シフのフィンガースピンサービス

ジャックが「他に聞きたいことは?」と言うので、ソル・シフのフィンガースピンサービス(以下FSSと略)について聞いてみた。FSSというのは、サービスを出すときに指で思いっきりボールに回転をかけてさらにそれをラケットめがけて激しくぶつけ、とんでもない方向にとんでもない量の回転がかかるという伝説のサービスだ。

1938年に日本に来たサバドスとケレンに初めてそれを出された日本人選手は、あまりのボールの変化に、目の前で消えたとしか思えなかったという。それでほとんどすべてのボールを触れもせずに負けたのだ。

FSSが世界に登場したのはその前年の1937年のバーデン大会だ。この大会で、アメリカの選手団は、会場のオーストリアに向かう船の中でこのサービスばかりを練習し、ほとんどそれだけで男女団体に優勝したという。これが史上唯一のアメリカの団体優勝である。その男子チームの中心人物こそ、伝説の男、ソル・シフ(Sol Schiff)なのだ。

もちろん、FSSはただちに禁止され、その後使う者はなかったが、後年、ソル・シフが余興で見せるFSSたるやもの凄く、現役選手たちのほとんどがレシーブできなかったと言われる。

ところがジャックの話は意外なものだった。彼は、実際にシフがフクシマという日本代表選手にFSSを出す余興を見たが、フクシマはほとんどミスなく返したという。逆に、フクシマが当時のルールに則ったサービスを出すと、それをシフは返せなかったというのだ。私はフクシマという選手は聞いたことがなかったので「タカシマではないか」と言うと「カットマンのタカシマはもちろん知っている。そうじゃなくてペンホルダーのフクシマだ、知らないのか?」と言う。家に帰ってから調べてみると、福島萬治という選手が1963年のアジア大会に出た記録があった。そういえば聞いたことがあるのを思い出した。ともかくそういうことで、高島さんが受けて20本連続でミスしたと、私が高島さん本人から聞いた話とは真逆の印象の話である。

おそらくこれは、福島がなんらかの理由でFSSを取り慣れていたものと思われる。そうとしか考えられない。実際、高島さんの話だと、今でも余興でFSSを出す人はヨーロッパにいて、慣れていない人は全然返せないのだそうだ。とにかくラケットの動きと関係ない方向にボールが回転しているので、とんでもないミスをしてしまうらしい。1975年のカルカッタ大会で”雨漏りによるゲーム中断がなければ優勝していた”といわれるミスター・カットマンがそう言うのだからこれは間違いない。

それにしても受けてみたい。本場のフィンガースピンサービス。誰かそういうツアーの企画してくれないもんか。『フィンガースピンサービスで味わうオーストリア7日間の旅』とか。タクシー代をケチって間違ったバスに乗って終点までいくような奴が3、4人参加するかもしれないぞ。

ぞくぞく出てくる本物たち

ジャックと話をしていると、どこからか似たような年齢の方々が集まってきて話に加わった。恐ろしいことに、その誰もが、荻村や田中は言うにおよばず、藤井や佐藤博治まで知っている。

中でも、私とジャックの話に割って入ってきてさんざんノイズを出したレイという男は、伊藤繁雄、長谷川信彦、河野満の大ファンであり、私の前で彼らの真似をしだした。わざわざカバンからメガネを取り出し、伊藤繁雄の歩き方とその構えをやってみせた。彼によれば、伊藤繁雄と長谷川信彦の全身の筋肉に圧倒され、「あんな卓球を見せられて、どうやってファンにならないでいられる?」と言った。河野満については、やはりメガネをかけてチョコチョコとした歩き方をマネした上で、「コウノはプロフェッサー(教授)のようだった」とその尊敬の念を示した。1967年に長谷川に決勝で負け、その10年後にバーミンガムで優勝したことも知っていて「すごい選手だ」と興奮してまくしたてた。アメリカの卓球選手たちにとってこれらの日本選手は本当にアイドルだったんだと語った。

伊藤、長谷川、河野の偉大さについては、これまでさんざん国内の卓球関係者から聞かされていたが、聞けば聞くほど、その話は「昔の選手は凄かったのに今の奴らは」という年寄りの小言、あるいは選手に近い人が語れば臆面もない自慢話のように聞こえてしまっていた。それが、ラスベガスの卓球場でアメリカ人からその偉大さを聞かされると、その説得力はまったく違ったものになる。私はここで初めて、彼らがどれだけ偉大な選手であり、世界の卓球界に影響を与えたかを知った。

さて、ここまではよかったのだが、このレイ、ちょっと短気で自暴自棄な感じのする情熱家で、私はもっと話をしたいのに、試合をしようと言う。私はすでにジャックと話しながら着替えを済ましていたが、仕方なしにジーパンのまま台についた。するとレイは台の上に60ドルほどバラっと投げ出し「賭けてやろう」と言って興奮している。ともかく3-1で勝ちはしたが、もっと話をしたかった。

後で調べるとこのレイ(Ray Guillen)は、1977年バーミンガム大会のアメリカ代表選手だった。アメリカチャンピオンにもなったことがあるそうだ。日本なら70歳代の元チャンピオンなど強すぎて私の相手にならないが、この世代のアメリカ選手はやはりあまり強くないようだ。レイはカジノに勤めているということだった。確かにそんな感じがした。

他にも、あまり多くを語らず話を聞いているだけだったエロール(Errol Resek)という人も、後で調べると1971年名古屋大会に参加してジャックと一緒に中国をまわった男だった。

なんちゅうクラブだ一体。ウエブサイトのどこにもそんなこと書いてなかったのに(メンバー紹介すらないウエブだった)。

日本の練習

ジャックにとって日本の卓球は特別な存在だ。

彼の卓球を変えたのは、1956年の世界選手権東京大会を見に行ったことだと言う。当時彼は22歳だが、代表選手ではなかった。

そこでどういう経緯かはわからないが、東京で誰かにどこかのクラブを紹介されて練習に加わったのだと言う。日本代表がいるわけでもない普通のクラブだったらしい。学校だったかもしれないが、それは覚えてないという。

そこには台が6台ほど並べてあって、強い順に選手が台についていたという。ジャックは最初、一番強い人の台で打たされ、しばらくするとコーチらしき人がやってきて「ミスター・ハワード、隣の台に移ってみてください」と言ったという。さらに隣の台に移され、15分後には一番下の台に移され、13歳の女の子と打たされという。ところが試合をするとその女の子にすらまったく歯が立たない。

レベルの違いに驚いたジャックは、そこで卓球を教えてもらうことを決心した。するとその選手たちは、スクワットみたいなことを始めた(うさぎとびだったかもしれない)。当時のアメリカ人には卓球のために体を鍛えるという発想はなかったので「私は体操じゃなくて卓球を教えて欲しいんです」と言った。すると選手たちは「ええ、わかってます。これが卓球の練習なのです」と言い、1時間もそれを続けたという。

トレーニングの後は、ワンコースで正確に続ける練習で、これもジャックには初めてのことだった。

このようにして日本の練習を学んだジャックはアメリカに帰り、さっそくそれを実行した。最初、ワンコースの練習を始めるとみんなが「何だそれ、一体、何やってるんだ」と笑ったという。当時のアメリカ人は、練習はすべて試合練習であり、特定の打法を練習するということがなかったのだ。しかしジャックはこの練習を始めてどんどん強くなり、ついにはアメリカチャンピオンになった。

「私は日本の練習をアメリカに持ち込んだ最初の選手だよ」と彼は言った。

私は当時の日本の練習の、その後の中国と比較した欠点を知りつつも、かつて世界をリードした我が先人たちの偉大さを外から聞かされ、誇らずにはいられなかった。

テレビに出た荻村伊智朗

次に聞いたのは、我らが神様、荻村伊智朗の話だ。荻村が世界チャンピオンになった後、アメリカのテレビ番組に出たと言う。

そこで荻村は5メートルぐらい先のテレビカメラを指し「私がそのカメラのレンズを狙ってボールを打ったらどれくらい当たると思いますか」と言ったという。テレビを見ていたジャックは「近くには行くだろうが当たるまい」と思ったが、荻村伊智朗は一発でレンズに当てたと言う。驚きながらも「まぐれだ」と思ったが、なんと荻村はその後2球続けて当て、合計、3球連続でカメラのレンズに当てたという。

なんていい話なんだろうか。世界には私の知らないこんな素敵な話がいったいどれだけあるのだろう。

藤井則和 対 ディック・マイルズ

ジャク・ハワード(Jack Howard)76歳。こういう人だと知ったら、もう卓球どころではない。「お話を聞かせてください」とソファに座ってメモ帖を取り出し、話を聞いたのだった。

ここで聞いた話は珠玉の話で、もう雨のグランドキャニオンなどスコンクで全然勝負にならない素晴らしい話だった。私たちが話し込み始めると、まわりにいた若者たちは何ともいえない微妙な表情をしてひとりふたりといなくなったが、これもいつものことだ(腰を出したお姉ちゃんもいなくなってしまった)。大体私と話が会う年配の方は概して昔話が好きであり(しかも長い)、当然、いつもそれを聞かされている若者たちはうんざりしているに違いないのだ。年寄りは年寄りでいくら話しても話し足りない(あるいは話したことを忘れてる)のが世の常だ。

なにしろこのジャック、藤井則和とディック・マイルズの模範試合を見たと言うのだから耳を疑う。「本当にフジイか?」と何度も念を押したが、間違いなく藤井のことだった。ペンホルダーで一枚ラバー、フォアハンドのフォームまで真似して見せたのだ。ラケットヘッドが立っていてシェークハンドのように見える持ち方だったそうだ。そういえばそういう写真が残っている。藤井といえば才能の点では日本卓球史上最高と今でも言う人がいるほどの伝説的な選手である。その藤井がマイルズと米国で試合をしたのはおそらく1950年前後だと思われる。今から60年前だ。その時ジャックは16歳だから、見たとしても何も不思議はない。不思議はないが、いや、それにしても驚いた。藤井とマイルズの試合を直接見た人と会ったのはこれが初めてである。

『ピンポン外交』

かつて、世界史に残る『ピンポン外交』という出来事があった。

それは1971年のことだ。当時、中国とアメリカは国交がなかったのだが、名古屋で開催された世界選手権の最中に、アメリカチームの選手のひとり、グレン・コーワンという男が、練習後にホテルへのバスにあわてて飛び乗るとそれが中国チームのバスだったことから始った。

当時、中国の選手たちはアメリカ人と会話をすることを禁じられていて、アメリカ人も中国人というのは自分たちとはまったく違う異常な人たちだと思っていた。それで、バスの中で誰もコーワンに話しかけない気まずい時間が流れたが、世界選手権3連覇の名選手、荘則棟が「いくら敵でもこれでいいのか。これは中国のもてなしの心に反するのではないか」と思い、チームメートの反対を押し切ってコーワンに話しかけ、カバンから織物を出してコーワンにプレゼントをしたという。

(以上は日本のテレビ『驚き桃の木20世紀』で見た内容だが、最近読んだ荘則棟の証言によれば、バスに乗り遅れたコーワンを中国選手が手招きをして自分たちのバスに乗せ、コーワンはすぐに通訳を介して中国選手たちと会話をしたと書いてあり、どちらが本当かわからない)。

一方、コーワンが中国選手団のバスに乗ったことを知った記者団は、ホテルの前でバスを待ち構えており、コーワンがバスから降りると記者たちに取り囲まれ、コーワンと荘則棟の写真が世界に発信されたという。翌日、コーワンはTシャツを荘則棟にプレゼントし、それがまた世界に好意的に報道された。これで何かを判断した毛沢東は、アメリカ選手団を正式に中国に招待することを決定し、世界を揺るがす大事件として報道された。これをきっかけとしてニクソンが動き、ついには中国とアメリカの国交が正常化したという、今や中学高校の歴史の教科書にも載ろうかという出来事なのだ。

ちなみに、アメリカ選手団は中国訪問の感想を「中国人も我々と同じように笑ったりする普通の人間だった」と語った。それほど異常な国だと思われていたのだ。

その歴史上の事件に居合わせた人がまさかラスベガス卓球クラブでフラフラしていようとは誰が思うだろうか。

予期せぬ出会い

ラスベガスで卓球をするという記録も作ったし勝ったのでもう止めようかな、と思ってソファに座って休んでいると、ひとりの老人がやってきて「やらないか」と言った。私が「My name is Jota Ito」と自己紹介をすると、その老人は「おお、キミが有名な世界チャンピオンのイトウか」と言って笑った。1969年にミュンヘンで優勝した伊藤繁雄のことだ。初対面でいきなりこの挨拶は凄い。マニアはマニアを呼ぶ。

私が「1969年ですね」と言って自分も詳しいことを示すと、彼は私のマニア度を測るかのように「その試合、どういう試合内容だったか知ってるか」と聞いてきた。ここぞとばかり私は「シェラーに0-2でリードされていて、3ゲーム目から別人のようになって逆転したんでしょう」と言った。田舛彦介著『卓球は血と魂だ』の一節そのままだ(さすがに「ゲームの合間にビタミン剤でも打ったのかと欧州勢から疑われるほど」という余計な描写は話がややこしくなるので割愛した)。すると彼はさらに詳しく「3ゲームめの19-19からのシェラーの難しいボールを、イトウはそれまで攻撃していたのを丁寧につないだんだ。そのときシェラーの顔つきが変わり、そこからイトウが逆転したんだ」と言うではないか。そんな話は初めて聞いたので「よくそんなこと知ってますね」と言うと、彼はその試合を現場で実際に見たと言う。「ドイツに行ったんですか!」と言うと「だって俺、アメリカ代表で試合に出てたんだもん」と言うではないか。

ななな、なんと、アメリカの代表選手だったのだ。私はすっかり興奮し「じゃあ、71年のピンポン外交のことを知ってますか」と言うと「ああ、中国に試合しに行ったよ」と言うではないか。どひゃあああっ!この人は、歴史上の選手だったのだ。強くはないから有名ではないが、ともかく歴史上の選手なのだ。マニアではなく、本物だったのだっ。

ラスベガス卓球クラブ

3時から、唯一の早い時間からのショーである、「マック・キング・マジックショー」というのを見てから、「ラスベガス卓球クラブ」に向かった。本当は4時から別のマジックショーを見てから行くつもりだったのだが、これも当日はやっておらず(しかもどっちみち3時からのショーが1時間半もあったので見られなかったのだ。つくづく破綻している計画だ)、その分だけ早めに卓球クラブに行った。この日は卓球クラブは6時までしかやっていなかったので、これでも1時間ちょっとしか卓球をする時間はなかった。

もともと卓球をしたい気持ちは全然なく、とにかく卓球マニアらしい足跡を残すことだけが目的だったので、たとえ10分しかできなくてもかまわなかったのだ。本当はカバンを持たずに手ぶらでラスベガスに来たかったのをわざわざラケットとシューズを持ってきたのだから、意地でも卓球はしなくてはならない。

行ってみると、ちゃんとLas Vegas Table Tennisと看板があった。偉い(もちろんタクシーの運転手は知らなかった)。ラスベガスではあるが、別に観光客のためにある卓球クラブではない。あくまで、ラスベガスに住んでいる卓球好きのためのクラブだ。http://www.lasvegastabletennis.com/

クラブには事前にメール連絡をしてあり、私と同じくらいの実力の人が来ることになっていたのだが、入ってみるとみんなよそよそしく、私と目を合わせない。もちろん気まずいが、こういう対応は大学の後輩によくされていたのでどうってことはない。卓球で気まずくなることには慣れているのだ。卓球は気まずいスポーツなのだ。

話しかけられるのを待ってあちこち覗き込んだりしていると、一人がたまりかねて「やりたいのか」と言ってきた。全然話が通じてない。これもアメリカではいつものことだ。

それで、卓球を始めて2年というインド人っぽい顔をした青年(両面テナジーだった)と試合をして、3-1でやっと勝った。負けてもどうってことはないのだが、勝つにこしたことはない。

ラスベガスの町並み

グランドキャニオンからラスベガスに戻ったのは1時頃だった。こうやって早く戻れるようにと早朝のツアーにしたのだ。

到着以来、初めて昼のラスベガスを見たわけだが、あらためて建物のムチャクチャな豪華さに笑った。エッフェル塔ありピラミッドあり、ともかくいちいちデカい。「お前らバカだろ?」と言いたくなるような景色だ。この豪華さが客をギャンブルをする気にさせるのだろう。本当はそれだけ客から金を吸い上げているということなのだが、客はピンとこないようになっているのだ。