意外としぶといセブンイレブン

ところが話はこれで終わらない。

その中古屋の隣のあるものが目に入った。それは、どう見てもセブンイレブンには見えないセブンイレブンであった。

セブンイレブンのトラックがあるから、ちゃんと会社としてやっているのだ。採算だけを考えたら、こんなことはやる必要がないだろう。それは、地元の経営者のためでもあり雇用のためでもあり客のためでもある。セブンイレブンは、本来、店舗ごとの特色を出さずに、どの店も画一的に運営しているはずだが、花まで売っているこの「臨機応変」具合はどうだろう。まさにルールや規則が何のためにあるのか分かっているのだ。

こういうところが、セブンイレブンという会社の姿勢を物語っている。前から好きだが、ますます好きになった。

写真だけ撮って何も買わなくてすまん(だってミニストップでアイスを買ったばかりだったんだもの)。

アメリカの家具

今、我が家ではアメリカにいたときに知人からいただいた椅子とテーブルを使っている。そんなにアメリカっぽいわけではないが、アメリカ時代の思い出として使っている。

畳に寝転がって、ふと椅子とテーブルの裏が目に入り「ああ、そうだったな」と思った。椅子やテーブルに限らず、アメリカの家具や家は、普通に立って歩いて見えないところはぜんぜん塗装をしないのだ。汚れれば拭かずに上からペンキ塗るしな(そのためのペンキ缶もちゃんと家についているのだ)。

「えんずいところにスマッシュ ぴんぽーん大会」

8月27日、岩手県大船渡市で卓球大会が行われる。大会と言っても競技志向ではなく、楽しい卓球イベントだ。
http://ipponmatsu.web.fc2.com/index.html

震災の被害を吹き飛ばすように、卓球で一日楽しく盛り上がろうという企画だ。寄付も募っている。

主催者のひとりである江戸さんという方は、ボランティアで数々の卓球大会を精力的に企画している、名古屋在住の会社員だ。季刊『卓球人』という冊子にも投稿しているので以前から知っていたが、数年前に卓球関係の集まりで初めてお話しをした。話してみるとなんと江戸さんは私と同じ岩手県出身であり、さらによく聞くと高田高校出身で私の1学年上だった。高田高校は私の時代にも強く、江戸さんの学年の小沢というカットマンが県優勝したことを覚えている。高田高校に練習試合に行ったこともある。しかし悲しいことに、江戸さんも私もお互いのことをまったく覚えていないのであった(どっちも弱いってことだな)。

高田高校は、今回の震災で津波が校舎の3階まできて壊滅したにもかかわらず、インターハイ予選で奇跡の優勝をなしとげている。その当日、このブログの読者だという教員の方から「卓球の試合を見て初めて涙が出ました」「卓球王国でぜひ取り上げてください」とその報告のメールが来た(今野編集長に転送したらすぐに取材を決定した)。私は、江戸さんが高田高校出身であることを思い出し、お祝いのメールをしたのだった。ちなみに私の母校、水沢高校はその高田高校に準決勝で0-3で負けているので「悔しいっ!」とも添えてやった。

大会名にある「えんずい」は、「しっくり来ない様子」を意味する岩手・気仙地方の方言だとあるが、仙台でも同じ意味で「いずい」と言うし、私の郷里では「いんじぇ」と言う。用法としては、服を後前逆に着てしまったときとか、靴に小石が入ったときとか、組織でメンバーの考えが微妙にちぐはぐしていて進めづらいときとか、そういうときの気持ち・感覚を一言で表現する言葉だ。「しっくりこない」と標準語で言ってみてもちょっと違って、まさに「いずい」という以外に表現のしようのない便利な方言なのだ。「居づらい」が語源のような気もするが。

大会要項のどこにも書いてはいないが、今回の企画は、江戸さんにとって特別な意味がある。江戸さんは津波でご両親を亡くしたのだ。だからこの大会は、その両親へのオマージュなのだ。

小室の眼力

昨夜は、いつもの卓球仲間と飲んだのだが、そこで3番弟子の小室が、試合前の練習のときの相手の様子から、勝てるかどうか分かるという話をした。

試合前のフォア打ちのとき、小室はすぐにフルスイングでドライブを打つのだが、それに対してカウンターで打ち返してくる相手にはまず100%勝てるのだそうだ。強い相手は必ず、ブロックまたはちょっと下がってつないでくるそうだ。

また、ある程度フォアクロスで打ったらバッククロスでバックハンドを打ちたくなるわけだが、フォアクロスを打っているときに少しづつ相手のバックにボールを寄せていくと、強い選手はバッククロスをやりたいことを察してこちらのバックにボールを回してきてスムーズにバッククロスに移行するという。それに対して、いつまでもこちらのフォアによこす相手がいて、そういう相手にはまず間違いなく勝てるのだそうだ。

なぜそういう傾向があるのか不思議だと言っていた。

なかなか面白い着眼点だ。

どこが「ちょうど」なのか

あるとき、社内の研修で、参加者が自分の過去を振り返ってお互いに聞かせる機会があった。ある参加者が「それは私がちょうど中学2年のときでした」と話し始めた。

一見、おかしい所はなさそうだが、よく考えると変だ。ちょうど4月1日だったとか、ちょうど高校に入った年だったとか、ちょうど祖父が亡くなった年だったというならわかるが、ちょうど中2とは一体なにがちょうどなのだろうか。中2がちょうどなら、いつでもちょうどということだろう。そう問い返すことを想像して可笑しくなってしまった。

この研修で覚えているのはこれだけだ。

マジックアワー

三谷幸喜の映画『ザ・マジックアワー』のタイトルの意味は、日没のほんの一瞬、なんともいえない光の具合になる瞬間のことを指すという。

中学から卓球を始めて以来、日没時にはいつも室内で卓球をしていたので、空を見る機会はなかった。就職したらしたで、室内で仕事をしているのでやはり見る機会はない。

震災後、比較的早く帰るようになり、しかも自転車で通っているので、これまでの人生にないくらいに日没時の空を見ている。

どうということはない景色なのだが、ちょっと赤い色になったりピンクになったり灰色になったりすると、なかなかいいと思ってつい撮影してしまう。だが写真になると伝わらない。

『ふるさと』復活

先日、最後の飲み会をした『ふるさと』が近所に移転をして復活した。

復活といっても、まだ店は改装中で非公式なのだが、メンバーに特別なお得意さんがいたため、特別に飲ませていただいたのだった。

ちょうど、Light Up Nipponという花火大会が近くであり、店の前からしばし花火を眺めた。http://lightupnippon.jp/

危険な地域

震災で壊滅した近所のコンビニが復活して営業を再開した。それを見ながら「いつまた津波が来るかもしれないこんな危ないところでよくやるもんだ」と妻と話した。

そう話した直後、自分たちは働くどころか、その近くに住んでいることを思い出し「自分のことは見えないもんだな」と笑ったのだった。

卓球グッズ

近所のホームセンターで微笑ましい卓球グッズを見つけた。

シェークが2本にクリアケースとボールが3個ついて598円とは安い。
それにしても「スリースターのラバー」とは一体なんだろうか。これより下があるとは思えないが。

さらにネットまでついているミニピンポンセットも置いてあり、「家族で勝負」なんて書いてる。こういうのを買って家族で勝負できた人はいるのだろうか。卓球経験者なら想像がつくと思うが、ミニ卓球はラケットもコートも小さくテンポも早くてとても難しく、娯楽どころではないはずなのだ。

「そこまで」ってどこまでよ?

先日、杉浦くんと食事をしたとき、学生の言葉遣いが話題になった(杉浦くんは教師なのだ)。あるとき学生が「そこまで電圧は高くなかったんですけど」と言ったという。そこで杉浦くんは「そこまでって、どこまで?」と聞くと、学生はきょとんとしていたという。無理もない。

しかし杉浦くんの言いたいこともよくわかる。私も「そこまで」と言われると、「そこ」がすでにその話の前に基準が示されたかのように聞こえるのだ。実は私が初めてこの用法に接したのは、卓球王国の編集部員である渡辺くんと話したときだ。「○○はそこまで強くないですけどね」と言われ、まさしく「そこまでって、どこまでよ?」と思ったのだ。しかし話の流れから、これは従来の「そんなに」「それほど」と同じことを意味する新しい用法なのだと分かったのだった。

「そんなに」「それほど」は事物を指示する度合いが弱いが「そこまで」は指示する度合いがより強いので、基準を示していない場合に使うのはおかしい、というのは旧世代が新世代を否定するためにひねくり出した屁理屈にすぎないのだ(誰もそんなこと言ってないけど)。

「そこまで」は、「そんなに」「それほど」とまったく対等だ。違和感があっても我らに正義はない。認めるしかないのだ。

論理性すらない「きもい(気持ち悪い)」「なにげに(何気なく)」「天然(天然ボケ)」などよりよほどマシな新語ではないか。

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