知識と感性

『ローマの休日』の題名についていえることは、表現を楽しむのに、知識はあった方がよいということだ。よく、芸術を味わうのに知識は要らない、素直な感性で味わえという主張をする人がいる。私も十代の頃はジョン・レノンの話を真に受けて、評論などクソだと思っていた。

しかし段々と、そうではないことがわかってきた。ジョン・レノンは歌を作って歌うことの天才だが、彼の考えまで本気にする必要はなかったのだ。

表現を味わうのに知識は絶対に必要である。なぜなら、我々が生まれてこの方、身につけてきた人間の感情、文化、そういったものすべてが知識に他ならないからだ。言語も知らず日常生活もしたことのない人間が表現を理解することなど不可能である。せいぜい、直接刺激に対して痛いとか熱いと感じることぐらいしかできないだろう。その意味で、知識が不要な表現はあり得ないのだ。

あとは、知識の程度の問題でしかない。日常生活の知識なのか、その作品が作られた国の文化についの知識なのか、作者についての知識なのか、作品の背景についての知識なのか。日常生活の知識はあっていいが、作品についての知識を知るのは不純だとする根拠はどこにもない。

先の小林秀雄の本だが、この点でもかなりおかしなことが書いてあった。「芸術作品の良さがわからないという人がいるが、芸術作品は、理解しようとするのではなくて素の状態で感じればいいのだ」と説く。なんだか今流行りのインチキセラピストみたいな口ぶりだ。かと思えば、別の話ではゴッホの人間性と作品の関係について詳細に述べてみたりだ。作品についての情報を得て理解して感動せよと言ってるのか、それらを否定しているのかどちらなのかわからない。いきあたりばったりの思いつきで書いているとしか思えなかった。