以前、「意味」など考えるのは人間だけだと書いた。「意味」を伝えるものは「言葉」だ。言葉の力はとてつもなく大きい。
私の好きな『編集王』というマンガがある。かつてこれが週刊ビックコミックスピリッツに連載されていたとき、ある号をコンビニで立ち読みしていて、慄然としたことがある。
何コマか使って、誰の台詞とも判別がつかないような次のような詩が綴られていたのだ。
<けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ>
ちょっとひっかかる良い言葉があるが、このあたりまでは格調高いふりしているな、と思うだけで別に何とも思わなかった。
<すべての才や力や材とふものは
ひとにとどまるものではない
ひとさへひとにとどまらぬ
おまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰かけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ>
人さえ同じではいられない、というこのあたりからこのマンガ家、土田世紀のただならぬ言葉の感覚に畏敬の念とわずかな嫉妬を覚えた。こんな台詞を考えるマンガ家がいるのかと。
<みんなが町で暮らしたり一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌ふのだ>
立ち読みしながら全身に戦慄が走る。なんだなんだなんだこの異様な言葉の力は。これが一マンガ家に書ける言葉なのか。大衆消費材として何百コマ、何千コマと書いているマンガ家が、そのうちのただ一回の連載のために考えたこれが言葉だというのか。確かに言葉もマンガ家の創作の一部だが、こんな、野球選手の中に100m走の世界記録保持者がいるようなことがあっていいはずがない。
<ちからのかぎり そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい
(宮沢賢治『春と修羅 第二集』より)>
だーっ!やっぱり!これは宮沢賢治の詩だったのだ。『春と修羅』だったのだ。またまた全身に鳥肌が立つ。
こんなマンガにちょっと言葉を何行か挟みこんだだけで私にも分かるほどの凄まじい力を持つ宮沢賢治とはなんとすごい人なのだろうか。
こう思うと同時に、私がその言葉の力を感じることができたことと、野球選手の中に100m走の世界記録保持者がいなかったことに安堵を覚えた。
すぐにこの詩の全文を手に入れたことは言うまでもない。