訛りに関する思い出

私の育った岩手県はもちろん東北弁が通常の会話で使われる。小中学生ともなると、標準語を使うことはかなり難しい。もちろん普段から本を読んだりテレビを見たりしているわけだから、読む、聞くは問題なくできる。しかし、話すのは難しい(英語みたいだなまるで)。

高校時代の卓球部の友人に聞いた話によると、彼が中学のとき、友達同士で「訛ったら負け」といういかにも東北の少年らしい、もの悲しい遊びをやったらしい。

それでゲームを始めはいいが、第一声で「僕は、んで・・」と言って負けてしまったという。「んで」とは「それじゃ」という意味だ(標準語圏でも「それで」の意味で「んで、どうしたの?」などと使うことがあるので比較的分かりやすいだろう)。標準語を話すという緊張を「僕は」までしか保てなかったというわけだ。

偶然だが「んで」については私にも思い出がある。小学生のとき、東京の親戚が埼玉に住む知人一家をつれて我が家に遊びに来た。当時の我々にとって埼玉はもちろん東京と同じことだ。その家には私とほぼ同年代の少年がいて、すぐに打ち解けて遊んだのだが、ひとつだけはっきり覚えているやりとりがある。私はなんとか緊張しながらも標準語を使って意思疎通に成功していたのだが、地元のこどもどうしで話しているときに「んで」と言うと「それどういう意味?」と聞かれた。「『それじゃ』という意味だよ」と言うと、「じゃあ、どうしてそう言わないの?」と「素朴な疑問」を呈されて、私はそれにうまく答えられず、なにか負けたような気持ちになったのだった。視野の狭い小学生どうしの異文化交流らしいちょっとだけ居心地のわるい思い出だ。あのヤロー、今頃どんな大人になっているだろうか。