月別アーカイブ: 11月 2007

サンドペーパーラケット

たまには卓球のことでも書こう。

職場の同僚にゲイリーという50代のオジサンがいる。彼は私が卓球が好きだと知っているのでときどき
卓球の話をしてくれる。彼が言うには、スポーツはなんでも得意で卓球も大好きでよくやっていたという。

それでラケットの話になったのだが、彼はサンドペーパーラケットがもっともコントロールがよくお気に入りだという。紙ヤスリである。

なんと。サンドペーパーラケットとは、卓球界にラバーというものが登場する前に使われていたものだ。ラバーが発明される前は、木地のままだったり、コルクだったり、それらの表面に皮を貼ったり羅紗を貼ったりサンドペーパーを貼ったりしたラケットが主流だったのだ。ところが1902年のある日、イギリスのグッドという人が、薬局でつり銭の入っている表面にイボイボのある皿を見てそれを譲り受け、ラケットに貼ったのがラバーの始まりである。その後、日本人が、これを裏返しに貼ってさらに回転のかかるラバーを発明した。だから日本卓球界では今でもイボが表面にあるラバーを「表ラバー」と呼び、イボのないラバーを「裏ラバー」と呼んでいる。今では世界中のほとんどの選手が裏ラバーを使用している。

さて、サンドペーパーラケットだが、いくらゲイリーが年寄りだといっても、彼が卓球をしたといっている少年時代はせいぜい1960年である。サンドペーパーラケットなどとっくの昔にルールで禁止されているので、使用している人もいなければ、そもそも売っているはずもないのだ(使って有利でもないが、おそらくボールが壊れやすくてしょうがなかっただろう)。

ところがゲイリーは、このあたりではポピュラーで、店で売っていたものを買ったという。色はベージュで当たり前のように売っていたらしい。さすがアメリカだ。国際卓球連盟のルールなど知ったことではないのだ。
もちろん、これはゲイリーのようなホビープレーヤーだけが買っていたのであって、当然、競技者はそれくらいのことは知っていただろう。そんなラケットでは出場もできないんだから。

それにしても、卓球研究者の私としては、そのサンドペーパーラケット、どうしても見てみたいものだ。ゲイリーに見つけてくるようにお願いしている。

ミウラ折り(会社の三浦じゃねえぞ)

紙製の大きな地図を買ったことがあるだろうか。私も仙台市のや、ドーサン市の地図を持っているが、いつもストレスを感じるのがその畳み方だ。地図を見るときは見たいところだけを表に出してあとは適当に折るので、いざもとの形にしまおうとすると、元々どう畳まれていたか覚えていないので、変に膨らんだりして非常に不愉快なのだ。それでも別にどうでもいいことなので、長い間、考えることもしていなかった。

先日、『折紙の神様といわれる男』の話をふと思い出してネットで調べていたら、そこに「ミウラ折り」という折り方が載っていた。どんなものかと見てみると、なんとそれは東大の教授が発明した地図の折り方として世界中に広まっている由緒正しい折り方なのであった。

どこが優れているのかというと、開閉がワンタッチでできるのだ。詳しくはサイトを見てほしい。

http://www.miura-ori.com/usage.htm

「こんなの俺だって考えつく」と思う人もいるかもしれないが、発明とはそういうものだ。「もとの大きさの数分の一の大きさに畳んで、それをたった二箇所を持ってワンタッチで開閉できる折り方を考えてみろ」と言われたら、ちょっと考えて「不可能です」と答えてしまうのが普通の人間だろう。学校の問題のように答えがあることがわかっていればまた違うと思うが、答えがあるかどうかもわからない時点で考えつくところが偉いのだ。

そんなに便利な折り方だと知っていれば私も地図をそのように使ったのに、いつも「なんかわけのわからない折り方されてるなあ」と思ってすっかり膨らんだ地図を無理やりしまったりしていたわけで、とても損をした気分だ。

ミウラ折りの極意は、横方向にジグザグに奇数回折った後で縦方向にジグザグに偶数回折ること、これだけだ。人類の英知はすばらしい。後に生れた方が得だと思う。

ミウラ折りの説明の中に、同じような構造の羽をもつ昆虫がいると書いてあった。遺伝子の複製ミスと自然淘汰だけでそんな生物が出てくるとは驚きだ。もっとも、人間の精巧さは「ミウラ折り」どころではないことは分かっているんだが、人体の構造よりも分かりやすい分だけ、不思議さがつのる。

インチキ占い師

仙台駅前に『中央通り』というアーケード街がある。休日になるとこの一角に、有名な「○○易断」と書いた垂れ幕が設置され、占い師が興行を始めるのだ。

学生時代のあるとき「どんなことが行われているのかじっくりと見てやろう」と考えた。私が足を止めると、なにやら地面に干支が書いてある紙を広げて演説を始めた。そのうち客がだんだんと増えていき、5分ばかりの間に10人以上の客が「何が始まるのか」と集った。

占い師が言うには、ここにいる客の干支を当てて見せるという。それはすごい。いくら外見で歳の見当がつくといっても、せいぜい5歳くらいの幅までだろう。これが100%当たる方法などこの世にあるのだろうか。そんな方法はとても思いつかない。もしすべて的中したらどうしよう、と内心かなり焦った。占い師は続けて「他の人にも当たったかどうかがわかるように、自分が後を向いているので、当てて欲しい人は皆に見えるように自分の干支を指してほしい」と言った。なんだ、そういうことか。
それで、3人ばかりが干支を指し終わると、占い師は向き直り、その客の手を握って、いろんな理屈を言いながらすべて言い当てた。

こんなもの、客の中にサクラがいてサインを送っているに決まっている。どいつがサクラだろうと考えてみると、私より先に足を止めていた客は一人しかいない。黒いコートの若い女性だ。それで、占い師が干支を当てている最中、彼女の顔をみると、なんとこいつ、占い師の方を見ていない。客の全員が興味津々で食い入るように占い師を見ているのに(わざわざ足を止めて見ているのだから当然だ)、彼女だけは退屈そうに他の客の顔など見ているのだ。こいつに間違いない。それにしてもプロ意識の低いやつだ。そして、占い師が占う段になると、右手の人差し指を鼻に当てた。やっぱり。二人目のときは、人差し指をあごに持っていき、その姿勢のまま私と目が合ってしまった。向こうも気まずかっただろうが、こちらもかなり気まずい。

これで占い師は自分の能力について客を信用させることにまんまと成功したわけだ。占い師は続けた。「この中に、お金のことで悩んでいる人がいる。プライバシーの問題があるので誰とは言えないが先ほど皆さんの手を握ったときに、その人だけ特別強く握ったのでわかるはずだ。」という。「お子さんのことで悩んでいる人もいるぞ」などと適当なことを言っている。それらの悩みを今日は無料で見てあげるという。無料なら私も見てもらおうと思い(もちろん、どんなデタラメを言うのか確認するためだ)、すっかりその気になっていると「ただし真剣な人に限る。冷やかしだけはお断りしたい。それで、冷やかし防止のために1000円だけ負担してほしい。今日はあちらの幕の中に東京から偉い先生がいらっしゃっているが忙しいので早い者勝ちで数名にさせてほしい」と言って棒を客に突き出した。すると客のほとんどが本当に争ってその早い者勝ちの棒を手に取ったのだった(もちろん黒いコートの女性は真っ先に取った。見てなかったくせに)。こうして彼らは15分ばかりの間にまんまと一万円近くをせしめたのであった。見事だ。多分これを一日に10回ぐらいやるんだろう。

占い師が話をしている間に、幕の中の「東京から来た偉い先生」をこっそりのぞいてみた。そこには、パンチパーマに薄いサングラスをかけた男が、革ジャンパーを着て寒そうに背中を丸めて、小さな折りたたみ椅子に座っていた。うーん、わびしい。これも人生だなあ。

韓国レストラン

2001年にドーサンに手坂と出張で一ヶ月ぐらいきたときに、韓国レストランを見つけた。当時、韓国雑貨店はあっても韓国レストランの存在までは知られていなかった。ある休日の昼に韓国雑貨店に買出しに行くと、ブレアという職場の同僚とばったり会った。ブレアは奥さんが韓国人なので雑貨店にきていたのだ。たまには中華でもアメリカンでもないレストランに行きたいと思っていた私と手坂は、ダメ元で聞いてみるとなんと韓国レストランを知っているという。それで、地図を描いてもらって見つけたのが最初に知った韓国レストランである(これはかなり山奥だったが、その後、もっと近くに2軒でき、韓国雑貨店にも併設されたので、今では合計4軒が知られている)。

そこには焼肉、ビビンパなどがあるのだが、なんといっても美味しいのがキムチチゲだ。日本で出されるものと違って酸っぱいところがよい。酸っぱくて熱くて(なにしろ沸騰しながらやってくるのだ!)辛いので最初は抵抗があるのだが、慣れると食べずにはいられなくなる。手坂は汗だくになってこの激辛のキムチチゲをハナをかみかみ食べたのだった。

夕飯は生牡蠣がとっても美味しく、おそらくドーサンでもっとも人気の高いレストラン『ハンツ』に行った。私はもともと生牡蠣は嫌いで食べなかったのだが、赴任者に勧められて食べたところ、日本のと違って生臭くなく、とても美味しいのだ。日本で牡蠣が好きな人は逆にこちらのは味がしないといってイマイチらしい。道理に合っているところが嬉しい。

その夜、手坂を激しい下痢が襲った。心当たりは二つある。激辛キムチチゲと生牡蠣だ。それで次の週、私は手坂に対照実験を命じた。キムチチゲを食べて生牡蠣を食べないのと、キムチチゲを食べずに生牡蠣を食べるのとをやらせてみたのだ。出張のつらさを紛らわす、ささかやな遊びである。その結果、手坂は生牡蠣を食べると腹を壊すことがわかった。その後も手坂はハンツの生牡蠣の美味さに見せられ、出張にくるたびに下痢を覚悟で食べ続けている。手坂家の絶滅が心配である。

占いの話

世の中には、公然と人をだます大人がいるとういことを知ったのは小学校高学年のときだ。それまでは、まさか本にウソが書いてあるとは思いもしないし、大人が売っているものにウソがあるとは思ったことがなかった(もちろんウルトラマンなどのフィクションとしてやっているものは別だ)。

あるとき、家族の誰かに連れられてデパートの食堂でラーメンを食べたのだが、そのテーブルの上にメロンほどの大きさの球形の占いの機械が置いてあった。100円硬貨の投入口が12箇所あり、自分の星座のところに入れてレバーを引くと、下から運勢を書いた巻物が落ちてくる仕組みだ。こんな小さな機械でどうやって星座ごとに別の巻物が落ちてくるのだろうかと、硬貨の投入口をのぞいて驚いた。すべての投入口が中で繋がっているのだ。どこから硬貨が入ったか検知するような部品もない。つまり、どの星座から硬貨を入れようとも、出てくる巻物は同じなのだ。それまで、こんな占いにも何か原理があるんだろうと思っていた私には、大変なショックであった。

親に買ってもらった『占い入門』を熱心に読んだが、だんだんとおかしい所が目につくようになった。手相の見方のところで、手に青いアザがあると水難の相、赤いアザがあると火難の相だというのを見て私はブチ切れた。水が青いのはたまたま光の関係でそう見えることが多いだけだ。水道の水は透明ではないか。ガスの火は青い。そもそも手に青や赤のアザがあることと、人が水や火をどう見えるかの関係があまりにもないではないか
同じ本で、コイン5枚を投げて表と裏がどういう順番に出たかで運勢を占うやり方が紹介されていた。投げたコインの結果によって、32通りもの運勢の表が書いてあった。ところがやり方のどこを見ても、「最初の1回だけが有効」とか「複数回やったときは平均をとること」などという条件が書いていない。では、続けて何回もこの占いをやったらどうなるのか。もし占いが正しいなら、何回やっても同じ結果が出るか、または、どの回を運勢として採用すべきなのかの注意書きが書いていなくてはおかしいではないか。だからこれはデタラメなのだ。

大人が小学生向けにまじめぶって書いている本にこんなにデタラメなことが書いてあるのはショックだった。しかしそれでも不思議なことが好きだった私は、その後も、ウソだとはっきりとわかる物以外は、だいたいの事は信じ続けていったのだった。

デパートの食堂の占いの機械や小学生向けの本だからデタラメだったのだろうか。残念ながらそうではない。街の易者はもっとひどいインチキであることが後で分かることになる。それは後日、書くことにしよう。

心霊写真

妻の知人が、子供の手が一部欠けたり消えたりしている写真があるので「事故の前触れか」と心配し、お祓いをしてもらおうとしているという。

私は小さい頃からオカルトが大好きである。世界の七不思議とかの挿絵に興奮したし、『占い入門』という本を買って占いを身につけようと思ったりした。

中学に入ると『恐怖の心霊写真集』やら『うしろの百太郎』、矢追純一の木曜スペシャルなどでオカルト好きは一気に加速された。超常現象を認めない既存の科学に反感を抱き、俺こそ霊魂の存在を実証してやるとばかり、夜中に友達とひい爺さんとひい婆さんが眠る墓地に行って心霊写真を撮ろうとしたり、幽霊の声を録音しようとラジカセを持って行って墓の前で回したりした。ちゃんと本に書いてあった通り、カメラは一週間前から仏壇に上げておいたが、幽霊は写らなかった。
コックリさんもクラスで大流行したが、そんなに簡単に霊など来てたまるかと思い、霊を呼びよせていると称するやつら全員を目隠ししてみたら、案の定コインは動かなくなった。霊が来ているならどうして人間を目隠ししただけで動かなくなるのか。誰かがインチキをしていたからだ。その後で、絶対に信用できる友人だけをつれて誰もいない静かな教室に行って心から真剣にコックリさんの儀式をしたが、コインはピクリとも動かなかった。私は軽々しく超常現象を信じている誰よりも強くその存在を望んでいる。だから偽者は絶対に許せないのだ。

オカルト好きは今も同じだが、これまで分かったことは、心霊写真などというものはすべてカメラのいたずらであり、幽霊が写っているものなどないということだ。

お祓いをして無駄金を使おうとしている、妻の知人が気の毒なので、カメラのいたずらであることを説明するために、心霊写真のようなものが写るメカニズムを実験で確かめた。

体の一部が消えてたり透けたりする写真は偶然に以下の条件が重なったときに起こる。

・体が動いている
・背景が明るい(白い)
・シャッタースピードが遅い(露光時間が長い)
・フラッシュを焚いた

シャッタースピードが遅いときに動くと、動いたものがぶれて薄く写ることは誰でも知っていると思う。そのときに背景が明るいと、そのぶれて薄い部分が明るい背景に負けて消えてしまうのだ。また、フラッシュを焚くと、手前で動いているものはフラッシュが光った瞬間だけ光が強いので止まって写り、フラッシュが光っていなかった間の映像と重なるので、結果的に背景が透けて写るのだ。
下の写真は、カメラをマニュアルで上のような条件にセットして、息子に卓球の素振りをさせて撮影したものだ。このように、消えたり透けたりする写真が100%確実に撮れる。利き腕が消えることが多いのも、よく動かすためだ。

以上のように、カメラの特性で説明がつくものなのだが、妻の知人の写真が本当に霊ではないことまでは証明はできない。例えどんなにそっくりの写真が簡単に再現できたとしても、その写真も同じ原理で撮影されたかどうかまでは誰も100%証明できないからだ。あとは常識で判断してもらうしかない。どのみち、人は自分が信じたいものしか信じないのだ。

それにしても祈祷師は良い商売である。試しに手の欠けた写真を持って行って見てもらうのもよかろう。その祈祷師の「程度」がわかって面白いではないか。「これはなんでもない写真です。祓う必要はありませんよ」と言ったらたいしたものだ。

謎の卓球集団

昨夜、会社の日本人赴任者の飲み会があった。インチキ日本料理店MIKATAで寿司やら炒め物などを食べた。店を出てからブログのネタにと店構えを撮影していると、赴任者たちが「我々のことはいつブログに載せてくれるのか」と言う。いつと言われても、卓球に関係もなく、面白いネタもなしにただ知人を載せるなどということはできない。「いつもどうでもいい個人的な写真を載せてるくせに」と言われそうだが、いちおう私としては第三者が見て面白いだろうと思うことを選んで書いているつもりなのだ。

どうも彼らにはそう思えていないようで、「載せろ載せろ」と酔った勢いで言う。そこで私は一考を案じて「全員で卓球の素振りをしてくれるなら載せてもいい」と言った。そこまでして卓球王国のブログに載りたい奴らがこんなにいるということなら、それはそれで少しは面白いだろう。

かくして卓球など知らない彼らは、各々が思い描く卓球のテイクバックとフォロースルーを嬉々としてやったのだった。左利きの宏之さんがちゃんと左で振っているところが律儀である。また、中央奥の上関さんはさすがに中学で卓球部だっただけあり、左足のつま先の向きが他のメンバーとは一線を画している。横シマ模様の大場さんはひざの曲がり具合が完璧で、左つま先の向きもいい線いっている。右端のアキラ君も中学のときに卓球部だったはずだが、左つま先の向きが違うのは極めて遺憾である。そのうち指導せねばなるまい。

左端の藤原くんは9月に赴任してきたばかりで、私が卓球を誘うと「卓球は医者に止められています」とわけのわからない言い訳をして拒否をする。どこにそんな病気があるのか知らないが、少なくともフォームは治療の必要がありそうだ。

ハロウィン

10月31日はハロウィンであった。日本でも、かぼちゃをくり抜いた人形などで有名であるが、実際に行事を見るのははじめてだった。

由来を聞くと、死者の霊だか悪霊だかが帰ってくるので、それに備えて仮面を被ったりして扮装するのだという。なんだか日本のお盆とナマハゲの混じったようなものなんだろう(そういえば、8月頃「アメリカにはお盆はないのか」と聞いてきた知人がいた)。死者の霊に備えるにしては、店で売っている扮装が魔女、怪物、13日の金曜日のジェイソンなどで、どちらが悪霊かわからない。そもそも悪霊が何かを怖がるとも思えない。仲間のふりをして油断させようということか。

当日は、扮装をした子供たちが家々に押しかけて「trick or treated(お菓子をくれないといたずらするぞ)」と言ってお菓子をもらうらしい。玄関にハロウィンの人形が置いてあるとお菓子を用意している印だそうだ。もしお菓子をあげないと生卵をぶつけられるのだという(これが「いたずら」だ)。まあ、いやなら玄関を開けなければいいだけのことなので別に強制ではない。我が家の子供達もあちこち回ってお菓子をもらってきたようだ。

ハロウィンの飾りつけは何週間か前から家々でやられていたのだが、中には単なる人形だけではなくて、妙に凝ったものがある。家の庭に墓地を作ってみたり、幽霊どうしが手をつないで踊っているようすを飾ったりだ。もう元の由来などどうでもよくて、とにかく不気味な物ならなんでもいいとばかりに飾りつけているようである。

大食いの手坂

痩せの大食いというのがいる。たくさん食べているのに痩せているということは、エネルギー保存の法則から考えれば、二つの原因が考えられる。異常に熱を外部に発しているか、多量に排泄しているか、つまり大便を大量に出しているかだ。通常、こんなことは人に聞けないのだが、誰もが抱いている疑問だと思う。

元の職場の後輩に手坂という奴がいる。これが典型的な痩せの大食いで、よく食べるのだが、太らないどころか最近では少しづつやせてきているという。それで聞いてみると、やはり大量に出すのだそうだ。特に下痢をしているわけでもないのに日に2、3回、しかもたっぷりと出すのだそうだ。当然、最初のころは奥さんから「どうしてそんなに出るのか」と聞かれたそうである。それほど極端なのだ。
手坂という名字は本人の希望があって仮名だが、本名も聞きなれない名字で、全国にも50件もないという。名字博士という興味深いサイトを見つけた。そこに名字のランキングがあるのだが、彼の本名は1万位までは載っていなかった。http://www.alles.or.jp/~tsuyama/name.htm

食べても太らないというのは、現代では良さそうだが、生物としては効率が悪いのだから当然、良くないことだ。飢饉にでもなったら真っ先に飢え死にするだろう。食っても食っても出るのだから当然だ。おそらく手坂の先祖たちは、飢饉のたびに絶滅していたものと思われる。「それでお前の名字が少ないんだろう」とからかっていたものだ。しかし、現代の日本の名字など、明治維新のときに皆で勝手に名乗ったものらしいし、明治以降は飢饉はないので、真偽のほどは不明である。しかし話としては、そういうことにしておいたほうが面白かろう。

このブログのこと

このブログがどれくらいアクセスされているのか興味のある人もいるだろう。編集部から教えられたURLにアクセスしてパスワードを入れると、アクセス数がわかり、日ごとに棒グラフで出てくる。それによると、一日の平均アクセス数は次のようになっている。

8月 181件
9月 196件
10月 203件

最高は10月中ごろの295件である。2番目の記録が249件なので、その日に何か特別な理由があったのだと思われるが、見当がつかない。誰かがリンクを貼ったのだろう。

特にアクセスが多い曜日は決まっていないが、総じて土日は少ない。また、3連休になるともっと少なくなる。多くの人が会社や学校からアクセスしているものと思われる。

卓球王国自体の一日のアクセス数がだいたい2000~3000件であることを考えると、このブログを読む人は10人に1人もいないことになる。日に200件も読んでくれる人がいることは嬉しいような気もするが、卓球王国という大きな媒体を使っているのにこの程度だと思うと、やはり寂しい。

200件といっても、おそらく編集部の20人が2回づつ見て40件、元の職場や今の職場の連中がだいぶ見ているらしいので50件ぐらい(卓球にぜんぜん興味がない人のアクセスなので卓球王国にとっては無意味だ)、さらに2番弟子の田村が日に5回はアクセスしているらしいので、だいたい100件ぐらいは内輪のアクセスということになる。

正味100件が本当の一般の人のアクセスなのだ。やはり寂しいが、書くことは楽しいので続けていこうと思う。卓球王国のサイトなのに卓球ネタが少ないのは、限られた卓球ネタを雑誌連載のためにとっておきたいからだ。まさか卓球王国でハゲや小便やビートルズのことを書くわけにもいかないからである。

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