宛名書きと文法の関係

アメリカと日本では手紙を書くときの住所の書き方が違う。

日本でなら
宮城県仙台市若林区大和町3丁目5-6
伊藤条太さま

などとなるところが、アメリカ式では
Jota Ito
3-5-6 Yamatomachi Wakabayashi-ku, Sendai-shi, Miyagi-ken

という具合になる。徹底的に順番が逆なのだ。どうして逆なのか考えてみて、ひとつの仮説に達した。これは文法に起因しているのではないか。
日本語でたとえば「男の声」というのを英語では「Voice of Man」と書く。つまり修飾される語と修飾する語の順番が逆なのだ。日本の住所の文脈は
「宮城県の仙台市の若林区の大和町の伊藤家の条太」であるが、英語の文脈では
Jota of Ito of Yamato-machi of Wakabayashi of Sendaishi of Miyagiken
なのだ。だから完璧に逆なのだ。とはいえ、アメリカ人でも実際に配達するときには、書いた順序にJotaから見るわけではなく、当然、最初に何州かを見て、次に何市かを見て、最後に番地を見るはずである。最初に番地を見て配達できる人などいまい(最初に番地ごとに手紙を分けても配達の役に立つどころか妨げにしかなるまい)。
また、人の名前でも、いつもはDavid Hallと苗字を後ろに書いていても、電話帳などの名前のリストではHall,Davidという具合に苗字を最初に持ってくる。これは名前だとDavidだのJohnだのMikeだのあまりに同じ人が多くて検索の要を成さないこともあるだろうが、この点でも、アメリカの通常の書き方はやはり実用的ではないと思う。

文法の違いは、そのまま個と集団の関係に対する意識の違いから来ているのではないか、というのは考えすぎだろうか。

ところで、アメリカから日本に手紙を出すときに、なぜか日本の住所や氏名までアルファベットで書く人がいるが、そんな必要はない。それを読むのが郵便局員や配達人などの日本人であることを考えれば、日本語の方がよいに決まっている。むしろアルファベットなどで書かれたら迷惑千万なはずだ。アメリカ人がアルファベットで住所や名前を書くのは、日本語を書けないからしかたがないだけのことであって、我々がわざわざそんなことをする必要はないのだ(私もそれがルールだと思い込んでしばらくやっていたので大きなことは言えない)。もっとも、アメリカから出しているという雰囲気を出すためにこれみよがしにやるというならそれもよかろう。