月別アーカイブ: 4月 2011

許しがたい愚行

福島の被災地で、放射線被爆量が問題ない値であることの証明書を見せないと避難所に入館できないとか、診療所で診療を断られる事態になっているという。
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110329k0000m040129000c.html?inb=yt

信じられない愚行である。原発のすぐ近くで死ぬほど放射線を浴びた人でもなければ、他人に与える影響などないことぐらい、関係者も医者もわからないのだろうか。

「他の避難者から不安がる声が多かったため始めた」そうだが、その不安に毅然として「実害など有り得ない」と科学的根拠を説明すればよいだけのことではないか。
それでもグダグダ言うような「自分のことだけ心配な思い込みバカ」は避難所から出してしまえばよい。当たり前のことである。それを管理者側までが一緒になって、避難地域からの避難者たちを差別するとは信じられない愚行である。

健康に何の問題もない福島産の野菜を食べないアホどもと同じである。一日も早くこんなバカなことは止めてもらいたい。

日本人のこういう感覚には「穢れ」の文化も関係しているのではないだろうか。葬式が縁起が悪いこととして、その穢れを落とすために塩をまいたり、葬式でやることは縁起が悪いので箸渡しをしないとか、科学的根拠などお構いなしに印象を判断材料にすることに慣れているので、その延長で、福島産だというだけで食欲をなくしたり、福島から避難してきた人だから近づきたくないという感覚になるのではないだろうか。箸渡しをしないとか、塩をまくなどというのは実害はないことなので好きなようにすればよいが、これは違う。

こういうときこそ、絶対に科学だけを根拠にするべきであり、文化や伝統はぜひとも後回しにしてもらいたい。

息子がテレビに出演!

息子が、家を流されて高校の体育館で暮らしている友達のところに遊びに行くと、偶然NHKが取材に来たという。フランスの大臣が仙台を訪れ、ついでに避難所を視察に来たらしい。

6:40からのニュースに出るというので、録画しながら家族みんなでテレビを見たが、画面の左端に腕が映っていただけだった。

息子は、なぜだかテレビ画面に映っているフランスのお菓子をもらって帰ってきた。

家を流されたという息子の友達は地震後、家に遊びに来たが「家、土台しかないです、マジです」とそれはもう得意そうに語った。その調子でみんなに言って回っているのだという。考えてみると、家を流されて仕事の心配をするのは大人であり、もともと家を建てたり働くことに関与していない中高生は、大人ほどにはショックを受けていないのだろう。また、亡くなった人たちへ思いをはせる想像力もない。自分の中学生時代を想像してみてもそんな感じがする。あまりモラルに合致することではないが、男子中学生はそんなもんなのだ。また、前向きに生きるためにはその方が都合が良いとも言える。良くはなくてもこれが現実だ。

大人の感覚で子供の心情をおもんばかると大抵は肩透かしをくう。子供は大人の感情移入したいようにはならないのだ。

先週行った床屋の御かみさんも、避難所になっている近くの小学校では、子供たちが毎日キャンプ気分で大喜びしていて「とてもテレビには映せない状態」だと言っていた。そりゃそうだ。

うちの子供も、避難所の友達に「自衛隊が設営した風呂に入りに来い」と誘われ、すんでのところで行くところだった。「迷惑だから行くなバカ」と止めなければ間違いなく行っていただろう。

何するのよ?

今月の卓球王国に水谷のことを書いたのだが、その最後のところに「水谷は、世界チャンピオンになるためなら、犯罪とルール違反以外なら何をやってもよろしい」と書いた。

これについて知人から「“犯罪とルール違反以外”って何するのよ(笑)」とメールが来た。それもそうだな。まあ、文章のテクニックということで。

不幸の比較

震災で不便を感じている人たちが、自分がいかに大変かを話すのを聞くことがある。

自分だって大変だと苦労自慢をしているような様相を呈している。他人の苦労を聞くと同情と興味の入り混じった感想を持つと同時に、わずかのひけ目を感じ、自分だって苦労しているという不幸自慢をしたくなってしまうのだ。

私は人間の体験しうる不幸というものをよく考える。今回の震災で家を流され避難所で暮らす人たちは本当に気の毒だ。しかし、ちょうど震災のあった3/11に末期癌を宣告された仙台市民だっていたに違いない。その人にしてみれば、家を流されたって、体が健康で自由に息ができて歩けて何でも好きなように食べられ、当面は期限を切られることなく生きられる人たちが羨ましくて仕方がないだろう。

私は18歳のときに自然気胸という病気で手術のために1ヶ月間入院をした。体に管を差し込んでずっとベットから離れられず、大小便も看護婦さんを呼んでオマルにする生活だった。ほとんど心配のない病気だったのだが、弱気になって、このまま二度と退院できないのではないかと悪いことを想像した。そのときに考えたことは、自分で好きなようにトイレで用をたす、仙台の街の歩道を自転車で好きなようにブラブラするなんてことが、なんて輝かしく楽しいことだったんだろうということだ。退院したら絶対にその楽しさを味わおうと思ったものだ。もちろん退院するとそんなのはすぐに忘れたのだが、今もときどき思い出して忘れないようにしている。なんたって、いつ本当にそれが不可能になるかわからないのだから。

さて、不幸比べだが、私が考えるもっとも辛いことは、自分の子供が異常殺人者になることだろう。憎みたくても憎めない、どんなに考えても理解できない、その上、世間の誰の同情も得られないのだ。これほどの生き地獄に耐えられるとはとても思えない。

その次が、家族を殺されることだろう。そんな経験をする人は稀にしかいないので、これも同情はされても誰の共感も理解も得られず孤独になるだろう。そして病気や事故、災害と違って、本来死ななくてよいものを故意に死なされるのだから、その無念さたるや比較するものがないだろう。

どんな手を使ってでもこれを防ぐべきだろうと私は思う。国民全員に生まれたときから発信機をつけて位置をモニターできるようにし、殺人者は必ず死刑にするとか、そういう強烈な法律を作るべきではないかと妄想することがある。プライバシーの問題などいろいろと実現が難しいことはあると思うが、人が理不尽に殺されないようにすることより国民のプライバシーが大切だとは思えない。結局、理不尽に殺された人の遺族は圧倒的少数なため、その無念さは無視されているのだろう。

交通事故も同じだ。すべての自動車の制限速度を時速30キロにすれば死亡事故は激減するだろう。まあそれは無理だろうが、とにかく理不尽な死に方をする人がひとりもいない世の中にする方法はないのだろうかと思う。

「何でもありません」

1ヶ月ほど前に献血をしたのだが、その血液検査の結果で糖尿病の可能性が示唆され、病院での検査を勧めるとの通知が来ていた。そうこうしているうちに地震になってしまいすっかり忘れていたのだが、今日やっと病院に行ってきた。

検査は明日で、今日はその予約だけになってしまったのだが、そこで可笑しいことがあった。

受付で事情を話して診察券と保険証を出し、待合室で待っていたのだが、15分ほどすると受付の人が私の名前を呼んだ。私が「はい」と返事をして受付に行くと、その人は「何でもありません」と言ったのだ。何をどう間違ったのか知らないが、謝るでもなく笑うでもなく、すました顔で「何でもありません」とだけ言ったのだ。

すごすごと長椅子に戻った私は「人を呼びつけておいて“何でもない”かよ」と思うと可笑しくてたまらず、週刊誌の続きを読みながら堪えきれずに吹き出してしまった。

これがこんなに可笑しいのは私だけだろうか。

地震のグラフ

東日本では未だに余震が続いていて、その震源地もバラバラなのでいかにも日本列島に大異変が起こっているような嫌な気持ちになるが、余震の回数が確実に減っているグラフを見ると安心する。
http://www.chizumaru.com/earthquake/

これは、3/11の巨大地震で出た歪を取るためにあちこちが微調整をしている結果なのだ。そのうち、通常通りに戻るだろう。そう思うしかない。

Page 4 of 41234