージア州初の回転寿司体験をみんなに報告するんだとがんばっていた妻は落胆の色を隠せなかった。

アトランタ食い倒れツアー1

アトランタ一泊二日食い倒れツアーを敢行して帰ってきた。「食べることだけが楽しみ」と言い切る妻がネットでいろいろと調べて、以下のような計画を立てて臨んだ。

《1日め》
朝食 抜き 4時間かけて一路アトランタへ
昼食 Hong Kong Harborでラーメンを食べる
夕食 アトランタ唯一の回転寿司屋、FUNE(舟)で寿司
《2日め》
朝食 ホテルの朝食で食い放題(バイキングのこと)
昼食 インド料理屋ZYKA
午後 食品市場 Your Dekalb Farmers Marketで試食三昧
夕食 Canton Houseにてラーメンを食べる
ドーサンへ帰る

と、このような計画であった。

まずはHong Kong Harborでラーメンだ。確実に日本のラーメンを食べられる店は他にあるのだが、今回の目的はあくまで新規開拓であるので、リスクは覚悟の上だ。

出てきたラーメンは外見は日本のラーメンと同じなのだが、麺が焼きそばのように揚げてあり、噛んだときに焼きそばのような臭いがする。とはいえ美味しくなくもなく、まあまあであった。タコやホタテの入ったシーフードマーボー豆腐は最高に美味しかった。

チャーハンを二人前頼んだのだが思ったより大量で、一人分がまるまる余ってしまった。妻はこれを「持ち帰ろう」と言う。「そんなもの持ち帰っていつ食べるんだ?」と聞くと「いいからいいから」などと言って目配せをしてくる。さらに妻は何を考えてか、マーボー豆腐についてきたオヒツの白飯まで持ち帰る気らしく、塩を振って食べてみて「やっぱり食えないか」なんて言っている。完全におかしい。

後で理由がわかった。回転寿司屋に行く直前に子供達の腹に飯をたっぷりと詰め込もうという作戦だったのだ。ホテルの部屋には図らずも電子レンジがあり、プールで3時間も暴れまわった子供達は何も知らずに、暖めたチャーハンを喜んで腹いっぱい詰め込んだのだった。

いざ、回転寿司屋FUNEに出発である。

『ピンポンさん』

戦後間もない東京。
吉祥寺にできたばかりの武蔵野卓球場をひとりの無口で色白のやせっぽちの高校生が訪ねた。
「この卓球場には、誰か強い人がくるんですか」
少年は、母親の古本を内緒で売った金で練習相手を探して卓球場を回る変わり者だった。
卓球場の主人上原久枝は、いつしか少年の食事から洗濯の世話までするようになる。
「おばさん、孔雀ってどこに卵を産むか知ってる?」
「知らないわよ」
「木の上だよ。おばさん、僕はいつも井の頭公園の木の上にいたんです。井の頭公園にある木はぜんぶ登ったんだよ」
2歳で父を亡くし、働く母が帰宅するまでの時間、公園の片隅で孤独をかみしめていた少年。
少年がもっとも嫌いなのは時間を無駄にすることだった。少年の日記。
《天才はごろごろしているぞ。天才中の天才になるんだぞ。》
《俺が死ぬとき何と思うだろう。それを思う時、一刻も無駄な真似はできない。誰にも影響されるな。》
自分の実力を確認して卓球をやめるつもりで参加した全日本選手権。東京予選で負け、はじめて人前で声を出して泣いた。
《9月7日 笑いを忘れた日》
もう卓球をやめられない。少年の卓球にかける情熱はいよいよ狂気を帯び、おばさん以外の者は怖くて声もかけられない。
翌年、全日本選手権で優勝。世界選手権ではコーチ陣の反対を無視した独創的な『51%理論』を実行し優勝。
たゆまぬ自己研鑽で、32歳で引退するまで世界選手権で12個の金メダル。
引退後は現役選手や中国、スウェーデンに指導を請われ幾多の世界チャンピオンを育成。
天才はいるのだろうか。いる。それは君だ。それは、ぼくだ。天才はいないのだろうか。いない。
みんなが天才であっていけないのなら天才はいない。
やれないが“知っている”のは評論家だ。きみよ、評論家になるな、プレーヤーになれ。
プレーヤーとしての若さを失った後、プレーヤーの苦しみを知っている評論家になれ。
並外れた頭脳と行動力で役員としても頭角を現し、54才で「あと一年やったら会長を譲る」という前会長の申し出を断り、選挙にて国際卓球連盟会長に就任。欧米発祥のスポーツで史上初のアジア人会長となる。
2年間で80ヶ国を卓球の普及に奔走。
朝鮮半島に30回数回も足を運び、91年世界卓球選手権女子団体で統一コリアチームを実現。コリアは中国の9連覇を阻んで優勝。
サマランチIOC会長とホットラインを持ち、98年の長野冬季五輪招致に尽力。
彼が久枝に贈った詩
天界からこの蒼い惑星の
いちばんあたたかく緑なる点を探すと
武蔵野卓球場がみつかるかもしれない
94年永眠。NHKがトップニュースで訃報を伝え、全国紙は一面でその死を悼んだ。
「日本スポーツ界は天才的才能の偉大なリーダーを失った」毎日新聞

彼の名は 荻村伊智朗

異端の自己研鑽のDNA 荻村伊智朗伝 『ピンポンさん』 城島充著 講談社より発売中。

本作のもととなった『武蔵野のローレライ』で第7回文藝春秋Numberスポーツノンフィクション新人賞を受賞した城島充が、構想7年、執筆に3年をかけた渾身のノンフィクション。化け物のような強烈な自我をもった孤独な天才と、それを支えた卓球場主人の厳しく、深く、温かい物語。
生きているうちにこんな本に出合えてよかった。本当に凄い本だ。

卓球コント バッタ学園

昭和22年に発行された『卓球人』という卓球雑誌がある。これに卓球教育コントというコーナーがあるのだが、これが可笑しい。

だいたい、『卓球教育コント』という題からしておかしい。その第3回で『バッタ学園』なる奇作が紹介されているのだが、意味がわからないのだ。バッタ学園とはいったい何だ。卓球の教育に昆虫を出すというこの無意味さが素晴らしい。バッタ学園なのにマネージャーだけがバッタらしい。ほかにコオロギさんとかカマキリさんが出てくる。5年生まであって部員が五十人もいるのに卒業するのがコオロギさん一匹というのも不可解である。だいたい、これらの昆虫名が、あだ名なのか何なのかさっぱりわからないのだ。挿絵がリアルな昆虫であるところを見るとどうも本物の昆虫の話のようでもあるが、こんなリアルな昆虫がどうやって卓球をするのか。「私」が何者なのかもわからないし、とにかく集中して読んでも設定が異様すぎてなかなか話が頭に入らないのだ。
昭和22年だからというよりは、これはこの中島という人の特殊性によるものだろう。あまりに変なので、ちょっと長いが全文を紹介する。当時の文字使い、句読点のルールが現代とはだいぶ違うこともわかる。

-◇卓球教育コント◇-
(3)
(続) バツタ学園
中島 巌

土手の芝生が、漸く息をつき始めた頃―バツタ学園にも卒業式が訪れました。
全国女学校の皆さん、全国制覇を希ふバツタ学園卓球部は、どのようにこの冬を過ごしたでせうか又二年生から五年生までが一致団結して学校スポーツとしての卓球の真価を、どのようにして発揮しつつあるでせうか、私は送別会の席上で部長先生やバツタさん、コウロギさん達からお伺ひしたお話しを皆さんにお伝へ致しませう
五台のコートを囲んで、五十名近い部員がお手製のケーキを前にきちんとならんでゐる
立上つてバツタさんは伏目勝ちにでは皆さんこれから「蛍雪の功を積み、将に学園を去らんとする私達のお慕ひ申した姉、コウロギさんの送別の会を開くことに致します。美味しくもありませんが、ケーキを戴き乍ら、コウロギさんの活躍の跡を偲び、心ゆくまで語り歌ふではありませんか」・・・・・
おいみんなそんなしんみりしないでケーキを食べなよ、部長先生の一語にどつと頭をあげた一同、私は早速マネーヂャーのバツタさんにこの冬休みをどのようにお過ごしになりましたか、とお伺ひしたら
バツタさん「私達は先生が少しもお見へになつてくれませんので心配をして居りましたが卓球人のコント?で“クロ”のお話しをよみ冬季練習の重大性を知つて、この冬中は毎日朝九時に集り軽い体操の後校庭を五回位駈足をして、休息後二百回ほど縄跳をし、正午まで基本練習、お昼休みには一時間雑誌卓球人を囲むの会を開いて技術の研究やら、修業のお話しなどをし、午後は一時間集中練習(自分の練習せんと思ふものバツクハンドならバツクだけを)一時間は下級生の指導、その後軽くゲームをやつて一日を終りました」寒がりやの私達の事とてとてもつらかつたですわ、
そうでせうね、カマキリさんなんか特に細いからさぞかし骨までしみた事でせうね、ギョロリトにらんだカマキリさんの眼余り怖ろしいので部長先生に助けを乞ひました。先生この頃とても愉快そうにみんな仲よくやつてゐますね、何かよい薬りでもあつたのですかとお聞きしましたら、部長先生は眼鏡越しににつこり笑つて実はこうなんですよとお話しをしてくれました。
部長「ピンポン部はみんなのものです、生徒自身で立派な自治体を造つて、技術の研究、精神修養の面に互いに努力研鑽し合つてこそほんとうに生きた卓球部が生れるのではないかと言ふ考へから、各学年から二名の委員を選出して、マネーヂャー主将、副将、委員と役員を作りました。特にクラス選出の委員は、よくそのクラスの融和、連絡を図つて仲よく愉快に私達のピンポン部を造りませう、と言ふ事になつたのです」それからと言ふものは皆がとても仲よしなんですよ、ケーキを食べてるにこやかな顔、顔、顔、私もすつかり愉快になつてしまつた。コウロギさん御卒業の感想を聞かせて下さいと伺へばコウロギさんは早速
「長い間の学窓生活の中で、卓球部の思ひ出は私の生涯に永遠に消へやらぬことでせう、苦しくも又楽しかつたあの夏の合宿K校との決勝戦に見事勝つた県下大会、あゝ、数々のつきぬ思ひ出は、私の身を心をこんなにも成長させてくれました。人生てふ航路に船出する私に自信を与へてくれたものそれは卓球です。皆さん私は今、学びやを去るも、折にふれ球を手にし、又母校を訪れて、この卓球に精進致します。」
去る者、送る者、それは感激の一時でした。やがて夕靄に包れかけた講堂から
仰げば尊し 吾が師の恩
教への庭も はや幾年
悩しのメロデーに私はしばし別れを惜しみながら、学園よ永久に栄へよと祈りつゝたそがれの校門にいとまを告げました。
どうだろう。こんな設定だけ異様でオチも何もないダラダラした話をよくも載せたものだ。素晴らしい。

東北弁

子供の秋休みに合わせて来週一週間、休暇をとることにした。こちらではゴールデンウイークもお盆休みもないので、赴任して初めての連休でとても楽しみだ。アトランタの回転寿司にでも行こうと思っている。

それはいいとして東北弁の話だ。むかし職場の大阪出身のやつが飲み会で「関西弁といっても大阪弁と京都弁ではぜんぜん違うので関西弁というものは存在しない」と息巻いた。「それでも共通点というものがあるだろう」と言っても彼は「無い」と言って決して認めなかった。本当に話のわからない奴なのだ川上というのは。

そんなことを言ったら東北弁だって全然違う。私の育った岩手県と隣の宮城県でさえ全然違うように思える。それでも共通点はあるのだろうと考えて「東北弁」という概念を甘んじて認めているのだ。

この東北弁について大問題を提起しておきたい。それは映画やドラマなどで東北弁として使われる「お願げえしますだ」とか「オラ、学校さいっただよ」などというせりふの語尾である。『まんが日本昔ばなし』の市原悦子の異様なセリフを聞くにつけ「これはどこの言葉だろう」と思っていたのだが、ほどなく東北弁のつもりらしいことに気がついた。私の生まれ育った岩手県および宮城県の複数の親戚では、そういう語尾は老人を含めても一度も聞いたことがない。「どこか他の東北の県でそう話しているのかもしれない」と思いながらも、「もしかしてこれはデタラメな東北弁なのではないか」とずっと疑っていたものだった。それを確かめることができたのは大学に入ってからだ。なにしろ『東北大学』というだけあって、東北のすべての県出身の学生がいるわけだが、誰に聞いてみてもそのような話し方に心当たりはないという。思ったとおりだ。「~しただ」「~ですだ」という語尾は、非東北人が東北弁の濁音や紋きり型の語尾から得たイメージから創造して定着してしまった架空の東北弁なのだ。もちろん吉幾三の「オラ東京さいぐだ」の語尾もデタラメである。

これよりはマシだが、気になるのが助詞「さ」の乱用だ。「魚さ煮て食った」「太郎さ寝た」という具合だ。これも東北各地出身の人に聞いてみたが、心当たりのある人はいなかった。東北弁で助詞に「さ」を使うのは標準語で目的や対象を指す「に」「へ」に相当する場合だけだ。「学校さ行ぐ」「太郎さ言って聞かせる」という具合だ。この「さ」が標準語にはなくて印象的なので、それを乱発すれば東北弁らしくなると思っているのだ。助詞は言葉と言葉の関係を表すものだ。「太郎さ学校さカバンさ持って行った」などとすべて同じ助詞を使ったら助詞として機能しないので、そんな用法は有り得ないのだ。

脚本家や役者の中にも東北出身の人はいくらでもいるだろうに、彼ら自身もこのような状況に異を唱えないのは「東北のどごがでそう話してる人いるんだべ」と考えるからか、あるいは「日本人の多ぐがそれが東北弁らしいど思ってるならそういうごどにさせでおげ」と考えてこの世のどこにも実在しない「トーホグ地方」の世界を演じることを選択するからなのだろう。奥ゆかしいのだ東北人というのは。