月別アーカイブ: 6月 2010

アメリカン・ジョーク

向かいの席のグレッグが、面白いジョークを印刷して私によこした。
以下に訳してみる。

****************************************************************************

ある男がコンビニにいると、とても風変わりな葬列が近くの墓地に向かっているのが見えたので、コーヒーと新聞を持ったまま慌てて店の外に飛び出した。

その葬列は、先頭に長い黒塗りの霊柩車が走っていて、その後にもう一台の霊柩車、その後に犬にヒモをつけて連れた男が歩いていて、さらにその男の後に200人もの男たちが一列に並んで歩いていた。

男は好奇心を抑えられず、犬を連れている男に丁重に近づいて聞いた。
「この度はご愁傷様です。こんなときにお伺いするのは大変失礼なのですが、こんな葬列は見たことがありません。これはいったいどなた様の葬式なんでしょう。」

「私の妻のです」男は答えた。
「何があったんです?」
「この犬が妻を襲って死なせてしまったのです」
「それじゃ、もうひとつの棺はどなたので?」
「義理の母親のです。妻を助けようとしたのですが、彼女もこの犬に襲われて死んでしまいました」

二人の男の間にある種の共感と感動、そして一瞬の沈黙があった。

「その犬、貸していただけます?」
「列にお並びなさい」

フリーハンド

私のボーリングのとき、左手の指がきれいに揃っていて「能の芝居みたいでおかしい」と言われたが、卓球王国をよく見ると、男女の世界ランク1位の馬龍と劉詩ブンがまさに私と同じフリーハンドの形ではないか!

彼らも小さい頃からオープンハンドサービスの厳しい指導を受けたのだろうか。さすが世界ランク1位だ。

ボーリングの嫌な風習

ボーリングで以前から感じている違和感が、ストライクやスペアをとったときに他の人と手を叩いて祝う動作だ。これがなんとも面倒くさくて嫌なのだ。

真剣勝負をしているなら他人のストライクを讃えるのはおかしいし、ただの遊びだというなら、そんなに毎回毎回喜ぶほどのことには思えない。結局のところ、これは「ボーリングをするときはこのようにして楽しむものだ」と世間一般で思われているからやるのだろう。まあ、写真を撮るときのピースサインや飲み会での一本締めと似たようなもんだろう。私はこういう「理由はよくわからないけどやることになっているからやる」というような動作をするのは、どうも気恥ずかしいような気まずいような気になる。上手く表現できないのだが、何か芝居がかったことをする気恥ずかしさ、茶番劇に参加することの気まずさだ。

学生時代、ときどき飲み会の後にボーリングをすることがあったが、この相互タッチだけは嫌なので「そういうの止めよう」と言って、全員黙々と集中してボールを投じたものだった。それでスコアが70とか80なのだから「それで面白いの?」と言われそうだが、確かに面白くはなかった。一体何をしたかったのだろうか。

ボーリング

今日は会社の人たちとボーリングをした。その名も『ドーサン・レーン』というボーリング場だ。

私は卓球以外のスポーツは平均以上には上手にできないのだが、ボーリングは特にひどかった。一緒に行った淳は自己最高の204点を出したのに、私は80だの90だのである。

淳は私の投げ方がおかしいとしきりに言う。淳の表現を借りると、「すり足で腰をクネクネさせてまるでオカマみたい」「能の芝居みたい」など散々だ。能なんか見たことないくせに。クネクネは別にして、オカマに見えるのはどうやら左手がまっすぐ指を揃えて反っているかららしい。この理由ははっきりしていて、卓球のオープンハンドサービスの癖なのだ。なにしろ卓球のサーブでは、ボールを投げ上げる手の指は4本とも隙間なくそろえて伸ばし、親指は離して、ボールは掌の中央に乗せなくてはミスになるのだから、これだけは常日頃から意識をしていたのですっかりこういう手の形が癖になっているのだ。もっとも、卓球のラリー中でも左手がその形のままでおかしいと真似されたりしていたので、卓球選手が全員こうなるわけではないだろう。

ともかく、今日のボーリングには散々な目に合った。なんでこんなにできないんだろうか。

なお、ボーリング場の様子は日本とほとんど変わらない。アメリカだからってボールが上から降ってくるとかそんな珍しいことはない。しいて言えば、ボールが傷だらけのボロボロで設備が古いことだが、これは別にアメリカだからではなくて、このレーン特有のものだろう。

Invention of Lying(ウソの発明)

モスクワから帰る飛行機で、Invention of Lyingというアメリカ映画を見た。日本ではまだ公開されていないらしく、邦題がついていなかったが、日本語吹き替えがあったので見た。

これは、人間がウソをつく能力のない架空の世界の話だ。誰も彼もが面と向かって「みすぼらしいお客さまですね」「今ウンコしてたところなの」「体に悪いけど買って欲しいです」など、店員だろうが恋人だろうが思ったことだけを言い合うのだ。そして主人公があるとき偶然にウソをつくことを発見する。そして死を怖がっている母親にむかって「死後の世界があって、天には人の運命をコントロールしている人がいる」とウソをつき、人々がそれを本気にして「天の人の声を聞くことができる人」として一躍有名になるのだ。

「ええっ?」と思った人は鋭い。つまりこの映画は、死後の世界も神様もみんな人間が作った話だということを大前提にしているのだ。こんな映画、アメリカ南部なら拒否されそうだが、北部なら許容されるのだろう。なんと思い切った映画だろうか。
ちなみに、映画自体も結構面白かった。

実はこの映画の前に日本映画を2本見たのだが、どちらも凄まじくひどく、ちゃんとした娯楽になっているハリウッド映画を見て心底安心したというのも好評価につながっている。

激辛ソース

ドーサンの牡蠣料理店ハンツで出されるInsanity(狂気)という名の激辛ソースがここでも売っていたが、その隣にはなんとDeath(死)というソースが売っていた。名前からすれば当然、こちらの方が辛いのだろう。なにしろ発狂どころか死ぬってんだから。

人が死ぬようなソースをなぜ製造・販売しているのだろうか。

ワニ

ブードゥー教と関係あるかどうか分からないが、やたらとワニの剥製も置いてある。
ある店なんか、ワニの剥製が立って「やあ」と手をあげていて、その横の樽には小さなワニの頭部の剥製がゴロゴロ入っていた。ううむ、好きな人がいるんだろうなこれが。

アリゲーターペンシルなんてのも売っていたが、なにしろワニのおもちゃに普通の鉛筆をぶち込んでいるだけで、あまりアリゲーター味がない。

ブードゥー教

ニューオリンズにはあちこちにブードゥー教にちなんだ店やアクセサリーが売っていた。やたらと骸骨やら動物の死骸やらのデザインのものが多いのだ。てっきり流行なんだろうと思っていたら、実はこのあたりはブードゥー教の信者が多く、洒落ではなくて本気で信仰しているということが後から分かった。洒落にしては多すぎると思った。

ブードゥー教ファンにとっては基本中の基本なのだろうな。

朝のニューオリンズ

前日は夜中の3時、4時まで通りが大騒ぎでときどき目を覚ますほどうるさかったが、翌朝はいかにも祭の後という感じでさびしく、夏の新宿あたりの朝と似たようなゴミの臭いがした。

朝っぱらから大道芸人風の男がいたのだが、この写真の姿勢のまままったく動かないのだ。たぶんこれがパフォーマスなんだろうと思ったが、30分後に同じところを通ったときには普通にギターのチューニングを始めていた。「寝てたんじゃないの」と妻。
あんな格好でか?金も出さないのにまさか聞くわけにもいかない。真相は不明だ。

Page 4 of 512345