息子が友だちとトイレに行ったときのことだ。ある友人が用を足さないのを見て誰かが「お前は小便しないのか」と問うたという。
するとその友人は語った。
「俺は1日5回、1年に365日、小便してるんだぞ。俺は小便のプロなんだよ。飽きたに決まってるだろ今さら小便なんて」
恐るべき屁理屈である。息子もなかなか見どころのある友人がいるではないか。
息子が友だちとトイレに行ったときのことだ。ある友人が用を足さないのを見て誰かが「お前は小便しないのか」と問うたという。
するとその友人は語った。
「俺は1日5回、1年に365日、小便してるんだぞ。俺は小便のプロなんだよ。飽きたに決まってるだろ今さら小便なんて」
恐るべき屁理屈である。息子もなかなか見どころのある友人がいるではないか。
以前このブログで紹介した営業のMさんと、今週も一緒に仕事をした。
初日の仕事が比較的早く終わったので、二人で酒を飲むことになった。Mさんと酒を飲むのは初めてである。
5月に初めてお会いしたときに、車中で私が卓球の話をしたのをきっかけに自分も卓球をしていたことを約30年ぶりに告白したMさんだったが、その後6月にお会いしたときに、あの告白で人生が変わったと語っていた。あまりに大げさなので、営業ならではのリップサービスだと思っていたのだが、今回の語らいでどうもこれは本気の本気であるらしいことがわかった。
「上司にも言ったんです」とMさんは言う。昔、卓球をしていたことをである。Mさんにとって、卓球をしていたということは、上司に報告しておかなければならないほどのことらしいのだ。まるで前科あつかいである(この基準でいうと雑誌『卓球王国』は犯罪組織の機関誌とでもなろうか)。このあたりがまだまだ吹っ切れていないところだが、Mさんの中ではどうしても決着をつけておかなければならなかったことらしい。
Mさんは、このカミングアウト以来、何か吹っ切れた感じになり、仕事でも「やるだけやったんだからいいじゃないか」というような開き直りができるようになったという。本当は大切だった自分の人生の一部だった卓球を封印したことで、どこか偽りの自分という感じだったが、今回「やっと自分がひとつになれたような気がします」とのことだ。
そして大切な大切な卓球の思い出を語ってくれた。使っていたラケットはバタフライの閃光。グリップエンドが斜めにカットされていて木目がデザインされているやつだ。ラバーはTSPのスペクトル。河野満に憧れていたという。静岡の丘の上にあった高校で、休憩時間に戸を開け放つとなんともいえない涼しい風が吹き込んでくる。その風の心地よさを今も思い出すという。高総体では地区予選の一回戦でカットマンに負けた。もし勝っていても次もカットマンで、自分がカットマンが苦手なので、不利な組み合わせにされたと信じている(地区予選の1回戦でそこまでする人はいないと思う)。
大学では卓球を封印して正反対のような屋外競技、ホッケーに邁進し、一年中日焼けをした肌を手に入れた。さらに社会人になってからはウインドサーフィンで、卓球ではタブーであった「風」を手に入れた。もう卓球の影はどこにもない。あるとき、ウインドサーフィンのカリスマのショップ店長が、みんなの前で自分が卓球をやっていたことを語るのを聞いた。彼は自分の卓球の腕前がなかなかのものであることを腰を入れた素振りまでして語ったという。Mさんにはそれがドライブの素振りであることがすぐにわかった。しかし、自分も卓球をしていたとは言えなかった。なんと自分は小さい人間なのか。
職場でゴルフ場に行ったときのことだ。ラウンジに卓球台がおいてあって、みんなで打ったという。そこでもMさんは「素人」のふりをして打った。ところがメンバーの中にもうひとり経験者がいるのがその打球のわずかなタッチでMさんにはわかった。しかしお互いに何も語らず視線を交わしただけだった。
これほどまでに強烈に卓球を封印していたMさんの前で、卓球への過度な情熱を唾を飛ばして語る私の様子はあまりにも強烈で、まるで覚醒剤でも打たれたようなものだったのだろう。
「こんど卓球をしてみようと思ってるんです」
Mさんはすっきりした顔で語った。今回は顔写真を載せることも快諾してくれた。
卓球人は偏見をもたれるのも蔑まれるのも慣れている。それらは卓球の面白さそのものに比べたら取るに足らない。長い心の旅をしてきたMさんを卓球界は歓迎する。「Mさん、お帰りなさい」と言いたい。
他人の人生を変えたという経験は初めてだが、気持ちの良いものである。卓球を熱心にやっているというただそれだけのことが人の役に立つなんて思いもしなかった。
日本製粉に注文していた500セット限定の水谷隼下敷き付きセットが来た。
家の者たちからはかなり「可哀想な人」扱いをされているが、卓球ファンとしてはこれは買わなければならないものだったのだ。
まあ、素人に説明をしてもわからんだろうなあ。ほーっほっほっほ。
怪しからんことに、締め切っていないところをみると、まだあるようだ。
http://www.nippn.co.jp/hiroba/campain/mizutani7/
最近、清久(きよひさ)という名前の人と知り合った。実は私は、過去に2人この名前の知人がいるのだ。博之とか孝なら何人いてもおかしくはないが、清久である。最初の清久は大学時代の後輩で、名前の通り純粋な男だぐらいに思っていたのだが、その後、卓球関係で2人目の清久と知り合い、つい最近、3人めの清久氏と仕事で一緒になった。
いや、だからどうしたわけではない。この3人に共通点もない。悪しからず。
今週も営業の方と一緒にお客さん回りをしてきた。
今回はまた別の営業の方で、Nさんという方と一緒だった。
仕事を終えて電車の中でいろいろと話したのだが、Nさんは「歳をとったせいか最近、演歌が妙に心に響く」と言う。彼は41歳であり、それまではJポップばかり聞いていたのだが、最近は美空ひばりの「川の流れのように」とか「愛燦燦」などが、なんて素晴らしい歌なのだろうかと思うという。
私は演歌の良さはわからないし、他人もそうだと思っていたので、将来、私より上の世代がいなくなったら演歌は消滅するのではないかと思っていたのだが、完全な読み違いであった。
彼はあまりにそれらの曲がよく、会社帰りに一人で家の近くの飲み屋によってカラオケで歌うのだという。ちょっとまて、一人で?そう、一人でなのだ。そのバーは、35歳のバツイチ子持ちの巨乳のママさんがいて、明らかにそれを狙っている常連たちが入り浸っているのだという。そのバーは近くに駅もなく、辺鄙なところに有るのにもかかわらず、タクシーで乗り付ける客もいるという。ママさんを狙って常連がクダを巻く場末のバー。そういう情景はドラマやマンガではよくあるが、よく考えると本物を見たことはない。そういう、絵に描いたような店が実際にあるというのは嬉しい。
Nさんは、そこにときどき寄っては誰とも話さずに一人で黙々と2,3曲歌って帰るのだという。常連と知り合いでもないしママさんにも興味はなく、ただただ演歌の素晴らしさを体に染み渡らせに通うのだそうだ。そのうち、Nさんに連れて行ってもらおうと思っている。