芝生のトリミング

また不動産屋から、芝生をこまめに刈るように要請が来た。前に、2週間に一度ぐらい刈ってくれと言われたのだが、ためしに3週間ほうっておいてみたら、ついに「家の売れ行きにひびくので毎週刈ってくれ」と強く出られた。

仕方なくやる気を出し、ついでに芝生の縁を刈るトリミングの機械を買った。縁というのは、コンクリートや壁との境目であり、普通の金属の刃ではコンクリートや刃を傷つけるので、特別な機械が必要なのだ。日本でも売っていたのかもしれないが、私はこちらで初めてみてその巧妙さに感心した。

なんと、刃は金属ではなくて、釣り糸を太くしたような柔らかいポリエチレンのヒモなのである。尖っているわけでもギザギザしているわけでもない。これが高速で回転すると芝生程度のものは切れるのである。ひもは中で何メートルか巻かれていて、使っているうちに磨り減って短くなると少しずつ出てくるようになっている。さっそく狂喜して、芝生の縁という縁をそろえまくった。私はこういう、何かを切ったりすることが無性に楽しいのである。整理好きというわけではない。切る行為が面白いのだ。

思い出すのは、小学校5年生のときのことである。あるとき、授業中に「髪の毛をハサミで好きなように切って遊んだらどんなに面白いだろう」と思いついた。最後は丸坊主にすればよいので、その途中で遊べばよいのである。もう、とんでもなく面白いことを思いついたと思った。そう思うといてもたってもいられなくなり、学校が終わると大急ぎで家に帰って、裁ちバサミでメチャクチャに切って遊んだ。肝心のその部分は覚えていないので、大して面白くなかったのだと思う。遊び終わって、床屋に行くときに、恥ずかしくて帽子を被ったことを覚えている。また、床屋のおばさんになぜか責めるようなことを言われたのも覚えている。

次の日に学校に行くと、大騒ぎになった。学校には坊主頭の生徒はひとりもいなかったから、もう全員が寄ってきて大笑いしながら私の頭を触った。少しは恥ずかしい気持ちがあったのだが、あまりにみんなの嘲笑がひどいので、さすがに悲しくなったものである。ところが驚いたのはその日の道徳の時間である。先生が「条太君は勇気がある」と話しだし、本当の勇気とはなにかについて延々と語ったのである。勇気とは無謀なことをするのではなくて状況に流されずに正しいことをすることだというようなことで、友達に「馬の腹の下をくぐってみろ」と言われても、くぐらなかった少年の話を例に出していた。それはいいのだが、私の場合は、ただ単に面白いこと、やりたことをやっただけである。いわば自分の欲望に忠実に従っただけなのだから、勇気もクソもないのだ。それに、髪型で笑われることなど最初から屁とも思っていないので、勇気さえ不要だったのである。こういう、トンチンカンなことで誉められるのは本当に居心地の悪いものである。教壇に立たされて真っ赤になりながら「わかってねえなこの先生」と思ったものである。