年別アーカイブ: 2010

日本の練習

ジャックにとって日本の卓球は特別な存在だ。

彼の卓球を変えたのは、1956年の世界選手権東京大会を見に行ったことだと言う。当時彼は22歳だが、代表選手ではなかった。

そこでどういう経緯かはわからないが、東京で誰かにどこかのクラブを紹介されて練習に加わったのだと言う。日本代表がいるわけでもない普通のクラブだったらしい。学校だったかもしれないが、それは覚えてないという。

そこには台が6台ほど並べてあって、強い順に選手が台についていたという。ジャックは最初、一番強い人の台で打たされ、しばらくするとコーチらしき人がやってきて「ミスター・ハワード、隣の台に移ってみてください」と言ったという。さらに隣の台に移され、15分後には一番下の台に移され、13歳の女の子と打たされという。ところが試合をするとその女の子にすらまったく歯が立たない。

レベルの違いに驚いたジャックは、そこで卓球を教えてもらうことを決心した。するとその選手たちは、スクワットみたいなことを始めた(うさぎとびだったかもしれない)。当時のアメリカ人には卓球のために体を鍛えるという発想はなかったので「私は体操じゃなくて卓球を教えて欲しいんです」と言った。すると選手たちは「ええ、わかってます。これが卓球の練習なのです」と言い、1時間もそれを続けたという。

トレーニングの後は、ワンコースで正確に続ける練習で、これもジャックには初めてのことだった。

このようにして日本の練習を学んだジャックはアメリカに帰り、さっそくそれを実行した。最初、ワンコースの練習を始めるとみんなが「何だそれ、一体、何やってるんだ」と笑ったという。当時のアメリカ人は、練習はすべて試合練習であり、特定の打法を練習するということがなかったのだ。しかしジャックはこの練習を始めてどんどん強くなり、ついにはアメリカチャンピオンになった。

「私は日本の練習をアメリカに持ち込んだ最初の選手だよ」と彼は言った。

私は当時の日本の練習の、その後の中国と比較した欠点を知りつつも、かつて世界をリードした我が先人たちの偉大さを外から聞かされ、誇らずにはいられなかった。

テレビに出た荻村伊智朗

次に聞いたのは、我らが神様、荻村伊智朗の話だ。荻村が世界チャンピオンになった後、アメリカのテレビ番組に出たと言う。

そこで荻村は5メートルぐらい先のテレビカメラを指し「私がそのカメラのレンズを狙ってボールを打ったらどれくらい当たると思いますか」と言ったという。テレビを見ていたジャックは「近くには行くだろうが当たるまい」と思ったが、荻村伊智朗は一発でレンズに当てたと言う。驚きながらも「まぐれだ」と思ったが、なんと荻村はその後2球続けて当て、合計、3球連続でカメラのレンズに当てたという。

なんていい話なんだろうか。世界には私の知らないこんな素敵な話がいったいどれだけあるのだろう。

藤井則和 対 ディック・マイルズ

ジャク・ハワード(Jack Howard)76歳。こういう人だと知ったら、もう卓球どころではない。「お話を聞かせてください」とソファに座ってメモ帖を取り出し、話を聞いたのだった。

ここで聞いた話は珠玉の話で、もう雨のグランドキャニオンなどスコンクで全然勝負にならない素晴らしい話だった。私たちが話し込み始めると、まわりにいた若者たちは何ともいえない微妙な表情をしてひとりふたりといなくなったが、これもいつものことだ(腰を出したお姉ちゃんもいなくなってしまった)。大体私と話が会う年配の方は概して昔話が好きであり(しかも長い)、当然、いつもそれを聞かされている若者たちはうんざりしているに違いないのだ。年寄りは年寄りでいくら話しても話し足りない(あるいは話したことを忘れてる)のが世の常だ。

なにしろこのジャック、藤井則和とディック・マイルズの模範試合を見たと言うのだから耳を疑う。「本当にフジイか?」と何度も念を押したが、間違いなく藤井のことだった。ペンホルダーで一枚ラバー、フォアハンドのフォームまで真似して見せたのだ。ラケットヘッドが立っていてシェークハンドのように見える持ち方だったそうだ。そういえばそういう写真が残っている。藤井といえば才能の点では日本卓球史上最高と今でも言う人がいるほどの伝説的な選手である。その藤井がマイルズと米国で試合をしたのはおそらく1950年前後だと思われる。今から60年前だ。その時ジャックは16歳だから、見たとしても何も不思議はない。不思議はないが、いや、それにしても驚いた。藤井とマイルズの試合を直接見た人と会ったのはこれが初めてである。

『ピンポン外交』

かつて、世界史に残る『ピンポン外交』という出来事があった。

それは1971年のことだ。当時、中国とアメリカは国交がなかったのだが、名古屋で開催された世界選手権の最中に、アメリカチームの選手のひとり、グレン・コーワンという男が、練習後にホテルへのバスにあわてて飛び乗るとそれが中国チームのバスだったことから始った。

当時、中国の選手たちはアメリカ人と会話をすることを禁じられていて、アメリカ人も中国人というのは自分たちとはまったく違う異常な人たちだと思っていた。それで、バスの中で誰もコーワンに話しかけない気まずい時間が流れたが、世界選手権3連覇の名選手、荘則棟が「いくら敵でもこれでいいのか。これは中国のもてなしの心に反するのではないか」と思い、チームメートの反対を押し切ってコーワンに話しかけ、カバンから織物を出してコーワンにプレゼントをしたという。

(以上は日本のテレビ『驚き桃の木20世紀』で見た内容だが、最近読んだ荘則棟の証言によれば、バスに乗り遅れたコーワンを中国選手が手招きをして自分たちのバスに乗せ、コーワンはすぐに通訳を介して中国選手たちと会話をしたと書いてあり、どちらが本当かわからない)。

一方、コーワンが中国選手団のバスに乗ったことを知った記者団は、ホテルの前でバスを待ち構えており、コーワンがバスから降りると記者たちに取り囲まれ、コーワンと荘則棟の写真が世界に発信されたという。翌日、コーワンはTシャツを荘則棟にプレゼントし、それがまた世界に好意的に報道された。これで何かを判断した毛沢東は、アメリカ選手団を正式に中国に招待することを決定し、世界を揺るがす大事件として報道された。これをきっかけとしてニクソンが動き、ついには中国とアメリカの国交が正常化したという、今や中学高校の歴史の教科書にも載ろうかという出来事なのだ。

ちなみに、アメリカ選手団は中国訪問の感想を「中国人も我々と同じように笑ったりする普通の人間だった」と語った。それほど異常な国だと思われていたのだ。

その歴史上の事件に居合わせた人がまさかラスベガス卓球クラブでフラフラしていようとは誰が思うだろうか。

予期せぬ出会い

ラスベガスで卓球をするという記録も作ったし勝ったのでもう止めようかな、と思ってソファに座って休んでいると、ひとりの老人がやってきて「やらないか」と言った。私が「My name is Jota Ito」と自己紹介をすると、その老人は「おお、キミが有名な世界チャンピオンのイトウか」と言って笑った。1969年にミュンヘンで優勝した伊藤繁雄のことだ。初対面でいきなりこの挨拶は凄い。マニアはマニアを呼ぶ。

私が「1969年ですね」と言って自分も詳しいことを示すと、彼は私のマニア度を測るかのように「その試合、どういう試合内容だったか知ってるか」と聞いてきた。ここぞとばかり私は「シェラーに0-2でリードされていて、3ゲーム目から別人のようになって逆転したんでしょう」と言った。田舛彦介著『卓球は血と魂だ』の一節そのままだ(さすがに「ゲームの合間にビタミン剤でも打ったのかと欧州勢から疑われるほど」という余計な描写は話がややこしくなるので割愛した)。すると彼はさらに詳しく「3ゲームめの19-19からのシェラーの難しいボールを、イトウはそれまで攻撃していたのを丁寧につないだんだ。そのときシェラーの顔つきが変わり、そこからイトウが逆転したんだ」と言うではないか。そんな話は初めて聞いたので「よくそんなこと知ってますね」と言うと、彼はその試合を現場で実際に見たと言う。「ドイツに行ったんですか!」と言うと「だって俺、アメリカ代表で試合に出てたんだもん」と言うではないか。

ななな、なんと、アメリカの代表選手だったのだ。私はすっかり興奮し「じゃあ、71年のピンポン外交のことを知ってますか」と言うと「ああ、中国に試合しに行ったよ」と言うではないか。どひゃあああっ!この人は、歴史上の選手だったのだ。強くはないから有名ではないが、ともかく歴史上の選手なのだ。マニアではなく、本物だったのだっ。

ラスベガスの町並み

グランドキャニオンからラスベガスに戻ったのは1時頃だった。こうやって早く戻れるようにと早朝のツアーにしたのだ。

到着以来、初めて昼のラスベガスを見たわけだが、あらためて建物のムチャクチャな豪華さに笑った。エッフェル塔ありピラミッドあり、ともかくいちいちデカい。「お前らバカだろ?」と言いたくなるような景色だ。この豪華さが客をギャンブルをする気にさせるのだろう。本当はそれだけ客から金を吸い上げているということなのだが、客はピンとこないようになっているのだ。

雨のグランドキャニオン

グランドキャニオンには飛行場があって、そこで着陸をして今度はバスで移動をする。

マサーポイントと呼ばれる絶景のところがあり、そこで巨大な景色を見られるはずだったのだが、なんと雨が降っていて対岸が見えない。対岸まで39kmもあるという途方もない大きさの谷のはずなのだ。近くの下のほうは見えるのだが、視線を水平にすると何も見えない。なんとも残念だ。ちなみにグランドキャニオンの長さは400kmだというが、これはどうせ見渡すことはできない大きさなのだからどうでもよい。

本当はもう一ヶ所回るツアーだったのだが、雨のため危険な状態なので、この一ヶ所で2時間も過ごすことになった。過ごすといっても、写真の通りほとんど何も見えないので、土産物屋を見たりコーヒーを飲んだりして時間をつぶした。

日本から来た客の中には、ヘリコプターで谷を回るツアーに参加を予定していた人たちもいたが、それもすべて中止だった(料金は返すと言っていた)。その落胆に比べればマシだなと思うことにした。

そういうわけで、雨のグランドキャニオンはさっぱり面白くなかった。

いざグランドキャニオンへ

20人乗りくらいの飛行機でグランドキャニオンに向かった。

途中、下界にグランドキャニオンが現れたが、比較できる物がないのでその大きさがよくわからない。正直、小さく見えるので、あまり脅威を感じない。もっと低空飛行をして両側に崖が迫るほどなら良いのだろうが、そういうことはしないようだ。

同窓の運転手

ホテルにバンで迎えに来たツアーの人がいきなり日本語で「イトウジョウタさんですね」と話しかけてきたので驚いた。日本語ツアーはちょっと高かったのでケチって英語ツアーにしていたので、得したような気がした。

バンは6ヶ所くらいのホテルを回ってツアー客を乗せ、ラスベガスの中心地から30分ぐらい離れたボルダーと言う町の空港に向かう。そこからグランドキャニオンへの小型飛行機に乗るのだ。

私は最初にバンに乗ったので助手席に座ったため、運転手さんが「日本語を話すのは久しぶりで嬉しいです」としきりに話しかけてくる。この方の奥さんは白人でアメリカにはもう30年近く住んでいると言う。日本人男性と白人女性の結婚は珍しいので経緯を聞くと、もともとは日本の銀行のニューヨーク支店に赴任していたのだが、その職場で奥さんと知り合って結婚をし、帰任を命じられたのを期に退社して貿易関係の会社を作ったのだという。会社も軌道にのったので息子さんにやらせることにして53歳にして引退をしたという。毎日ゴルフとギャンブルをしていたがどうにもヒマでたまらず、知人がやっているこのツアーをヒマつぶしに手伝うことにしたという。日本人客が多いので、その担当らしい。この日も6ヶ所まわったうち、日本人客が3組だった。

このフジモトさんという運転手さんは熊本出身だという。私はアメリカに来てからなぜか九州の人に会うことが多い。先日のロサンゼルスの足立さん、スタンの奥さんである郁美さん、他にもブログを読んでメールをくれた九州の人が二人もいる。偶然に決まっているのだが、ちょっと面白い。私は東北出身だというと、実はこのフジモトさん、東北大に通っていたという。私が同窓であることを言うと「同窓のお客さんは初めてです」と非常に驚いていた。私も同窓の運転手さんは初めてだが、そもそも運転手さんと大学の話をしたことがないのだから当然だ。

もしかして卓球部の先輩だったりしないかと、クラブの話を振ってみたが、さすがにそれはなかった。そんな話をしているうちに、ボルダー空港に着いたのだった。