反社会的な服装

国母問題に関連して、服装というものについて考えて見た。国母に限らず、人はその人が属している世界で流行している服装をしたがるものだ。若者のだらしない格好はもちろんそれがカッコいいと思っているからやっているわけで、間抜けだと思われようとしてやっているのではない。最近の男性芸術家が髪を長く伸ばして後ろで束ねたりするのと同じで、ある種の「定型」なのだ(ヤクザがいかにもヤクザの格好をするのは、相手に自分が怖い人たちだと思わせる目的があるので、これは意外に実用的である)。

さて、問題は、その服装が反社会的を意図している場合だ。何が問題かというと、そのスタイルがすぐに定型になってしまって、反社会という目的が形骸化し、一見、反社会的でありながら実はその仲間内の小さな社会に安住した保守的なものになってしまっているのに本人はそれに気づいていないのだ。

たとえばロックンローラーだ。いかにも反社会的な格好をしているが、それがよくあるロックのファッションであるかぎり、鋲を打とうが鎖をつけようが本当の意味では少しも反社会的ではない。ただ自分の属している小さな社会の流行に合わせているだけだ。それはちょっと格好悪いなと思う。

国母の格好は私も嫌いだが、スノボーの世界では当り前の定番なのであり、彼は十分に保守的なのだろうと思う。むしろ7:3分けにしてラクダの股引をはき、それでスノボーの世界記録をたたき出したりしたらものすごくカッコいいのにと思う。

反社会的な格好で思い出すのが、匿名希望の2番弟子だ。高校時代、授業中に先生にわからないように自分より後の席の奴らを笑わせるため、頭の後半分だけきれいに剃って学校に行ったと言う。どのカテゴリーにも属さない真の意味での反社会的行為だが、残念ながら少しもカッコよくない。しかもただのバカとの区別がつかない(田村はバカというわけではない)。真の意味の反社会的はかっこ悪いので、やっぱりやめた方が良いかもしれない。

何を書いているのかわけが分らなくなってしまった。自分の考えを書くのは難しい。