小野田寛郎

小野田寛郎の『たった一人の30年戦争』を読んだ。
小野田寛郎といえば、私が小学校のころ、ルバング島で発見されて帰還した旧日本兵だ。てっきり、生き残るためにずっと逃げ回っていたんだろうと思っていたのだが、実際はまったく違っていた。

彼は、日本軍の諜報員(スパイ)養成学校「陸軍中野学校」出身の諜報員で、戦後27年間もルバング島にとどまっていたのは、敵から逃げるためではなくて、残置蝶者としてゲリラ戦を展開するためだったのだ。諜報活動には、敵に自分の存在を知らせて間接的に祖国の仲間に自分の存在をアピールすることも含まれているから、故意にたびたび地元住民の前に姿を表しながら「諜報活動」を続けたという。つまり小野田は、逃げて隠れていたのではなくて、信じがたいことに、ひとりで戦争を続けていたのだ。

陸軍中野学校は、その性質上、戦時中は存在をひた隠しにされており、関係者以外には親にさえその任務は知らせてはいけなかったという特殊機関である。人材は高等教育を受けたエリート集団で、天皇批判も国体批判も自由、忠誠を誓う相手はただひとつ「日本民族」だったという。どんなことがあっても玉砕は禁止、敵の捕虜になって偽情報を与えることが任務だったという。証拠が残るため、あらゆることについてメモは禁止だったので、ジャングル生活に入って20年目に新聞を拾ったとき、小野田のカレンダーは「6日ずれていた」ことがわかったそうだ。

小野田は日本のラジオや新聞の情報も得ていたが、なまじ諜報戦の知識があったために「これは敵の謀略だ、今の日本国家は敵国の傀儡政権だ」と敗戦を信じなかったという。日本政府は何度か上空からビラをまいたり拡声器で呼びかけたりして小野田の投降をうながしたが、運の悪いことに、ビラに字の間違いがあったり、小野田の父が小野田の弟の名前を書き間違えたりしていたことから「やっぱりこれは敵の謀略だ」と確信を深めるに至る。また、兄が大好きだった一高の寮歌を歌って本物であることを示したが、この一部が「調子っぱずれ」だったことからやはり敵の謀略だと判断したのだが、実は涙をこらえるために音程が狂ったのだとは小野田は知る由もなかった。

小野田は、痕跡をさとられないように2週間おきに居場所を変えていたが「旧日本兵のねぐら発見」「たき火跡を発見」などと書かれた新聞を拾って見ては「私はよほどバカだと思われているようだ。ブタや牛じゃあるまいし、ねぐらや足跡を残して三十年も生き抜けると思っているのか。せいぜいブタでも追っかけてろ」と笑ったそうだ。

結局、小野田が投降することになったのは、鈴木紀夫という青年探検家が現地にキャンプを張って粘り強く滞在して小野田と接触したことがきっかけだった。この鈴木青年が小野田さんに「27年前に戦争は終わっている」とどれだけ言葉を尽くしても鈴木青年のファッションや言葉遣いがあまりに「敵国製らしかった」ため信用できなかったと言うくだりが面白かった。

結局「上官の谷口少佐の命令があれば投降する」という小野田の言を受け、谷口元少佐を現地につれてきて「任務解除命令」をしたことによって、初めて小野田は戦争が本当に終わっていることを知った。この直前の小野田の考えも凄まじい。

「新聞によると、谷口少佐は宮崎県で本屋を営み、一市民として暮していると言うことだった。しかし、それはあくまで表向きで、市民を装いながら、裏では依然、諜報活動を続けているのではないか。軍の謀略関係者が、そう簡単に一市民に戻れるはずがない。(中略)谷口少佐は、私がどのような命令を与えられ、ルバング島に赴任したかを一番よく知っている人物だ。それを知りながら、いまなお「任務解除」の命令を伝えないのは、残置諜者として私をこの島にとどめておく必要があるからにちがいない。」

小野田はもともとバリバリの軍人だったわけではない。召集される前までは、貿易会社で中国湖北省の漢口支店に勤めており、英国製の背広を着て米国製36年型スチュードベーカーに乗って夜のダンスホールに入りびたっていたという。「どうせ二十歳になれば召集」と刹那的に遊びまわっていたそうだ。そういう人間が、陸軍中野学校に入って命令を受けたからといってその責任感だけで27年間もジャングルで任務を遂行する、こんなことが人間に可能なのだろうか。この本を読んでから、朝起きるときや夜寝るとき、小野田さんの生活がどういうものだったのかということを考えずにはいられない。いくら考えても想像がつかない。本当に凄い人間がいたものだ。

小野田が帰還したときの記者会見で「ジャングル生活で一番辛かったことは」との質問に「戦友を失ったことです」と答えた(投降の2年前まで、小塚一等兵と二人で諜報活動をしていたが、地元軍によって狙撃された)。「楽しかったことは?」と聞かれ「今日の今までひとつもありません」と答えた。兄の格郎の言葉「父上、寛郎は気違いです。そうでなければ、戦場で三十年も生き抜けなかったと思います」という言葉どおり、ある意味でこの人は狂ってると思う。しかしその生き様には、感動で身震いを禁じえない。生きているうちに会いに行きたいと思うが、そのチャンスはたぶんないのだろう。