ランス・バートンのマジックショー

結局、7時からのショーに20分遅れて会場に入り、ランス・バートンのショーを見た。

私はプロのマジシャンのステージを見るのは、小学5年生のときに水沢の町に来たショーを見て以来のことだ。しかもランス・バートンといえば、デビッド・カッパーフィールドと匹敵する超有名マジシャンである。このような一流マジシャンを一流たらしめているのは一体何なのかを見定めようと、私はステージを凝視した。

結果は、私の考えていた通りだった。というか、想像をはるかに超えて考え通りだった。ランス・バートンを超一流たらしめているのは、ステージでにじみ出る、彼の魅力的な人柄だった。紳士的でかみ締めるような優しい話し方としぐさ、客に本当に感謝している様子、マジックが好きでたまらない様子、ステージに上げた子供たちに対するユーモア溢れるアドリブとすべてを包み込むような溢れんばかりの優しさ。誰もがランスを好きにならずにいられない、そういう人柄を演出していた。

もちろん、本当はどういう人かはわからない。90分のショーを週に10回、年に500回、これを20年以上もやっているのだから、それらはすべて計算しつくされたものであることは当然である。しかし、それがわかっていてもなお「この人はたぶん本当に根っからこういう人なのだろう」と思わせる演出なのだ。

もちろんマジックも凄い。タネなどわからないし、どれもが見事である。しかし、タネの分からないマジックなど、手順を教えてもらえば誰でもできるものが多いし、おそらくランスのやったマジックの大半もそうだろう(マジックとはそういうものである)。不思議な現象を見せることができたところで、それはやっとラケットを買ってラバーを貼り終えたというだけのことであって、勝負はここからずーーーっと先にあるのだ。

卓球の勝利は、言うまでもなく相手より先に得点することである。これに対してマジックの勝利とは、人がお金を払ってまで見たいほどに喜ばせることだ。不思議な現象を見せられれば人は喜ぶだろうか。とんでもない。喜ぶどころか中には知的敗北感さえ感じて不快になる人さえいる。ここがマジックという芸術の特殊なところだ。

マジックは人を欺くことで成立している。しかし人に欺かれることは、本来、誰にとっても楽しいことではない。これを楽しく感じるためには「この人になら騙されてもいい、騙されてもいいどころか楽しい」と思えるような状況が必要である。そのために優秀なマジシャンは、徹底的に紳士的な振り舞をしたり、あるいは自分が低く見られるように道化を演じたり、あるいは思い切って超常的な力を持った人間の振りをする。その演出力があるレベルに達したときに、初めて不思議な現象の威力が生かされ、途方もない魅力となって人を喜ばせるのだ。子供といっしょに自動車ごとステージ上の空中で消え、客席後方の天井から子供をかかえてシャンデリアに乗って降りてくるのを客が総立ちになって大喜びするのは、客がランスに完全に魅了された前提の上で成り立つのだ。

「予想を超えて私の考えどおりだった」というのは、ランス・バートンのそのような魅力が予想以上であり、私は完全に魅了されたということである。もっとも、競争の厳しいラスベガスで何十年も勝ち抜いているランス・バートンをいきなり見たということは、いきなりボル対馬琳を見たようなものだから、腰が抜けるのも当然である。

もしも「マジックなんてどうせタネがあるんだろう」とか「不思議なだけで面白くもなんともない」という人がいたら、それは不幸にしてそういうマジックしか見たことがないための誤解である(往々にして素人が友達に見せるマジックはそういうものだ)。騙されたと思って一度、超一流のマジシャンのステージを見て欲しい。きっと楽しめるはずだ。彼らの勝負は「タネのわからない現象を見せる」のではなく「客を喜ばせる」ことなのだから。

ちなみに、3時から見たマック・キングという人のマジックはランスとは違ってコメディ調で、これもまた「この人はなんて素敵な人なんだろう」と思わせる演出だった。ショーの後に握手会があり、私は握手したい強烈な欲望に駆られたが「握手をしても、この素敵な人と友達になれるわけでもない」と思うと、それが虚しくてかえって握手をできずに足早にその場を立ち去った。それくらいに魅力的だった。

さらに9時からペン&テラーというコンビのマジックを見た。こちらは早口の台詞が演出のかなりの割合を占めたため、英語が聞き取れない私にとっては、先の二つほどではなかったが、それでも面白かった。観客はみんな苦しくて息もできないほどに笑っていた。

ショーはいずれも撮影禁止だったので、マック・キングとランス・バートンのショーが終わった後の写真を載せておく。