年別アーカイブ: 2010

ハセガワ

昨日、今日と、このブログのアクセスが通常の2倍ほどになっている。マニアックなことを書いたからといって読む人が急に増えるわけもないので、いつも見てくれているマニアの数人がカチカチとせわしなくクリックしてくれた結果だろう。

レイが言っていた事だが、同時のアメリカ人はみんなハセガワの卓球に憧れて、一本指しグリップを真似したのだそうだ。「でも今、そういうグリップの人、いませんね」と言うと「あれは全身の筋肉がないとできない難しい卓球で、誰も真似できなかったんだ」と語った。分かってるね。

偶然か必然か

今回のこの出会いを私は当然、奇跡的な偶然だと思った。

しかし世の中にそんなに上手い偶然はそうあるものではない。よく考えればそんなに不思議なことでもないのではないかと思い始めた。

まず、アメリカは卓球人口が少ない。彼らの年代で選手としてやっていた人がどれだけいただろう。しかも競技人口は西海岸とニューヨーク近辺に固まっている。また、元一流選手でも、卓球でメシが食えるわけでもないので、普通のクラブで趣味として続けるしかないだろう。だからそういう人が普通のクラブにいることは当たり前のことなのかもしれない。

しかしたまたま私が行った日のその時間にアメリカ代表が3人もいたのはやはり奇跡と言っていい幸運だろう(彼らが毎日ずーっといるのでなければだが)。さて、会うまではいいとして、そこから昔話になる確率はどれくらいあっただろうか。実は私は、これは100%の必然だったと思っている。

私だって自分から50年も前の話をしたりはしないが、思い返すと、私が「イトウ」と名乗ったときにジャックが伊藤繁雄のことを言ったことがきっかけだった。思うにこのジャック、常に誰かと自分を含めた昔の卓球の話をしたがっているのだろう。だから、偵察の意味で初対面の相手にそれらしい話を振るのだ。仮に私の名前がイトウでなくても、無理やりそれらしいキーワードを使って偵察してきたのに違いない。それで乗ってこなければ止めればいいだけだ。時々私のように見事に食いついて、あれよと言う間にピンポン外交の話まで突入するマニアが何年かに一人いるのに違いない。

いくら元アメリカ代表といっても、普段クラブに卓球をしに来ている20代、30代の若者たちにとっては何の興味もない対象だろう。昔話など誰も聞く耳持つまい。なにしろ日本でいえば昭和25年頃、私ですら生まれてもいない時代の話までするのだ。

まったく何のあてもなく無理やり気まずい思いまでしながら行ったラスベガス卓球クラブだったが、その結果はこの上ない貴重なものになった。

こういうことが度々あるのなら、神様を信じてもよいかもしれない(言ってみただけ。絶対に信じない)。

駐車場で河野満

クラブは6時で閉店だったはずが話が弾み、結局6時45分まで話し込んだ。

私は7時からのランス・バートンのマジックショーを見るため、会場に移動しなくてはならなかったのだが、ラスベガスではタクシーはホテルとか空港とか決まったところからしか乗ることはできないので、誰かに送ってほしいとお願いをした(メールをやりとりをした相手の人は「誰かが送ってくれますよ」なんて調子のよいことを書いてきていたのだ)。

すると急にジャックもレイもよそよそしくなり、二人でボソボソと話してお互いに押し付けあっているような感じになった。

やはり卓球は気まずいスポーツだ。

結局、レイが急にふっきれたような上機嫌になって私を送ってくれた。ついでに”プロフェッサー(教授)”河野満の歩き方も再現してもらった。

レイの車内は見たことがないほど物凄く乱れていた。試合での気合の入れ方もちょっと普通ではなかったしカジノに勤めているというし、本当はこの人は怖い人なのではないか思った。送ってもらっておいてなんだが。

ヒストリー・オブ・US・テーブル・テニス

次にジャックは、分厚い本を出して「見たことあるか」と言う。

ティム・ボーガンと言う人が書いた本で、なんとアメリカの卓球の歴史を11冊にまとめたのだと言う。11冊ってあんた、1冊が530ページもあるのだ。ジャックによると、とにかくアメリカの卓球のすべての記録が書かれているそうだ。どのくらいの「すべて」かは分からないが、大変な労作であることは間違いない。

見せられた本は1979年から1981年までの3年分(これが第10巻なのだ!いったいいつから書いてるのだ?)で、ジャックの当時の写真も載っていた。どうやらこれを見せたかったらしい。誰だ?って感じだ。

同様に、エロールの写真も載っていた。

それにしてもこの本、どう考えても採算はとれない。ティム・ボーガンという人は、採算を考えず趣味としてこの本を書いたのだ。情熱だけではなくて、時間とお金がなくてはこういうことはできない。そういう卓球狂がアメリカには多いような気がする。USTTのウエブサイトから買えるようになっているそうだが、さすがにこれは買わない。

と書いたが、ゲストブックに、これはUS卓球協会の事業としてやったことらしいという情報があった。訂正しておきます。

タカハシ

高橋浩が荘則棟に3回勝ったことも全員が知っていた。泣けてくる。

今まで私が卓球レポートなどを読んで聞いたことのあるエピソードをことごとく知っているのだ。まさか卓球レポートを読んだんじゃあるまいな。

トミタ

ジャックが「一枚ラバーのトミタも凄い選手だった」と言ったのには感激した。もちろん、1954年からの男子団体3連覇に貢献し、ダブルスでも優勝した天才サウスポー・富田芳雄のことだ。

荻村の言っていたことは本当だったんだな(失礼!)。

シフのフィンガースピンサービス

ジャックが「他に聞きたいことは?」と言うので、ソル・シフのフィンガースピンサービス(以下FSSと略)について聞いてみた。FSSというのは、サービスを出すときに指で思いっきりボールに回転をかけてさらにそれをラケットめがけて激しくぶつけ、とんでもない方向にとんでもない量の回転がかかるという伝説のサービスだ。

1938年に日本に来たサバドスとケレンに初めてそれを出された日本人選手は、あまりのボールの変化に、目の前で消えたとしか思えなかったという。それでほとんどすべてのボールを触れもせずに負けたのだ。

FSSが世界に登場したのはその前年の1937年のバーデン大会だ。この大会で、アメリカの選手団は、会場のオーストリアに向かう船の中でこのサービスばかりを練習し、ほとんどそれだけで男女団体に優勝したという。これが史上唯一のアメリカの団体優勝である。その男子チームの中心人物こそ、伝説の男、ソル・シフ(Sol Schiff)なのだ。

もちろん、FSSはただちに禁止され、その後使う者はなかったが、後年、ソル・シフが余興で見せるFSSたるやもの凄く、現役選手たちのほとんどがレシーブできなかったと言われる。

ところがジャックの話は意外なものだった。彼は、実際にシフがフクシマという日本代表選手にFSSを出す余興を見たが、フクシマはほとんどミスなく返したという。逆に、フクシマが当時のルールに則ったサービスを出すと、それをシフは返せなかったというのだ。私はフクシマという選手は聞いたことがなかったので「タカシマではないか」と言うと「カットマンのタカシマはもちろん知っている。そうじゃなくてペンホルダーのフクシマだ、知らないのか?」と言う。家に帰ってから調べてみると、福島萬治という選手が1963年のアジア大会に出た記録があった。そういえば聞いたことがあるのを思い出した。ともかくそういうことで、高島さんが受けて20本連続でミスしたと、私が高島さん本人から聞いた話とは真逆の印象の話である。

おそらくこれは、福島がなんらかの理由でFSSを取り慣れていたものと思われる。そうとしか考えられない。実際、高島さんの話だと、今でも余興でFSSを出す人はヨーロッパにいて、慣れていない人は全然返せないのだそうだ。とにかくラケットの動きと関係ない方向にボールが回転しているので、とんでもないミスをしてしまうらしい。1975年のカルカッタ大会で”雨漏りによるゲーム中断がなければ優勝していた”といわれるミスター・カットマンがそう言うのだからこれは間違いない。

それにしても受けてみたい。本場のフィンガースピンサービス。誰かそういうツアーの企画してくれないもんか。『フィンガースピンサービスで味わうオーストリア7日間の旅』とか。タクシー代をケチって間違ったバスに乗って終点までいくような奴が3、4人参加するかもしれないぞ。

ぞくぞく出てくる本物たち

ジャックと話をしていると、どこからか似たような年齢の方々が集まってきて話に加わった。恐ろしいことに、その誰もが、荻村や田中は言うにおよばず、藤井や佐藤博治まで知っている。

中でも、私とジャックの話に割って入ってきてさんざんノイズを出したレイという男は、伊藤繁雄、長谷川信彦、河野満の大ファンであり、私の前で彼らの真似をしだした。わざわざカバンからメガネを取り出し、伊藤繁雄の歩き方とその構えをやってみせた。彼によれば、伊藤繁雄と長谷川信彦の全身の筋肉に圧倒され、「あんな卓球を見せられて、どうやってファンにならないでいられる?」と言った。河野満については、やはりメガネをかけてチョコチョコとした歩き方をマネした上で、「コウノはプロフェッサー(教授)のようだった」とその尊敬の念を示した。1967年に長谷川に決勝で負け、その10年後にバーミンガムで優勝したことも知っていて「すごい選手だ」と興奮してまくしたてた。アメリカの卓球選手たちにとってこれらの日本選手は本当にアイドルだったんだと語った。

伊藤、長谷川、河野の偉大さについては、これまでさんざん国内の卓球関係者から聞かされていたが、聞けば聞くほど、その話は「昔の選手は凄かったのに今の奴らは」という年寄りの小言、あるいは選手に近い人が語れば臆面もない自慢話のように聞こえてしまっていた。それが、ラスベガスの卓球場でアメリカ人からその偉大さを聞かされると、その説得力はまったく違ったものになる。私はここで初めて、彼らがどれだけ偉大な選手であり、世界の卓球界に影響を与えたかを知った。

さて、ここまではよかったのだが、このレイ、ちょっと短気で自暴自棄な感じのする情熱家で、私はもっと話をしたいのに、試合をしようと言う。私はすでにジャックと話しながら着替えを済ましていたが、仕方なしにジーパンのまま台についた。するとレイは台の上に60ドルほどバラっと投げ出し「賭けてやろう」と言って興奮している。ともかく3-1で勝ちはしたが、もっと話をしたかった。

後で調べるとこのレイ(Ray Guillen)は、1977年バーミンガム大会のアメリカ代表選手だった。アメリカチャンピオンにもなったことがあるそうだ。日本なら70歳代の元チャンピオンなど強すぎて私の相手にならないが、この世代のアメリカ選手はやはりあまり強くないようだ。レイはカジノに勤めているということだった。確かにそんな感じがした。

他にも、あまり多くを語らず話を聞いているだけだったエロール(Errol Resek)という人も、後で調べると1971年名古屋大会に参加してジャックと一緒に中国をまわった男だった。

なんちゅうクラブだ一体。ウエブサイトのどこにもそんなこと書いてなかったのに(メンバー紹介すらないウエブだった)。

日本の練習

ジャックにとって日本の卓球は特別な存在だ。

彼の卓球を変えたのは、1956年の世界選手権東京大会を見に行ったことだと言う。当時彼は22歳だが、代表選手ではなかった。

そこでどういう経緯かはわからないが、東京で誰かにどこかのクラブを紹介されて練習に加わったのだと言う。日本代表がいるわけでもない普通のクラブだったらしい。学校だったかもしれないが、それは覚えてないという。

そこには台が6台ほど並べてあって、強い順に選手が台についていたという。ジャックは最初、一番強い人の台で打たされ、しばらくするとコーチらしき人がやってきて「ミスター・ハワード、隣の台に移ってみてください」と言ったという。さらに隣の台に移され、15分後には一番下の台に移され、13歳の女の子と打たされという。ところが試合をするとその女の子にすらまったく歯が立たない。

レベルの違いに驚いたジャックは、そこで卓球を教えてもらうことを決心した。するとその選手たちは、スクワットみたいなことを始めた(うさぎとびだったかもしれない)。当時のアメリカ人には卓球のために体を鍛えるという発想はなかったので「私は体操じゃなくて卓球を教えて欲しいんです」と言った。すると選手たちは「ええ、わかってます。これが卓球の練習なのです」と言い、1時間もそれを続けたという。

トレーニングの後は、ワンコースで正確に続ける練習で、これもジャックには初めてのことだった。

このようにして日本の練習を学んだジャックはアメリカに帰り、さっそくそれを実行した。最初、ワンコースの練習を始めるとみんなが「何だそれ、一体、何やってるんだ」と笑ったという。当時のアメリカ人は、練習はすべて試合練習であり、特定の打法を練習するということがなかったのだ。しかしジャックはこの練習を始めてどんどん強くなり、ついにはアメリカチャンピオンになった。

「私は日本の練習をアメリカに持ち込んだ最初の選手だよ」と彼は言った。

私は当時の日本の練習の、その後の中国と比較した欠点を知りつつも、かつて世界をリードした我が先人たちの偉大さを外から聞かされ、誇らずにはいられなかった。

テレビに出た荻村伊智朗

次に聞いたのは、我らが神様、荻村伊智朗の話だ。荻村が世界チャンピオンになった後、アメリカのテレビ番組に出たと言う。

そこで荻村は5メートルぐらい先のテレビカメラを指し「私がそのカメラのレンズを狙ってボールを打ったらどれくらい当たると思いますか」と言ったという。テレビを見ていたジャックは「近くには行くだろうが当たるまい」と思ったが、荻村伊智朗は一発でレンズに当てたと言う。驚きながらも「まぐれだ」と思ったが、なんと荻村はその後2球続けて当て、合計、3球連続でカメラのレンズに当てたという。

なんていい話なんだろうか。世界には私の知らないこんな素敵な話がいったいどれだけあるのだろう。