月別アーカイブ: 8月 2010

誤解

マイクとベアリーが、子供のころテレビのせいで、日本人がみんな空手とかヌンチャクをやると思っていたと言ったので、私も日本でよくあるアメリカ人の姿を紹介した。それは、サングラスをかけてガムをクチャクチャ噛み、「ガッテーム」とか「シャラーップ」と叫び「ふしゅるふふふ」と笑うというものだが、よく考えるとこれは少年ジャンプの特定のマンガの中での描写のような気がする(『ドーベルマン刑事』とか『私立極道高校』とか)。間違ったことを教えたがウケたからいいか。

一方、ベアリーが面白いことを言った。彼らが子供の頃、テレビで見るもっとも典型的な日本人は、空手を除けば、ゴジラ映画だったという。そのゴジラ映画では、日本人の台詞が英語に吹き替えられていて、いつもなぜか口がたくさん動いているのにとても少ない台詞しか発しなかったと言う。それがとても奇妙に感じられ「日本人はああいう風に口をパクパクたくさん動かしてときどき発音するのか」と思ったという。いるか、そんな奴!

ケンカ

仕事中に隣の席のマイクが「中学とか高校の頃、取っ組み合いのケンカをしたことはあるか」と聞いてきた。マイクが小さい頃の日本人の印象は、テレビで見る空手とかカンフーであり、日本人はケンカでそういう技やヌンチャクなどを使うのかどうかを聞きたかったらしい。私が「ない」と答えると「日本人はケンカをしないのか」と言う。「ケンカをするヤツらもいるけど、そういうのはだいたいデキの悪い学生なんだ」と言った。

するとマイク「俺はよくケンカしてたぞ。お前、俺がバカだって言いたいのか?やるか?」と拳を突き出して笑った。私は「アメリカでは反対で頭が良いほどケンカをよくするのかもしれないな。頭の回転が早い分だけ気も短いんだろう」とわけのわからない理屈を言って取り繕ったが遅かった。マイクはその後、あちこちの同僚にニヤニヤしながら「高校時代、ケンカしたことある?」と聞くのだった。「たぶんジョウタが判定してくれるよ」なんて言ってる。

マイクに、どういう理由でケンカになるのか聞くと、たとえば食堂で誰かが嫌な目つきで自分を見ていたら、「お前、何見てるんだ!」「見てねえ!」となってもうケンカだと言う。・・・やっぱりバカなんじゃないだろうか。

そこから子供への体罰の話になった。日本ではどのようにするかと言うので、「やる場合には平手打ちが一般的だ」と言った。すると後の席のベアリーまで一緒になって「それじゃ効かないだろ?」と言う。アメリカでは現在では子供に体罰をしたら警察に通報されるが、以前は当り前のようにしていて、ベルトとかしなる棒を使って叩くのが一般的だったと言う。「日本では子供を叩くのに道具を使うなんて聞いたことがないし有り得ない」と言ったが、彼らによると「平手なんかじゃ、7、8歳頃まではいいけど、大きくなると痛くないから効かないんだ」と言い、マイクはズボンからベルトを抜いてみせた。いや、実演しなくていいんだが。

どうも我々とは感覚が違うようである(感度が鈍かったりして)。

最後にベアリーは「スーパーに行くと若者がジーパンを腰の下まで下げてだらしない格好で歩いてるだろ。ちゃんと叩かなかったからだ。」と言った。「あれはただの流行だから叩くとか関係ないんじゃない?」と言っても「いーや、叩かなかったからだ」と言う。どこまで本気なのかはわからないが、なるほど、警察が体罰を取り締まらなくてはならないわけだと思った。

マジックの見どころ

そういうことがわかると、テレビでマジシャンを見るときに、彼らが客を喜ばせるためにどのような戦略で演じているかを見るのも楽しくなる。

たとえば、前田知洋。これはもう徹底的に紳士的で、下手に出すぎるくらいに下手に出て客の好印象を勝ち得ている。クロースアップマジックの世界的名手であるにもかかわらず、そのプライドは微塵も出さない。ランス・バートンと同系統だ。

たとえばふじいあきら。彼はわざとけだるそうに自分はたいしたことないというそぶりで演じる。ゲストの客が「すごーい」と驚くと「すごいですよねー考えた人が」となげやりに言うことさえある。ふじいは大変なテクニックをもっておりプライドも高いに決まっているが、それを周到に隠して粗野を装って客の共感を得る戦略で成功しているのだ。

彼らが演じているマジックは彼らにしかできないというものではない。マジックショップでタネを売っていて誰でもできるマジックを演じることさえある。彼らを彼らたらしめているのは、客を楽しませるための演出と振る舞いであり、実はそれこそが最高のスキルを要する彼らの本当の「マジック」なのだ。

マジックの特殊性

マジックの特殊性についてもう少し書きたい。

マジックで人を喜ばせるのは至難の業だが、ある要因が事態をさらに難しくしている。それは、そもそもマジックを覚えて人に見せようと思う人がどういう性格の人なのかということだ。楽しませようという気持ちもあるだろうが、マジックを覚える最初の動機は、凄い技術を身につけて人を驚かそうというもので、その裏には尊敬されようという気持ちが少なからずあるものだ。そういう演者の自己顕示欲が客が喜ぶことの妨げになるのだ。

素人の場合、客が知り合いだったりすると、普段、どう思われている人間かということまでが関係してくる。当たり前のことだが、高慢でイヤな奴だと思われている人に騙されて嬉しいわけがない。ところが演じている本人は大抵それがわからず、現象さえ見せれば尊敬されると思い込んでいるので「自分はこんな凄いことができるのに、どうしてみんなはもっと喜ばないのか、どうしてもっと見たいと言わないのか」と欲求不満を募らせることになる。

これは「人を騙す芸術」というマジックのもつ構造からくる本質的な難しさなのだ。

テレビに出るようなマジシャンの中にもときどき、演技が速すぎてどこが不思議なのかもわからないようなマジックを客に挑むような態度でする人がいる。実は、マジックを競技としてとらえ、技術を競うことを目的とするマジシャンおよびそれを楽しむマジック通の客の一派が存在して一ジャンルを形成しているのだ。音楽で言えばギターの速弾き競争のようなものだ。それはそれでマジックの楽しみ方のひとつであるが、ときどき見られるそういうマジックが、一般人がマジックをつまらないものと誤解する元になっていることが少し残念である。

ラスベガス まとめ

グランドキャニオン見物、卓球、マジックショーを4つにシルクドソレイユのショーを3つの予定だったが、実際にはグランドキャニオンは雨で何も見えず、マジックショーが3つにシルクドソレイユのショーが1つ、そしてラスベガス卓球クラブでの貴重な出会い(+同窓の運転手)と、滞在時間が34時間だった割には書ききれないほどの実りある旅行だった(そもそも卓球クラブでの出会いがなかったら、旅行のこと自体、ブログに書くつもりはなかった)。迷ったら行ってみるものだ。

なお、食事の時間と費用を犠牲にしたので、すべて写真のような物の立ち食い状態であった。途中、誘惑に負けて1ドルだけギャンブルの機械に入れてみたが、操作方法が分からずにそのまま止めた。「やらなくて儲かった」と思うことにする。

ドーサン行きの飛行機の中で、心地よい疲労感に襲われる私。

ランス・バートンのマジックショー

結局、7時からのショーに20分遅れて会場に入り、ランス・バートンのショーを見た。

私はプロのマジシャンのステージを見るのは、小学5年生のときに水沢の町に来たショーを見て以来のことだ。しかもランス・バートンといえば、デビッド・カッパーフィールドと匹敵する超有名マジシャンである。このような一流マジシャンを一流たらしめているのは一体何なのかを見定めようと、私はステージを凝視した。

結果は、私の考えていた通りだった。というか、想像をはるかに超えて考え通りだった。ランス・バートンを超一流たらしめているのは、ステージでにじみ出る、彼の魅力的な人柄だった。紳士的でかみ締めるような優しい話し方としぐさ、客に本当に感謝している様子、マジックが好きでたまらない様子、ステージに上げた子供たちに対するユーモア溢れるアドリブとすべてを包み込むような溢れんばかりの優しさ。誰もがランスを好きにならずにいられない、そういう人柄を演出していた。

もちろん、本当はどういう人かはわからない。90分のショーを週に10回、年に500回、これを20年以上もやっているのだから、それらはすべて計算しつくされたものであることは当然である。しかし、それがわかっていてもなお「この人はたぶん本当に根っからこういう人なのだろう」と思わせる演出なのだ。

もちろんマジックも凄い。タネなどわからないし、どれもが見事である。しかし、タネの分からないマジックなど、手順を教えてもらえば誰でもできるものが多いし、おそらくランスのやったマジックの大半もそうだろう(マジックとはそういうものである)。不思議な現象を見せることができたところで、それはやっとラケットを買ってラバーを貼り終えたというだけのことであって、勝負はここからずーーーっと先にあるのだ。

卓球の勝利は、言うまでもなく相手より先に得点することである。これに対してマジックの勝利とは、人がお金を払ってまで見たいほどに喜ばせることだ。不思議な現象を見せられれば人は喜ぶだろうか。とんでもない。喜ぶどころか中には知的敗北感さえ感じて不快になる人さえいる。ここがマジックという芸術の特殊なところだ。

マジックは人を欺くことで成立している。しかし人に欺かれることは、本来、誰にとっても楽しいことではない。これを楽しく感じるためには「この人になら騙されてもいい、騙されてもいいどころか楽しい」と思えるような状況が必要である。そのために優秀なマジシャンは、徹底的に紳士的な振り舞をしたり、あるいは自分が低く見られるように道化を演じたり、あるいは思い切って超常的な力を持った人間の振りをする。その演出力があるレベルに達したときに、初めて不思議な現象の威力が生かされ、途方もない魅力となって人を喜ばせるのだ。子供といっしょに自動車ごとステージ上の空中で消え、客席後方の天井から子供をかかえてシャンデリアに乗って降りてくるのを客が総立ちになって大喜びするのは、客がランスに完全に魅了された前提の上で成り立つのだ。

「予想を超えて私の考えどおりだった」というのは、ランス・バートンのそのような魅力が予想以上であり、私は完全に魅了されたということである。もっとも、競争の厳しいラスベガスで何十年も勝ち抜いているランス・バートンをいきなり見たということは、いきなりボル対馬琳を見たようなものだから、腰が抜けるのも当然である。

もしも「マジックなんてどうせタネがあるんだろう」とか「不思議なだけで面白くもなんともない」という人がいたら、それは不幸にしてそういうマジックしか見たことがないための誤解である(往々にして素人が友達に見せるマジックはそういうものだ)。騙されたと思って一度、超一流のマジシャンのステージを見て欲しい。きっと楽しめるはずだ。彼らの勝負は「タネのわからない現象を見せる」のではなく「客を喜ばせる」ことなのだから。

ちなみに、3時から見たマック・キングという人のマジックはランスとは違ってコメディ調で、これもまた「この人はなんて素敵な人なんだろう」と思わせる演出だった。ショーの後に握手会があり、私は握手したい強烈な欲望に駆られたが「握手をしても、この素敵な人と友達になれるわけでもない」と思うと、それが虚しくてかえって握手をできずに足早にその場を立ち去った。それくらいに魅力的だった。

さらに9時からペン&テラーというコンビのマジックを見た。こちらは早口の台詞が演出のかなりの割合を占めたため、英語が聞き取れない私にとっては、先の二つほどではなかったが、それでも面白かった。観客はみんな苦しくて息もできないほどに笑っていた。

ショーはいずれも撮影禁止だったので、マック・キングとランス・バートンのショーが終わった後の写真を載せておく。

生贄(いけにえ)

ジャックが日本の卓球の練習の素晴らしさについて語ったとき、私は誇らしく思いながらも、中国には劣っていたことを話した。ジャックはそれもわかっていて、日本の練習が続ける練習が多いのに比べ、中国は3球目攻撃の練習ばかりでまったく続かない練習をしていた、しかし練習と試合の差がほとんどないのでより実戦的だったと語った。それでも日本選手のファンだったのは、出会ったタイミングと文化の影響があるのだろう。

当時の日本の練習の欠点は最近まで日本に残っていて、水谷と岸川がドイツで育つ前ぐらいまでは日本は低迷していたと言うと「弱いと言っても世界で10位なら強いじゃないか。アメリカは何位だと思う?」と言った。モスクワでは46位だったという。しかもそのメンバーの中で、純粋にアメリカで育った選手の最高位は200番以下だと現状を嘆いた。

「どう思うかね」と聞くので「それはひどいですね(terrible)」と言った。するとジャック、「”ひどい”とはずいぶんと丁寧な言い方だね」と言った。「じゃ、あなたはどう表現するのですか」と聞くと「・・生贄だね(victim)」と言った。

その後、この現状をどうやって打破するかの持論を聞かされた。ジャックは「ビデオなどを使って中国選手のプレーのすべてを詳細に分析してコピーすればいいと卓球協会に再三助言しているが聞き入れてもらえない」と語った。当然だろう。そのような方法に効果はないと私も思う。

卓球はあまりに複雑多様であるため、個々の選手にとって最適な動きはひとりひとりがまったく異なる。それを理論や模倣で探し当てることは、神ならぬ人間には無理である。人間がやれることは、打球と対応の要求水準を示し、それが必要となる練習を考えることであり、その要求を実現する動きの習得は選手自身の身体の自然習得能力に期待するしかないと思う。

ハセガワ

昨日、今日と、このブログのアクセスが通常の2倍ほどになっている。マニアックなことを書いたからといって読む人が急に増えるわけもないので、いつも見てくれているマニアの数人がカチカチとせわしなくクリックしてくれた結果だろう。

レイが言っていた事だが、同時のアメリカ人はみんなハセガワの卓球に憧れて、一本指しグリップを真似したのだそうだ。「でも今、そういうグリップの人、いませんね」と言うと「あれは全身の筋肉がないとできない難しい卓球で、誰も真似できなかったんだ」と語った。分かってるね。

偶然か必然か

今回のこの出会いを私は当然、奇跡的な偶然だと思った。

しかし世の中にそんなに上手い偶然はそうあるものではない。よく考えればそんなに不思議なことでもないのではないかと思い始めた。

まず、アメリカは卓球人口が少ない。彼らの年代で選手としてやっていた人がどれだけいただろう。しかも競技人口は西海岸とニューヨーク近辺に固まっている。また、元一流選手でも、卓球でメシが食えるわけでもないので、普通のクラブで趣味として続けるしかないだろう。だからそういう人が普通のクラブにいることは当たり前のことなのかもしれない。

しかしたまたま私が行った日のその時間にアメリカ代表が3人もいたのはやはり奇跡と言っていい幸運だろう(彼らが毎日ずーっといるのでなければだが)。さて、会うまではいいとして、そこから昔話になる確率はどれくらいあっただろうか。実は私は、これは100%の必然だったと思っている。

私だって自分から50年も前の話をしたりはしないが、思い返すと、私が「イトウ」と名乗ったときにジャックが伊藤繁雄のことを言ったことがきっかけだった。思うにこのジャック、常に誰かと自分を含めた昔の卓球の話をしたがっているのだろう。だから、偵察の意味で初対面の相手にそれらしい話を振るのだ。仮に私の名前がイトウでなくても、無理やりそれらしいキーワードを使って偵察してきたのに違いない。それで乗ってこなければ止めればいいだけだ。時々私のように見事に食いついて、あれよと言う間にピンポン外交の話まで突入するマニアが何年かに一人いるのに違いない。

いくら元アメリカ代表といっても、普段クラブに卓球をしに来ている20代、30代の若者たちにとっては何の興味もない対象だろう。昔話など誰も聞く耳持つまい。なにしろ日本でいえば昭和25年頃、私ですら生まれてもいない時代の話までするのだ。

まったく何のあてもなく無理やり気まずい思いまでしながら行ったラスベガス卓球クラブだったが、その結果はこの上ない貴重なものになった。

こういうことが度々あるのなら、神様を信じてもよいかもしれない(言ってみただけ。絶対に信じない)。

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