早田ひなの人気が凄い。
特に、卓球をあまり知らない一般の方からの評判が良く、立て続けに3回ぐらいお褒めをいただいた(卓球選手が褒められると自分のことのように嬉しいのでこういう表現になる)。
行きつけの居酒屋のマスターなど、とうに60を過ぎているにもかかわらず女子高生に対して「彼女はいいねえ、女優でも十分やっていける」などと何の眼力があってか断言していたほどだ。
早田と言えば、同学年の伊藤美誠と平野美宇と比べられることが多いが、早田にはこの二人と大きく違う点がある。両親が卓球経験者ではないことだ。伊藤、平野は小さい頃から特に母親から熱心に卓球を教えられて強くなったが、早田はそういう環境ではなかった。
ある方にこのようなことを言うと「卓球エリートばかりが活躍していてはつまらない、早田のような異色の選手にも活躍してほしい」と言われた。
実際には早田も両親こそ卓球人ではないが、4歳から名門石田卓球に通っているのだから、似たようなものではある。
しかし、この意見には考えさせられた。仮に早田が伊藤や平野と違い、小学5年生から卓球を始めて今の実力になったとしよう。あり得ないことだが仮にの話だ。
すると、早田は明らかに少ない練習量でトップレベルになったということになり、とんでもない天才だということになる。
逆に、伊藤、平野こそ、天才どころか努力の人であって、本来、日本人はそういう人こそ好ましいと思うはずなのだ。
そういう文化的下地があるにもかかわらず、うっかりすると後者の方が、雑草魂というか逆境を努力で跳ね返した人のような印象を持ってしまうことが、我ながら不思議だ。
その錯覚の原因を考えると、幼少時から卓球漬けという環境が、財産や家柄、能力や形態の遺伝といった「生まれながらのアドバンテージ」と重なってしまうためだと思われる。
実際には、スポーツは生まれながらのエリートはあり得ず(素質があっても最初からトップレベルではない)、誰でも必ずゼロからのスタートなので、幼少からやっている者こそ努力の人なのだ。
酔った頭でそんなどうでもよいことをぐるぐると考えさせられた(勝手に)ほどの早田の人気ぶりである。