年別アーカイブ: 2018

「金に糸目をつけない」とは

次男が「金に糸目をつけない」という表現の由来は何かという問題を出してきた。何やら発見したと思っている様子で得意気だ。

「よく知らないが、縫い糸か何かが元だろう」と答えると、次男の解釈では、糸のように目を細めた状態が「糸目」であり、すなわち、お金を使うときに渋い表情をすることなく使うから「糸目をつけない」と言うのに違いないという。

目を細めた状態を糸目と言うなど初耳だが、次男によれば、ネットなどでは頻繁に使われているという。そんな新しい若者用語が昔からある言い回しの由来であるはずはないが、その解釈はなかなか気が利いていて面白かった。

私も「糸目」をつけずにクリクリと目を見開いたままの状態でお金を使えるようになりたいものだ。

それにしても次男のこの常識ぐあいで、今週から始めた会社員生活は務まるのだろうか。営業らしいが・・・。

卓球狂いの『なんでも鑑定団』ディレクター

少し前になるが、『開運!なんでも鑑定団』という番組のディレクターをされている馬渕さんという方と食事をした。

仙台ではこの番組は、再放送を含めて土日に3本も放送される。そのうち2本はたて続けに放送されるという豪華さだ。家にいるときには必ず見ているので、多い時には週に3本見るというヘビーカスタマーだ。

会社勤めをしていたときは、東京に出張するときにいつも夕食をとっていた飲み屋で火曜の夜に必ずこの番組をつけていて、常連客全員がその鑑定額に「ほーっ」などと溜飲を下げたりしていたので、それも合わせると週に4本も見ていたことになる。

鑑定額が出るまでの裏話がとても面白く引き込まれるが、馬渕さんはそのシナリオも書いているという。素晴らしい。

ところがこの馬渕さん、大変な卓球狂い(しかもペン粒)で、私のTSPトピックス時代のマンガ『おちつけ!タマキチくん』まで知っているという強者だったのだ。

今回、お誘いをいただき『中目卓球ラウンジ』で食事をご一緒した次第だ。

世間一般としては卓球コラムニストとは比べ物にならないステイタスの方だが、なにしろ馬渕さんは私の大ファンで、そういう雰囲気で接してくれるので「そういうことなら」と俄然大きな態度でお話をさせていただいた。

面白かったのは彼がペン粒になった経緯で、なかなか悲哀を帯びた話であった。

そのあたりのことはそのうち本誌で書こうと思う。

ちなみに、鑑定団の司会が同じく卓球狂いの福澤さんなのはまったくの偶然だそうだ。

 

古いラケット

ピータースの形見に古いラケットをもらったためもあるが、なんとなく古いラケットを集めたくなり、ヤフオクで落札してしまった。ラバーが登場する前のラケットだから昭和13年(1938年)以前のものだ。

まずは「山田一男」と書いてある穴あきラケットだ。

穴はやはり空気抵抗を減らすためなのだろう。振ってみると、確かに軽い。今のルールでは使えないが、効果はありそうだ。しかしこのラケット、やけに小さい。穴に紐が通っていることも気になる。本当に卓球に使っていたのだろうかと思うが、一応、ボールを打ったような窪みがついている。

 

次に買ったのが、4本セットだ。

グリップがコルクのものが2本に、木のものが2本だ。

1本はブレードにひびが入っていて、側面に釘の頭が見えているので、斜めに打ち込んで割れないようにしているのだろう。

いい具合に黒光りしていて惚れ惚れする。木のラケットはいいなあ。

 

さあて、こんなことを始めたらきりがないし、せいぜいブログのネタにしかならないわけだが、誰も買わないでそのうち捨てられては大変なので、私が買った次第だ。

そのうち形から年代やメーカーを突き止めたいと思う。

 

ピータースの思い出

ピータースは本当に愛すべき卓球ジジイだった。

小さな町で歯医者をやっていて、十分にお金があり、家自体にはさほどお金をかけないかわりに家中を好きなもので埋め尽くしていた。ハンドソウの川又さんの工作室を見たとき、最初に思い出したのはピータースの部屋だった。

好きなものは、私が知るだけでも、卓球、鉄道模型、武器(銃とナイフ)だ。

以下は、最後に会った2010年7月の写真だ。

天井近くの壁に貼ってある模様みたいなのは、ラバーのパッケージだ。どれだけ好きなのだろう。

これだけ大量に持っているくせに、使った後のラバーをきちんとファイルしてあるところが可愛い。

こんな模型が壁一面を上から下まで埋め尽くしているのだからたまらない。

これが卓球台の周り3辺を取り囲んでいる模型の線路だ。

模型作りの工作机

いきなり飛び出す武器たち。言うまでもなく本物だ。

銃だらけの部屋もあったが、あまりの恐怖で写真は撮らなかった。

書斎だかなんだかわからないが大量の本、ビデオ、オーディオ機器。2001年に行ったとき、案内された部屋だけで目についたビデオデッキを数えたら17台あった。

深夜まで練習して教えている生徒たちと卓球談義をするピータース。

 

これが今生の別れとなった。

会っているときは腹いっぱいだったし、面倒な人なのでそう会いたいとも思わなかったが、いなくなるのは寂しい。いつまでもいてほしかった。

ピータースの形見

ドーサン時代の卓球仲間だった、スタンの家にも寄ってきた。

いろいろ話したが、昨年亡くなった卓球キチガイ爺さん、ロナルド・ピータースの形見として、古いラケットをもらった。

古いにもほどがある19世紀末から20世紀初めのものだ。

18年前にピータースの家を訪れたときに見せてもらったラケットだ。

ピータースの奥さんはあまり卓球仲間に情報を出さないらしく、ピータースの墓がどこにあるのか誰も知らないという。卓球に入れ込みすぎるとこうなるのだろうか。

しかし、ピータースは生前、十分に楽しんだのだからこれでよいのだろう。

在りし日のピータースとラケット。これを私はもらってしまったのだ。

マイクとカイル

アメリカ旅行をすることを決めてすぐ、赴任時代の同僚であるマイク・マッコールと連絡をとり、一緒に食事をすることになった。

メールのやり取りで「ホテルに迎えに来てほしい」と書くと、わけのわからない返事が来た。

10-4. We will work out picking you up from hotel.

だそうだ。後半はよいとして、10-4とは何だろうか。平日で仕事があるはずだから、10時から4時の間に来るわけもない。

それで、どういう意味か聞くと、これは「テン・フォー」と発音し、無線の暗号のようなもので「OK」という意味なのだそうだ。アメリカ全土で使われていて、映画などでもパトカーの警察官がしょっちゅう使っているという。ちなみに「10-9」は「もう一回言ってくれ」、「10-20」は「どこにいる?」だそうな。

こんなもの、いくら英会話を勉強してもわかるわけがない。

マイクの野郎、俺がこんな事わかると思って書いたのだろうか。そういう奴なのだあいつは(ちなみに、会ったとき、同僚とのSNSのやり取りをスマホの画面で見せられたが、たしかに10-4.と連発していた。OKと書く方が早いだろうに)。

マイクはその後のメールで「工場に来てナッツの煎り具合を見たいか?」と書いてきた。赴任中に我々が務めていた工場が閉鎖になり、今は更地になってしまっているので、そこを見たいかという意味だろう。それにしても事の顛末を「ナッツの煎り具合(how nuts are roasted)」と表現するとは気が利いているではないか。

ホテルには別の同僚であるカイル・デービスが迎えに来てくれて、マイクとともに『ハンツ』という牡蠣料理店で食事をした。左がマイク、右がカイルだ。

これは粉チーズとタバスコで食べる牡蠣だ。日本で牡蠣を食べられなかった私が、ここで牡蠣の味を知り、食べられるようになった美味しさだ。

あらためてマイクに「how nuts are roasted?」の意味を確認したところ、なんとマイクは、ナッツを加工する会社に勤めていて「工場に来てナッツを煎るところを見たいか?」というそのまんまの意味だったことが判明。がっくり。

「10-4」などという暗号を使うからこちらも深読みしてしまったではないか。

カイルはかつて、非常にうるさく吠える犬を飼っていて、何度も隣人に警察を呼ばれたが「お前が引っ越せばいいだろ」と反省の色を見せなかったという男だ。

まだ状況は変わっていないか聞いたところ、さすがにカイルは隣人がいない田舎に引っ越し、今では9匹もの犬を飼っているという。しかも、広い土地に放し飼いをしているそうだ。放し飼いといっても実は地面の下に電気回路が敷いてあり、犬が境界に近づくと首輪が反応するようになっているので、見かけは自由だが一定のエリアから出られないようになっているという。さぞかし犬たちは楽しいことだろう。

そんな話をしたドーサンの最後の夜だった。

ドーサンに行ってきた

息子たちが就職するので、最後の家族旅行としてアメリカ赴任時代に住んでいた町、アラバマ州ドーサンに行ってきた。ドーサンを離れて初めてだから8年ぶりだ。

ドーサン空港に降り立ったときの印象は、全然懐かしくなく「またか」という程度のものだった。どう考えてもついこの前来たばかりにしか思えない。この年になると8年などあっという間なのだ。

私たちが住んだ家は、その後、3家族ぐらいが入れ替わり、今も誰かが住んでいた。ドーサンには3泊し、毎日その家を見に行った。家の前に車を止めてしみじみと眺めていると、懐かしいというよりは、息子たちにつらい思いをさせてしまったなと思い感傷的になった。息子たちは、アメリカに赴任したことを「強制収容所に入れられていたようなものだった」と言っているのだ。

家を見る息子たちは多くは語らなかったが、黙々とスマホで写真や動画を撮影していたことがその感慨を示していた。

英語があまり話せないので友達もできず、移動はすべて車だったから、遊ぶといえば家族でバッティングセンターに行くなどというものだった。日本の中学生のように、友達と自転車や電車でどこかに行くという経験ができなかったのだ。

赴任中によく通ったバーガーキングにも行ってみたが、相変わらず絶望的な大きさのハンバーガーだった。味は昔通りに肉が香ばしくて美味しかった。

たったの3日でドーサンの何が味わえるだろうかとも思ったが、3年半住んでもドーサンのなんたるかはわからなかったし、考えてみれば仙台ですら33年も住んでいるのに結局自分の周りのことしかよくわからない。

こういう気持ちはないものねだりなのだろう。

張本夫妻インタビュー

先週から今週にかけて、卓球王国の依頼で、張本智和選手のご両親に別々にインタビューを行った。

見事なまでに対象的なお二人だった。

お母さんの凌(リン)さんは、深く智和選手の将来を思い、取材中に2度涙を流した。

一方の宇(ユウ)さんは、卓球が好きでたまらず、智和選手を日本チャンピオンや世界チャンピオンにしたいとか、そんなことは考えたこともなかったという。それどころか、卓球場経営すら考えてもいなかったという。

このような対照的な二人ではあるが、いかんせん、二人とも元中国ナショナルチームにいたという点では共通している。恐ろしいことだ。

いろいろなことがわかった実り多く感動的なインタビューだった。

詳しくは卓球王国6月号に書くが、そこに書かないこととして、ひとつの発見を書く。

凌さんは現役時代はカットマンだったが、バック面が表ソフトだったという。バック面表といえば95年世界選手権天津大会で大活躍した丁松を思い出すが、なんと凌さん、85年に四川省チームに入った段階でバック面表だったという。

理由を聞くと、攻撃をしやすいためもあるが、粒高では対ドライブに対して切ることしかできずナックルが出しにくいので「変化が小さい」ため、中国ではバック面粒高のカットマンは、他国を想定した練習相手としてしか存在しないというのだ。それも80年代の昔からだ。

裏にしないのは、裏では回転に敏感すぎてこれまたドライブを返すのが難しいからだという(フォア面が裏なのは、恐らくサービスと攻撃のためだろうが聞き忘れた)。

こんな話は初めて聞いた。「本当か?」と思って00年代に日本で活躍した帰化選手、王輝のラバーを調べたら、確かに表ソフトだった。

知らないのは私だけだったのだろうか?

だとすれば、なぜ日本のカットマンは今もバック面粒高が多いのだろうか?

興味は尽きない。

何が「わざと」だ

古い知り合いの女性からメールが来た。

「久しぶりに卓球王国ブログを開きました。蔵書に目を通す伊藤先生、ワイシャツ、Vネックの上にワインカラーのドンぶく!これわざとですよね。」

だそうだ。「わざと」とは、ウケるために頓狂な服装をしているという意味だろうが、失礼な話である。

シャツはこれ以外に持っていないし(同じのだけ5着ある)、家ではいつもこのカーディガンとどんぶくだ。選択の余地はないのだ。

せっかく蔵書を自慢したかったのに、服装に目がいくとは、なんたる集中力の低さであろう。

蔵書に興味ないから仕方ないか(笑)。

 

 

ハンドソウ開発者、川又宏司氏との邂逅

以前、卓球王国の連載でも取り上げた大友秀昭くんは、現在、熱心にハンドソウラケットの普及活動をしている。

ハンドソウの選手を集めてチームを作って試合に出たり、あろうことかハンドソウの選手だけが参加できる世界選手権を開催したりしている(もちろん参加者は「お仲間たち」だけだ)。

その大友くんから何週間か前に、ハンドソウの開発に関する古い論文が送られてきた。1973年のもので、著者は川又宏司(新潟大学)となっている。

そこで、以前から懇意にさせていただいている新潟大の牛山さん(日本卓球協会スポーツ医科学委員)に聞いてみたところ、なんと「前任者なのでよく知っていてご健在」とのこと。それは凄い! さっそく連絡先を教えてもらい、東日本大震災の7回忌となった昨日、仙台から5時間車を飛ばし、大友さんは金沢から4時間かけて電車でかけつけ(隣の県なのに筆舌につくしがたい便の悪さだ)、二人で新潟市のご自宅を訪ねてきた。

川又さんは、予想を越える凄いお方だった。

昭和9年生まれの御年83歳。

初めて卓球をしたのは、終戦当日の1945年8月15日、11歳のときだったという。正午の玉音放送で敗戦を知り、午後に学校に行くと、なんと体育館に卓球台が何台も出されみんなで楽しそうに卓球をしていた。それまで卓球台などもちろん見当たらなかったし、川又さんは「卓球」という言葉さえ知らなかった。やってみるとあまりにも楽しく「なんということだ」と驚愕した。

中学では卓球部を作り、ゴム長靴のゴムをラケットに貼って回転をかけた。奇しくも、京都の永井達四郎が裏ラバーを発明したのと同時期だ。1年上の長浜好人という選手とダブルスを組んでいたが、長浜は後に全日本選手権の男子ダブルスで優勝する(1954年)。それを聞いたとき「俺も卓球続けてればよかった」と思ったという。

というのも川又さんは、高校では卓球をやめて野球部を創立したからだ。新潟大学に入ると、指導の方にやりがいを感じるようになり、女子チームを北信越で優勝させるまでにした。

川又さんは当時からすでに、日本にスポーツを楽しむ文化を広めるような活動に興味があったのだ。

そんなこんなで、話は飛び、1970年初頭にハンドソウラケットを開発した。特許はとったものの、大学職員であったため副業に関する申請などが面倒で、結局、権利は行使せず、メーカーからは食事をご馳走になった程度で1円ももらっていない。それどころか、自ら開発したラケットを、そのメーカーから買っていたという。

今も週に3日程度、お仲間とラージボールを楽しんでいるが、なんと未だに理想のラケットを求めて日々ラケットの開発をしている。最近ではペンとシェークの握りを両立する「二脚式ラケット」を開発した。

驚いたのは、二階にある工作室で、その熱量は完全に常軌を逸するものだった。この部屋に他人を入れたのは初めてだという(入りたい人がいたかどうかはともかく)。ラケットの型抜きはおろか、合板の接着までご自分でされている。同行した大友くんなど、自分のマニア度の甘さを恥じていた。私もだ。あの程度の卓球本の蔵書を自慢していたことが恥ずかしい。こんなものを見せられたら全く相手にならない。凄すぎた。

さて、ここまでの情報から判断すると、この方は「まともな人ではないのではないか」と思うだろうが、実はとんでもなくまともなのだ。

なにしろ本業のスポーツ教育関係の功績で、天皇陛下から勲章をもらっているほどのお方なのだ。

まとももまとも、日本の体育教育の草分けともいえる凄いお方なのだ。

大友さんが持参した、ハンドソウラケットが出てくるマンガ『少年ラケット』を見せると、川又さんは「ほうっ?」と驚きの声を上げて感激された。ご自分の子供ともいえるラケットがマンガにまでなっていることが信じられない様子だった。

大友さんは、ハンドソウラケットをデザインしたユニフォームまで作っており、これにも川又さんは喜ばれ、来ていただいて記念撮影となった。

ハンドソウのレジェンドにサインをもらって感激の大友さん。

詳しいことは、今春発売予定の別冊卓球王国『卓球グッズ2018』に書く予定なのでお楽しみに。本当に感銘深く素晴らしい取材だった。