年別アーカイブ: 2009

インチキ日本料理屋と食事のマナー

ドーサンにはいくつか日本料理店があるが、日本人が経営している店は一軒もない。やっているのは韓国人か中国人だ。

とはいえ、一応は日本料理っぽいものが出るので、ときどきは食べに行くことになる。結果は写真のとおりだ(だいたい、暖簾に『日本料理』と書いてる時点で日本料理ではない)。てんぷらうどんを頼むと、エビフライが妙なところについてくるし、うな丼を頼むと、なんともいえない外見のものが出てくる。それでも味はそれなりなので、むしろ日本人じゃないのにここまで似せられたのはたいしたものだと思うべきだろう。

ときどき、食事のマナーについて考えるのだが、ある点で、日本と西洋では正反対なのだ。それは、器を持つかどうかだ。日本でごはんを茶碗を持たないで食べたりしたら行儀が悪いことになるが、西洋で皿をもって食べたら行儀が悪いことになる。ファミリーレストランに行き始めたころ、ついごはんの盛られた皿を手に持って食べたものだったし、マークは日本に出張したとき、ごはん茶碗をお盆に置いたまま食べようとしていた(倒れそうであぶない)。

そもそも食器からして違う。茶碗は手に持つように作られているし皿はテーブルに置くように作られている。さらに、日本では汁を飲むのにスプーンを使わないし、しかも熱いため、茶碗から音を出して汁をすすることになる。しかし西洋では汁は比較的ぬるいし皿の形状からしても冷めやすく、スプーンを縦に使って口に流し込むのが前提だ。シェフの味見じゃあるまいし、スプーンの中の汁を音をたててすするなどとんでもない話である。

もっともインド人は手で食べるのが普通だし、まあ、マナーはいろいろだから、せいぜいその場の人たちを不愉快にさせない程度には気をつけなけらばならないとは思っている。ただ、ひとつだけ日本のマナーで納得できないものがある。それは箸と箸とで食べ物を受け渡す、いわゆる「箸渡し」をしてはいけないとされていることだ。その理由が、火葬のときに骨を拾う行為に似ているから縁起が悪いというのだからバカバカしいではないか。似てると思うのは勝手だが、そんなことをマナーにしないでもらいたい。火葬に似たことをしたからといって死ぬわけでもない。だいたい一般人が火葬をするようになってから100年もたってないのだから、そんなものは「バレンタインデーで義理チョコをやらないと失礼だ」という程度の浅い歴史しかない、由緒も何もないデタラメなものなのだ。火葬を思い出すと言うが、そんなに思い出すくらいしょっちゅう骨拾いをやっている人がどこにいるというのか。火葬場の人ぐらいではないか。いっそのこと、料理で火を使うのも火葬や火あぶりの刑に似てるからやめたらどうだろう。

そもそも「縁起が悪い」という発想が気に入らない。北枕が縁起が悪いと聞いて以来、毎日わざと北枕で寝ていた私にとって、こういう非科学的な考えはどうしても受け入れられない。いや北枕の場合は非科学的以前に、理由すらないのだ。なにしろお釈迦様が死んだときにたまたま「頭を北にしていた」というだけなんだから話にも何もなりゃしない。背中を下にしていたことはいいのかね。

箸渡ししたほうが便利なときにはどしどしやるべきだと私は思っている。

不自然な演出

テレビドラマを見ていて気になること

・毎晩、折り目のついた新品のパジャマを着ている
・中学生のクラスに不潔な髪型やテカテカに擦り切れた制服の奴がただの一人もいない
・「なーにシケたつらしてんだよ」と現実に聞いたことのないセリフが頻繁に出てくる。

『なめこインサマー』吉田戦車著

何年か前に、マンガ家の吉田戦車のエッセイ集『なめこインサマー』を読んだ。吉田戦車は私の高校の同級生だ。クラスは違って直接見たことも話したこともないし、知りもしなかったが、ビックコミックスピリッツ誌で相原コージの『コージ苑』の後ガマとして始まった『伝染るんです』が大ヒットし、それが高校の同級生だと知ったとき、驚愕したものだった。

2年ほど前に同窓会があったときに、サインをもらおうと単行本を持参したが、残念ながら会うことはできなかった。彼と同じクラスだったまさひこによれば、無口だったが、ときどき面白いことを言う奴だったという。ああいう作品を描く男ならそうだろうなと、腑に落ちた。

上記の彼のエッセイ集の中に、高校時代の話が載っていた。彼が校舎の壁に卑猥な落書きをして、それが校長の目にとまり、全校集会で校長が激怒するのを彼は冷や汗をかきながら聞いたというものだ。この本には、明らかにウソとわかることもたくさん書いてあって、虚実ないまぜなのだが、この話だけは本当だ。

私はこの事件をはっきりと覚えているからだ。その全校集会で堀川校長が言ったことによれば、その日はどっかからの大事な来客があって、校長はそのお客さんを連れて校舎を案内していたのだという。ところが、あるところに大変卑猥な落書きがしてあり、大恥をかいたというのだ。それで、全校生徒の前で校長先生は泣きながら激怒したのだ。

どうして私がこれをよく覚えているかと言えば、私はそのときの校長先生の「私は悲しいっ!」というセリフを卓球部員の前でしばらく物マネをして大ウケしていたからなのだ。それにしても、そんな絵を校舎の壁に描いたバカは誰なんだろうと思ったものだが、何十年ぶりかにその犯人がわかり、それがかの「吉田戦車」だったというのだから感動的ではないか。

新しい卓球(倉木常夫著)

倉木常夫といえば、我々の世代にとっては独特の卓球理論家として知られている。講習会に行った後輩がすっかり洗脳されて帰ってきたので、信者もそれなりにいると思われる。

しかしこの本に載っている血液型と戦型の解説はいかがなものだろうか。いや、今こそもっとも世の中に受け入れられやすいのかもしれないな。

人形俳句写真『外套』『藤椅子』

今日、知人から人形俳句写真が好きだとメールが来たので、まだアップしていないものを載せておく。その知人は、特に俳句の意味がわからないところが深くて良いとのことだ。俳句は他人の作品なので義姉はちょっと複雑ではないだろうか。

5月にはどっかのギャラリーから依頼されて個展を開くことになったらしい。「それで、準備金として50万円が必要になります」ってなことじゃなければいいんだが。

唐辛子入りチョコレート

アメリカにはいろいろと珍しい味の食べ物があるが、菓子類でもそれは見られる。

私はチョコレートが大好きで、いろいろと食べ比べた結果、スイスのLintdというブランドがとても美味しいことがわかり、それ以来、これだけを買うことに決めている。

しかし、その中に、どうしてもまずくて食べられないのがある。唐辛子入りチョコレートだ。唐辛子とサクランボのジャムが入っているのだが、さすがにこれは美味しいとは思えなかった。まあ、韓国みたいにサナギが入っていないだけでもよしとしなければならないのだろうが、やはりこれはいただけない。

雑誌発売日の謎

小学生のころから疑問に思っていたことがある。

それは、どうして月刊誌は2月に3月号を発売するのだろうかということだ。これはどの雑誌も同じで、発売日と雑誌の表示が必ずズレている。そのズレは雑誌によっても違って、卓球レポートは2/20に発売するのは3月号だが、卓球王国は2/21に4月号を発売する。

こういうことをするメリットはなんだろうかと考えた結果、ある結論に達した。それは一冊でも多く売るための作戦だというものだ。2/20に2月号を発売したとすると、2月中に売切れればいいが、3月に入っても2月号が書店に並ぶことになる。そうなると、実際は最新号なのに古い号だという印象が出てしまって売れ残るリスクが大きくなる。もし2/20に3月号を出していれば、3/19に書店で3月号を見た消費者は、もう一日待てば最新号が手に入るとは気づかず、買ってくれるかもしれない。まして3/19に4月号がおいてあれば、まさかそれが2/20に発売されたものとは思わず、「これは入荷したばかりなんだな」となる。たくさん売れ残っていたりすると、いよいよ入荷したてのホヤホヤに見えて、まさか翌日返品される予定には見えないだろう。さすがに5月号や、思い切って来年号を置いたりするのは逆効果だ。

以上、雑誌の発売日と発売号がズレているのは「新しく見せかけて売るための作戦」というのが私の結論だ。同じような疑問は誰でも考えるものらしく、検索してみると、ちゃんと解説されていた。
http://homepage2.nifty.com/osiete/seito100.htm
ちょっとがっかりだ。

ところで、こんなことを雑誌のウエブサイトで書いていいのだろうか。

荻村伊智朗語録

4月発売号の原稿を書くために、昔の卓球雑誌を見ていたら、荻村伊智朗がニッタクニュースに書いた記事を見つけて見入ってしまった。

1983年東京大会直前に、当時世界2位の中国の蔡振華について荻村が書いた記事だ。以下に引用する。

「まずサービスはとてもよく切れている。対戦した井上(青卓会)が『荻村さんや田中さんの浮き上がって滑るカットサービスと同じです』と言っていた。ということはスイングの速さだけでなく、どのように第一バウンドさせてゆくか、という点でもあるレベルに達していると、私は見る。」
「打球点との出合いは、したがって体を静止させた状態での出合いではない。私や、田中や、木村興治らも得意とした跳躍軌道上の出合いなのである。」

自慢話というかホラ話というか、なんともはや強烈である。雑誌で記事を読むだけでもヒヤヒヤするのに、こんなことを真顔で面と向かって言われたらどうなるのだろうか。もちろん、荻村はじっとこっちの目を見据えて言うに決まっている。こんな人が日本卓球界のトップだったのだから、関係者はさぞかしスリリングな思いをしたことだろう。

『生物と無生物のあいだ』

福岡伸一という人の『生物と無生物のあいだ』という本を会社でみつけたので読んでみた。

その中に、長年知りたかったことが書いてあってとても興味深かった。

万物は原子からできていることは誰でも知っている。では、たとえば食物に含まれているある特定の炭素原子一個に着目した場合、それが体内に入ってどこでどのような動きをするのだろうか。あるものは細胞の一部となって体内にとどまるだろうし、あるものは呼気や排泄物となって対外に排出されるだろう。

理屈はそうに決まっているのだが、あまりにミクロなスケールのことなので、実感がわかなかった。こんなこと確かめようもないわけで、ただぼんやりと不思議がっていたのだった。これに実感を与える実験をすでにルドルフ・シェーンハイマーという人が1930年代にやっていたと知ってすっきりした。

シェーンハイマーは、ネズミの餌に、自然界にはほとんど存在しない通常の窒素原子よりちょっとだけ重い重窒素の入ったものを与え、何日かしてからネズミを解剖し、体内のどこにどれくらいそれが含まれているかを調べたという。シェーンハイマーの予想は、ほとんどの重窒素は体内に排出され、体内に取り込まれるのはほんの一部だというものだったが、結果はまったく違って、わずか3日後には重窒素はネズミの体の隅々の細胞にまで、与えた量の56%もいきわたっていたという。つまり、食物に含まれる原子は、驚くべき速さで体内に取り込まれて細胞になり、古い細胞とどんどん置き換えられているということがわかったのだ。

作者の福岡伸一は、生物とは動的平衡状態、つまり、原子が個体を次々と通り過ぎていく、その流れそのもののことだと書いている。

ダーウィン生誕200年

テイに念のため、信仰について聞いたところ「とても強く信仰している」と即答だった。「どうして俺が神を信じていると思う?」というから私は「キリスト教の家に生まれたからだろう。もし日本に生まれたら無神論になっていただろうし、イスラムに生まれたらイスラム教になっていたさ」と答えた。テイは「それはそうだ」とやけに素直だ。「お前が言いたかったことを続けてくれ」と言うと「祈れば何でも望みが叶うんだ」と言った。

テレビを見ていたら、ダーウィンの生誕200年ということで、進化論についてのアンケート結果を発表していた。それによると、アメリカで進化論を信じているのは38%、信じていないのは27%、残りはどちらでもいいそうだ。しかしここアラバマ州ではかなりの割合で進化論を否定している。

我が家の子供が通っている学校はクリスチャンスクールだが、理科の時間に「進化論は悪魔が信者をだまそうとして考えられたものだ」と教えているそうだ。なんとも凄いことだ。