相手がネットをしたボールを台の下で拾い、ネットの外側を通してほとんど台に弾まないスーパーショットはときどき一流選手の試合で見られるが、サムソノフのそういうボールをワルドナーがあろうことかそのまま普通にドライブで打ち抜いてしまったシーンがこれ。こういうプレーはこの一本以外には見たことがない。
あり得ないボールの低さに、ワルドナーがとっさに右ひざを床につけて対応していることがわかる。急にこんなことができるなんて・・。
ワルドナーのプレーを見ていたら興奮が止まらなくなってきた。テレビの画面に1コマづつボールの軌道をマジックで描いて解説だ(透明テープ貼った上からね)!
2000年シドニー五輪準々決勝、世界ランク2位のサムソノフ戦。長身でブロックの天才であり、ノータッチすることはほとんどないはずのサフソノフに対し、ワルドナーは信じがたいコースと軌道で何本もノータッチを取った。カーブドライブというのは、ある程度のレベルならそう難しくはないことだが、この写真のように高い打点でやるとなると話は別だ。いったい手首をどう使えばこんな打点でカーブを打てるのだろうか。しかもコートの中央からフォアのサイドラインを切るコース。あり得ない難しさだ。
一番右の写真は、サムソノフのラケットがボールにもっとも近づいた瞬間だが、ラケット2つほどの距離だけボールに足りず、ノータッチになっている。これだけボールが曲がらなかったら届いていたということだ。逆に言うと、これだけのボールを打ってやっと点をとれるのがサフソノフという相手なのだ。それにしてもこんなに曲がられたんじゃ、追っても追っても逃げられるという感じだっただろう。一度でいいからサムソノフの視点でワルドナーのボールを見たいものだ。どう見えるんだろうか。
左の写真を見た限りでは、まさかこの体勢から手も届かないボールを打たれることがあり得ようとはさしものサムソノフも考えまい。サムソノフに非はない。ワルドナーが異常なのだ。
DVDを見ていると、ラリーが素晴らしければ素晴らしいほど、カメラ位置の悪さにがっかりさせられる。テレビ局の撮影はいつもカメラ位置が高すぎるのだ。そのため、両方の選手を画面に入れようとするとどうしてもズームアウトせざるをえず、結果的に恐ろしく小さい画面になってしまう。ボールはろくに見えないし、遠近感がないので迫力はないしボールの高さ方向の情報が失われるのでドライブやカット独特の軌道がさっぱりわからない。なによりもすべてが小さく映っているのが残念でならない。
これまでもNHKやテレビ東京にカメラ位置を低くするよう提案してきたが、相変わらずである。低い位置にカメラがないわけではなく、スローのリプレーでは使ったりしているのだから、そちらをメインに使えばよいだけなのにどうしてそうできないのかまったく不思議だ。
決勝などの重要な試合に限ってこの最悪のカメラ位置になるのだから残念なことである。
写真左は昨年の横浜大会男子シングルス8決定の陳杞対水谷、写真右は決勝の王皓対王励勤。選手もボールの大きさも面積にして4倍も違う。加えて右の画面では画面上でボールの移動距離が長いので、ボールは目で極めて追いづらい。迫力がないのにボールは目で追いづらいのだ。一方、左の画面は、迫力満点でボールは恐ろしく速く感じられるが、実際の画面上のボールの移動距離は小さいので(画面手前から奥への移動なので)実は目で追うことは容易である。映っている大きさも大きい。
このように、何をとっても低いカメラ位置の方がいいのだ。なお、このカメラ位置は、似た球技であるテニスやバドミントンではほとんど不可能である。これらの競技は卓球にくらべてコートが大きいので、競技領域を画面に入れるためには、コートからかなり離れなくてはならない。これを低いカメラ位置でやるためには、コート後方のフロアに広大な空間を作るしかない。物理的には可能だか、現実的にそんな会場セッティングは無理だろう。だからテニスもバドミントンも高くて遠い位置から撮影するしかなく、いずれものっぺりとした遠近感のない画面になっているのだ。
低いカメラ位置はコートが小さい卓球競技の特権だとさえ言える。それが活かさず、テニスやバドミントンと同じのっぺりとした画面で撮影しているのがなんとももったいないことだ。
あらためて書くまでもないが、ワルドナーは卓球の天才である。25年も世界のトップ10にいて、5世代の中国選手に対抗し続け、現代卓球の技術を次々と塗り替えたなんてのはワルドナー以外にはいない。卓越した予測能力でほとんど歩いているようにしか見えないフットワークでことごとくボールに手が届く。まるでボールがくるところを知っているようだ。そのうえ脚力も肺活量も優れているものだから、誰よりもスタミナが続く完璧な肉体。
写真は最近発売されたワルドナーのスーパープレー集DVD(http://www.world-tt.com/video/d036.html)より、2004年アテネ五輪の柳承敏との男子シングルス準決勝の1シーンだ。柳がバックに捨て身で倒れこみながら回り込みながらワルドナーの逆をついてストレートにドライブを放った。ワルドナーはバック側にボールがくると予想してバック側に動き終わったシーンだ。このとき柳のボールはすでにネットを越え、ワルドナーのフォアを抜こうとしている。常識的に考えてここから間に合うはずがない。間に合ったとしても当てるだけかロビングするのが精一杯だろう。ところがワルドナーは、ほとんどボールを後から追いかけるようにして後方に移動しざまに、上半身と手首だけでラケットを出してギリギリのところでボールをとらえたばかりか、グニャリと曲げて柳のはるか遠くのフォアサイドを抜き去ったのだ。ボールの位置を見て欲しい。なんでこんなところにあるんだろうかこのボールは。バックに倒れ込みながら捨て身でドライブを放った柳はまだ画面の外だ。こういうファンタスティックなシーンって、卓球界広しといえども、ワルドナー以外には見られないのだ。
ワルドナーこのとき、2年前に足を骨折して復帰したばかりの38歳。凄すぎる。
海外赴任者の子息には、希望者にはアトランタ領事館を通じて、日本の教科書が無料で配布されることになっている。
昨日、中学生の息子に国語を教えていたら、教科書に村上春樹の文章が載っていた。題名は「ふわふわ」という短編で、猫に関する文章だった。
そこには、「長い間使われていなかった広い風呂場を思わせるような、とてもひっそりとした広がりのある午後に」とか「僕ら二人はからまり合うようにして、まるでおなじみの泥水みたいに、そこに静かに転がっている」とか「猫の時間は、まるで大事な秘密を抱えた細い銀色の魚たちのように、あるいはまた時刻表には載っていない幽霊列車のように、猫の体の奥にある、猫の形をした温かな暗闇を人知れず抜けていく」などと、中学生に容赦のない相変わらずの意味の分からない比喩だらけの村上春樹ワールドが展開されていた。
この作家のどこが優れているのか、次のように息子たちに説明をした。たしかにこれらの比喩にははっきりとした意味はないが、作者は言葉にできない何かを感じて、それを読者に伝えようとしている。「長い間使われていなかった広い風呂場」という言葉や「猫の形をした温かな暗闇」という言葉を聞いたときに、読者はそれぞれ自分の経験に基づいて何物かを思い浮かべるはずだ。それが作者のそれに一致していなくても、それが読者をなんらかの形で楽しませることができる力があるから、この作者は天才と言われている。「おなじみ」と「泥水」という誰でも知っている二つの言葉をくっつけて「同じみの泥水」とすることを思いつくことができるところが凄いのだ。比喩は、まず意外性がなくてはならない。しかし、ただ意外なだけではダメだ。意外でありながら、そう言われればそうだと納得できるような巧妙なものでなくてはならない。それが凡人にはほとんど不可能といっていいほど難しいことなのだ。村上春樹は、誰でも知っている言葉の海の中からそういう言葉の組み合わせを見つけることができる天才なのであり、それが大勢の人が彼の文章を読むためにお金を払う理由だ。
私はまだ村上春樹のファンではないが、説明しているうちに興奮してきて、なんだかファンになったような気持ちだ。私も中学の国語の時間にこういうふうに教えてもらっていたら、もっと授業も面白かったろうに、と思って悦に入っていたら、妻が「お父さん長すぎ。さっさと次いって。」と言われた。ギャフン。
元旦のアクセスは201件だった。昨年の元旦は171件、その前は139件だったので、すこーしづつではあるが増えているようで嬉しい。元旦といえばあまり仕事をしている人はいないだろうから、自宅で見てくれているということだろう。今年も書きたいことと読者が読みたいことの共通項を書いていきたいと思う。
アメリカでは正月は日本でほど特別な日ではないので(さすがに休日ではあるが)、特に行事もなく、ただひたすらゆっくりと過ごしている。そういうときはやはり卓球のDVDを見ることだ。昨年の横浜大会のDVDや、ワルドナーのプレー集、そして昨年買った、95年天津大会やら97年マンチェスター大会の映像を堪能している。といって、ドラマのようにずっと面白いわけでもなく、どちらかというと見ておかなくてはならないという義務的な見方ではあるが、それでも全体的には楽しい。
昨日、床屋で丸坊主にしてきたので寒くて仕方がなく、家でも帽子をかぶっている。パジャマのままこれにヘッドフォンをつけて一日中いるので、家族に変だと言われたので、得意になって写真を撮ってもらった。「ゴダールはどこ行った?」という感じだ。
写真のパソコン画面に映っているのは横浜大会男子シングルスの水谷対陳杞
何ヶ月か前、吉田司という人の『宮澤賢治殺人事件』という本を読んだ。たまたまアトランタの本屋で目について買ったのだった。殺人事件といっても推理小説ではなくて、現実の宮澤賢治を殺して聖者に祭り上げた人たちへの批判本であった。それでも著者は宮澤賢治のファンなのだろうと思って読んでいたが、最後の最後まで著者は賢治を「現実性のない役にも立たない思想を唱えていただけの役立たず」ということを本気で主張していて、全然評価しておらず新鮮であった。私は自分と反対意見の本をあえて読んで自分の論理が対抗できるかをチェックするのが好きなので、全然問題なく楽しく読めた。
宮澤賢治といえば、何年か前に生誕何年とかでやけに盛り上がったことがあった。そのときテレビで、賢治の写真から骨格を推定して、コンピューターで合成して肉声を再現するという試みがあった。その合成した声で「雨にも負けず」を朗読して、賢治を知る存命の教え子たちに聞いてもらうという企画だった。
なかなか気が利いている企画だったが、可笑しいのがその合成の声で、合成の雛形に使った声がプロのアナウンサーによる標準語であるために、発音が極めて明朗でアクセントが完全に標準語なのだ。岩手の100歳近い人たちにそんな話し声を聞かせて「賢治に似てますか」と聞くのは無謀というものだ。案の定、彼らの感想は似てるかどうか以前に「もっと普通に語ったったもな」というものだった。私にはこの「普通」の意味が、すぐにわかってなんとも可笑しかったが、テレビ局の人たちはこの老婆たちの感想の意味が分かったのだろうか。