月別アーカイブ: 3月 2013

ヘビメタ命のOさん

Oさんは音楽が好きで学生時代から切れ目なくバンド活動を続けているという。担当はギターだ。好きなジャンルはなんといってもブリティッシュ・ヘビイ・メタルだそうだ。そう言って彼はソニーのウォークマンを出して見せてくれた。ディスプレイにはアイアン・メイデンのアルバムジャケットが表示されていた。Oさんによれば、アイアン・メイデンはヘビイ・メタルを発明した人たちで、どれだけ偉大かわからないという。単調な2音だけのベースに速いドラムに情緒的なギターとボーカル、これらを発明したところが偉いのだという。「いろいろと軽い音楽も聴いたけど、最後はやっぱりアイアンメイデンに帰ってきますね」とOさんは語る。

アイアン・メイデンはなんと今も現役で、最近、そのライブ映像を見てOさんは泣いたという。ヘビイ・メタルを聴いて泣く人がいるとは知らなかった。

Oさんのウォークマンには他のアーティストのアルバムも入っていて、そのディスプレイにはレッドツェッペリン、ディープパープル、イエス、キングクリムゾン、TOTO、オジーオズボーンなどのアルバムジャケットが次々と表示された。うむむ、私の趣味と根本的に違うが、一部カスるところがあるのが楽しい。

実はOさんは、昨年の夏、十数年組んできたバンドを解散したのだという。その原因は、人間関係だという。あるコンサートのとき、ベースの担当が間違えて別の曲のフレーズを弾いてしまったのだという。ところが芸大出身のセミプロのピアノ担当がそれを許せず、フェイスブックでしつこく批判をしたという。ベースは「もともとあんな曲はやりたくなかった」といえば他のメンバーが「それとこれとは別だろう」となり、Oさんがなだめるも効果がなく、解散を決意したという。「フェイスブックはやっちゃいかんですね」とOさんは語る。

人間模様である。失礼ながら、他人のモメごとを聞くのは面白い。

大阪人

昨日、一昨日と仕事で山口県のお客さんを回ってきた。同行した営業のOさんと道中いろいろと話して面白かった。

Oさんは大阪出身だが、東京にも何年か住んでいて今は大阪に戻っている人だ。先日テレビで見たところによると、大阪の人は東京に行った人がちょっとでも東京風になると「魂を売った」と非難されるという。本当にそうなのかOさんに聞くと、そうだという。それをきっかけとしてOさんは痛烈な大阪批判をし始めた。大阪を離れると大阪人の悪いところが良くわかるという。私は大阪人は明るくてカラっとしているような気がしたがそうではなく、意地汚くねちっこくひがみっぽいのだという。「豊臣秀吉が負けて以来、大阪人はひがみっぽくなった」のだとOさんは語る。そんなに古い話が現代の人間の気質に関係があるのだろうか。一方、京都の人は「一時的に都を東京にあずけているだけ」という余裕があって、大阪人とは違うという。なんとも壮大な話である。

Oさんが大阪人の嫌なところの一例として、車を運転するときに他の車になかなか道を譲らないし、車間距離を空けずにべったりくっついてくるという話をした。チンピラでもなくオバさんでも若い女性でもまるで「そうしなければならない」とでもいうふうだそうだ。そんなときOさんは「お先にどうぞ」と追い抜かさせてあげて、後からハイビームで追いかけて意地悪をしてやるのだそうだ。Oさんも自身に流れる大阪人の血をいかんともしがたいのだという。

Oさんは「姫路とか城下町出身の人にはややこしいことを言うお客さんが多い」という。プライドが高いからではないかと言っていた。これらの話の真偽は私には知るよしもないが、話としてはとても面白く、笑い通しであり、それこそがOさんが大阪人たる所以ではないかと思ったのだった。

ブレない生き方

何週間か前、職場の後輩と駅に向かって歩いていたら、後輩が電車に乗り遅れまいと急ごうと言い出した。私は次の電車でも問題ないので「急ぐつもりは無い」と言うとその後輩は「さすがです。そのブレないところが凄いです」と感心している。ブレるもブレないも、用事もないのに走りたくないだけのことなのだが、それから何週間かしてからその後輩が思い悩んだ様子でそのときのことを語り出した。

彼は電車どころか信号機のパターンさえ気にして道路の横断の仕方まで計画を立てるという。もちろん天気予報も気にする。ありとあらゆることに左右され、仕事でも他人の意見が気になって信念がぶれてぶれてどうしようもないという。そんなとき、目の前で電車が行こうとしているのに電車に合わせずに堂々としている私が凄いと尊敬をしたというのだ。

そう言われれば私は天気予報はほとんど見ないし、予定がないときは電車時間も見ない。ガソリンの値段も菓子の値段も見ない。どっちみちたいした差はないからだ。これはブレないというよりは、単に横着なだけである。大学受験のときに東京の私大を受けようと、前日、親戚の家に泊まったはいいが、当日の朝に会場を調べたら遠くて間に合わなかったので受験を止めたのだった。東京まで来たのだからすぐに行けると思い、受験会場がどこにあるのか一度も見ていなかったのだ。

こういうわけだから、ブレるもブレないもお話にならないのだが、その後輩は私と自分を比較して「俺はダメだ」と落ち込んでいた。そんなことを考えるということこそがまさにブレるということだと思うがどうなんだろうか。

卓球の特異性

テニスと比較して卓球の特異性を考えてみると、それはテンポが速いことによる戻りの重要性だ。映画『ピンポン』ではCGでボールを動かしていたが、そのあまりの遅さにがっかりしたものだった。役者たちの演技に合わせてボールを作ると、ありえないくらいボールが遅くなるのだ。なぜなら、役者たちの打球と打球の間隔が長いからだ。役者たちは実際にはボールなしで「エア卓球」をやっているにすぎない。にもかかわらず実際の卓球ほどのピッチではラケットを振れないのだ。あるいはボールが速すぎると観客に理解できず、映画として成り立たないので監督がそのようなピッチを指示したのかもしれない。いずれにしても、卓球のラリーはそれほど速い。

それほど速いと問題になるのは、打球後の戻りだ。全身を使ってボールを打っても、その直後にはニュートラルの姿勢に戻っていなくてはならない。卓球はボールが軽いしコートも狭いので、基本的に、どんなボールを打っても常に返される危険があるからだ。返せないボールはないのだ。だから卓球選手は、ダブルスでもないかぎり、打ってそのまま姿勢を崩すことはない。卓球をしていると当たり前のことだが、これが初心者には難しいことが教えているとよくわかる。

荻村伊智朗の著書『卓球クリニック』では、戻りについて次のように書かれている。

「よいボールを打って一発で抜こうという意識と、もしそれが返ってきたらすぐそれに対応しようという意識を切りかえながら合わせもっていくということが大切です。打つときには返ってくるということは考えてはいけません。打ち終ったらただちに返ってくるということを考えなくてはいけません」

荻村伊智朗はこんなことでもいちいちひっかかるフレーズをちりばめるのだ。そしてそれが、まるで撒き餌のように私のような者を惹きつけて止まない。

下の写真は、その本に載っている劉南奎のフォアハンドドライブだ。私の見立てでは卓球史上最速のドライブは間違いなく劉南奎によって放たれたはずだ。こういうドライブを打った場合でもワルドナーやアペルグレンに当たり前のように返されるのだからたまらない。卓球は恐ろしい。

地上最速の球技

いつだったか、ニュースでテニスの錦織が大会で優勝したことが報じられていた。それで、主なラリーが紹介されていたのだが、『ザ・ファイナル』を何十時間も見慣れた目で見ると、あまりにもボールが遅く、なんと迫力に欠けるスポーツなのだろうかと思ってしまった。もちろんボールの速度はラケットが長い分だけテニスの方がずっと速いのだが、画面で見るとなんともトロい。卓球の試合で感じられるお互いに斬り合うような凄みがない。

かつては、卓球の方がちまちましていて全然迫力がないと思っていたが、それは撮影の仕方が悪いからだったのだ。ちゃんと撮影をすれば卓球はものすごいスポーツなのだ。『ザ・ファイナル』のサンプル映像の水谷-森薗のラリーを見よ。

卓球以外のスポーツができないような生徒ばかり卓球部に入るという現実はあるが、それも素晴らしいことだ。運動音痴でもチビでもデブでもヤセでも年寄りでもできて生きがいにさえできる、これほど素晴らしいことがあろうか。そしてその同じスポーツが、トップクラスにおいては地上最速の球技と化すのだ。考えてみればこれは完璧なスポーツではないか。なんという幸せ。

痒くて目が覚めた

次男が「授業中、寝てたら頭が痒くて目が覚めた」だそうだ。何もかも間違っているのではないだろうか。

目が覚めたといえば後輩の田村は昔、ラーメンにニンニクをたっぷりと入れて食べて実家に帰ったら、翌朝、おばあさんに「あまりにも臭くて目が覚めた」と言われたそうだ。人間、そんなにニンニクを食うことができるものだろうか。

長いインパクト

『90年代の卓球』から最後のネタだ。よく「インパクトを長くする」という表現があるが、そういうのはもちろんデタラメな卓球理論だ。ここではそれを皮肉って、粘着ラバーで相手のボールをラケットの上で止め、ゆっくりと相手のコートに歩いていって好きなところにぶち込むという必殺技だ。

ああ、本当にこんなことができたらどんなにか良いだろう。それでも、朱世赫には勝てそうにないが。

山田さんの強運

先日ご紹介した山田さんから、ある写真が送られてきた。なんと、パーソンとフェッツナーに挟まれてピースサインをする山田さんの写真だ。パーソンとフェッツナーは確かに日本に来ていたが、東京ではメーカー関係の人しか会える場はなかったはずだし、その他には長野県に講習会に行っただけであり、東京在住の一般人である山田さんが彼らと会えるはずはない。

いったいどういうことなのか聞いてみると、なんと仕事で偶然長野県に出張していて駅のホームでばったり会ったのだという。それだけではなくて、彼らに同行していたドニックジャパンの方から「条太さんのブログの山田さんですね」と声をかけられてまんまと写真を撮ってもらったのだという。

まったくなんという強運だろうか。山田さんほど強烈な(そしてどこかオカしい)情熱を持っていると、卓球の神様が「めんどくさいなあ」とか思いながら何らかの采配をするのだろうか。

この話を今野編集長にすると「条太さんのファンは変わり者ばかりなんじゃないの?」と言う。「いや、ほとんどの人は普通なんでしょうけど、わざわざ会いに来るくらいの人だから変わり者なんでしょ。今野さんだってTSPトピックス時代にそういう人がいたでしょう?」と私。すると今野さん「いや、会いに来たのは条太さんぐらいだったよ」 

そういえば私は、1997年のジャパンオープンの会場で、「ヒゲを生やしている」という情報を頼りに報道席に座っていた今野さんに見当をつけて話しかけに行ったのだった。そうか、そういうことか・・・・。

日本の卓球の理想主義

昭和22年の卓球雑誌にも技術コーナーがあった。そこを見ると「2年間はボールから目を離すな」というようなことが書かれていて、この頃から日本の卓球の理想主義が定着していたことがよくわかる。これは民族性といってよいだろう。これが複雑多様な卓球には向かない考えであり、その後の数十年の停滞を招いたと私は思っている。

それにしても、いったいどこに「球から目を離そうと努力する」人がいるというのだろうか。

昭和22年の卓球雑誌

『スウェーデン時代』のDVDと同時に、古本屋に注文していた卓球雑誌が届いた。昭和22年の卓球雑誌『卓球界』だ。卓球王国の大先輩と言うところだ。「藤井選手はなぜ強い」なんてあるが、もちろん藤井寛子でも藤井優子でも藤井基男でもなく、藤井則和だ。

いやはや、なんたる極楽だろうか。どうせちゃんと読みはしないが。

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