子供の秋休みに合わせて来週一週間、休暇をとることにした。こちらではゴールデンウイークもお盆休みもないので、赴任して初めての連休でとても楽しみだ。アトランタの回転寿司にでも行こうと思っている。
それはいいとして東北弁の話だ。むかし職場の大阪出身のやつが飲み会で「関西弁といっても大阪弁と京都弁ではぜんぜん違うので関西弁というものは存在しない」と息巻いた。「それでも共通点というものがあるだろう」と言っても彼は「無い」と言って決して認めなかった。本当に話のわからない奴なのだ川上というのは。
そんなことを言ったら東北弁だって全然違う。私の育った岩手県と隣の宮城県でさえ全然違うように思える。それでも共通点はあるのだろうと考えて「東北弁」という概念を甘んじて認めているのだ。
この東北弁について大問題を提起しておきたい。それは映画やドラマなどで東北弁として使われる「お願げえしますだ」とか「オラ、学校さいっただよ」などというせりふの語尾である。『まんが日本昔ばなし』の市原悦子の異様なセリフを聞くにつけ「これはどこの言葉だろう」と思っていたのだが、ほどなく東北弁のつもりらしいことに気がついた。私の生まれ育った岩手県および宮城県の複数の親戚では、そういう語尾は老人を含めても一度も聞いたことがない。「どこか他の東北の県でそう話しているのかもしれない」と思いながらも、「もしかしてこれはデタラメな東北弁なのではないか」とずっと疑っていたものだった。それを確かめることができたのは大学に入ってからだ。なにしろ『東北大学』というだけあって、東北のすべての県出身の学生がいるわけだが、誰に聞いてみてもそのような話し方に心当たりはないという。思ったとおりだ。「~しただ」「~ですだ」という語尾は、非東北人が東北弁の濁音や紋きり型の語尾から得たイメージから創造して定着してしまった架空の東北弁なのだ。もちろん吉幾三の「オラ東京さいぐだ」の語尾もデタラメである。
これよりはマシだが、気になるのが助詞「さ」の乱用だ。「魚さ煮て食った」「太郎さ寝た」という具合だ。これも東北各地出身の人に聞いてみたが、心当たりのある人はいなかった。東北弁で助詞に「さ」を使うのは標準語で目的や対象を指す「に」「へ」に相当する場合だけだ。「学校さ行ぐ」「太郎さ言って聞かせる」という具合だ。この「さ」が標準語にはなくて印象的なので、それを乱発すれば東北弁らしくなると思っているのだ。助詞は言葉と言葉の関係を表すものだ。「太郎さ学校さカバンさ持って行った」などとすべて同じ助詞を使ったら助詞として機能しないので、そんな用法は有り得ないのだ。
脚本家や役者の中にも東北出身の人はいくらでもいるだろうに、彼ら自身もこのような状況に異を唱えないのは「東北のどごがでそう話してる人いるんだべ」と考えるからか、あるいは「日本人の多ぐがそれが東北弁らしいど思ってるならそういうごどにさせでおげ」と考えてこの世のどこにも実在しない「トーホグ地方」の世界を演じることを選択するからなのだろう。奥ゆかしいのだ東北人というのは。