方言

徳川宗賢の「日本の方言地図」(中央新書)という本がある。これは、国立国語研究所の研究員が全国2400箇所に赴いて方言の聞き取り調査を行ったものを、徳川が簡約化して文庫化したものである。言語地理学には柳田国男の「方言周圏論」というのがあるらしい。方言の中には、近畿地方を中心として同心円状に分布しているものがあり、これは、昔の都だったところから時間をかけて言葉が池の波紋のように伝わったためだというのである。その伝播速度は平均して1年に600m程度だという(もちろんマスメディアが発達していない前近代の話である)。なるほど、私の祖父母が話していた方言のなかに、それらしい言葉があったわけである。ヒマなことを「トゼンだ」と言っていたがこれは「徒然」だったわけで、千年以上前の京の都の言葉なのである。

柳田が周圏論を見出すきっかけになったのが全国に広がるカタツムリの呼称の分布である。周圏論に従えば、カタツムリの呼称は、古い順にナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デンデンムシと近畿地方で変化してきたのであり、これが時間をかけて全国に伝わったのだということを現在の方言の分布は示しているのだという。もっとも新しいのがデンデンムシというわけである。こういうことを知ると、言葉に関して何が正しいかなどという議論には限界があることがよくわかる。

もちろん方言はそのようなものばかりではない。たとえばサツマイモだ。サツマイモのことを九州ではカライモ、中国地方ではリューキューイモ、近畿以北ではサツマイモと言う。これはサツマイモが日本には沖縄(琉球)→九州→本州という順で伝わったことをそのまま表しているのだという。薩摩(九州)の人はサツマイモとは言わないのだ(ただし調査対象は1903年以前に生まれた男性)。

ところで面白かったのは、この方言の調査の方法である。質問に答えてもらう方法なのだが、たとえば「おんな」という言い方を聞くのに「婦人代議士の”婦人”のことを普通の言葉ではどのように言いますか」が原案だったと言う。どうしてこういう聞き方をするかというと、調査対象の人たちが標準語を知らなかったり別の意味で使っていたりすると困るし、また質問に標準語を入れるとその表現に回答がひきずられる可能性があるためである。それにしてもこの原案はひどい。結局これは「獣や鳥については”おす・めす”という区別があります。でもこのことばは人間には使いません。人間についてはそれぞれ何と言いますか」となったという。他にも「恐ろしい」という意味を聞くのに「大きな犬が何匹もほえかかって、いまにもかみつきそうになる。そんなときの感じをどんなだと言いますか」と質問したのだという。これはいかがなものだろうか。難しいものである。

何年か前にマスターズの試合で沖縄に行った。那覇市は町中が観光地で、いたるところに「沖縄ソバ」の看板があった。「沖縄の人がわざわざ『沖縄ソバ』と言うだろうか」と疑問に思い、タクシーに乗ったときに運転手さんに聞いてみた。すると「ソバといえばあのソバに決まっていますから誰も『沖縄ソバ』なんて言いません」とのことである。やっぱり。それでは我々が普通『ソバ』と呼ぶ、あの黒い麺は何と呼ぶのだろうか。彼の答えは明快であった。「あれは『内地ソバ』言います」。聞いてみるものである。言葉は面白い。