偽作曲家騒動

別人が作曲をしていたという騒動が世間を賑わせている。

この騒動を通して私が思ったことは、クラシックという音楽の置かれた状況についてだ。それは、今やクラシックは、音楽そのものの魅力だけではなくて、その他の物語がなくては売れない物であるということだ。確かに、今まで佐村河内氏の音楽がよいと思って感動をしていた人たちは裏切られたと思っているだろう。しかしそれはもちろん、音楽のクオリティそのものにはなんら関係のないことである。今回の事件で佐村河内氏の「音楽」に対する評価が変わった人は、結局、音楽の良し悪しがわかって聴いていたわけではないということなのだ。

そうでないのなら「作品そのものにはなんら罪はない。経緯はどうあれ、新垣氏の生み出した音楽の魅力は永遠に輝き続ける。自分はあの楽曲群をずっと聴き続ける」とでもいう論陣を張る者が出てこなくてはおかしい。

クラシックとは、ごく一部の鑑賞能力のある人にしかわからず、その他大勢の人たちは彼らの評価をうのみにするかまたは付随する物語やステイタスによってしかその音楽性を評価できない「芸術」だということなのだ。

オペラについても似たようなことがいえる。スター番組で一夜にして有名になったスーザン・ボイル、ポール・ポッツといった人たちが歌ったのがポップスではなかったことは偶然ではない。オペラならポップスと違って外見の影響を受けずに歌唱力だけで評価をされるからだろうか。それだけではない。オペラは、現代ではそれほどポピュラーではないために、一定以上の歌唱力があればその良し悪しは大衆にはわからない音楽だから「一夜にして無名からスターダムになった」という感動的な物語が効率よく作用したのだ。確かに私もスーザンとポールの声は良いと思う。しかし、その他のオペラ歌手より特別良いかどうかはまったくわからない。聴いたことがないし、聞いてもわからないだろう。

こういうことがあるのは音楽だけではない。味だけではなく、その値段やステイタスで選択されることが多いワイン、酒、高級料理もそうだ。わかる人が少ないからこそ利き酒大会があり、芸能人が高いものと安いものを判別できるかどうかの番組も成り立つ。本当に味だけで価値を判断される大衆料理やジャンクフードではそれらは成り立たないし「専門家」の意見がどうあれ、誰でも自分が好きなものを選ぶだろう。「天然物を使っているこのカップラーメンこそ本当に旨いのだ」という専門家の意見は、最初に買うときこそ参考にしたとしても、食べてみて旨くなければ二度と買うことはない。これらは味だけで自分で判断するべきものと認識されているからだ。

世の中に値段が高くておいしいものは数あるが、それらのなかで「高い」「貴重だ」という付加価値を外してなお、ラーメンやソース焼きそば、カレーライス、餃子と戦える料理がどれだけあるだろうか。私にはそのような料理はとうてい思いつかない。こんなに旨いものを安く食べられる我々はなんと幸せなのだろうか。

いやすっかり話がそれたが、物事の価値というものについて、そんなことをあらためて思い起こさせられた偽作曲家事件であった。

同様の考察をラケットやラバーについてもしてみると面白そうだが、ちょっと怖くもあるから止めておこう。

偽作曲家騒動” への 6 件のコメント

  1. 卓球でも4000円のラケットを50000円のラケットと騙して打たすと半分以上の人が「打ちごたえがちがうと」言うでしょうね。

    1. ご指摘ありがとうございます。
      あれはオペラではないのでしょうかね。あるいはオペラ的な歌い方ではないでしょうか。
      いずれにしても、違うようでしたらご教授ください。訂正したいと思います。

      1. wikipedia でスーザン・ボイルをみると曲目等いろいろわかります.彼女をテレビ番組で歌っていたのは,ミュージカル「レ・ミゼラブル」の中の唄です.
        容姿と歌声の落差がスーザン・ボイルを押し上げた,つまり外見の影響はあると思います.

        1. そうですね。あれはオペラではないですね。そのうち訂正します。
          ありがとうございました。

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