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恋愛至上主義の犠牲者

40代で未婚の女性の知人がいる。本人は結婚したがっているのだが、なかなかチャンスがなく、この歳まで来てしまったという。

美人であり性格も特に異常なわけでもない。お金も十分にある。本人が結婚する気がないならともかく、結婚したいのなら、見合いでも結婚相談所でも行けばよさそうなものだが、頑としてそのアドバイスには従わない。

見合いをしてもロクなのがいないし、結婚相談所に来るような男は嫌だというのだ。それがいかに間違った偏見であるかを言葉を尽くして説明しても理解しない。

彼女は恋愛至上主義の犠牲者である。日本で恋愛結婚が見合い結婚を上回ったのは1960年代のことだ。ほんの50年前までは誰もが当たり前のように見合い結婚をしていて、それで何も問題がなかったのだ。彼女はたまたま、恋愛が何よりも価値があるという妄想がはびこる現代に生まれたばかりに、根拠のない偏見にとらわれて結婚の機会を逃し続けているのだ。

見合いや結婚相談所に偏見をもち、自然な出会いで相手を見つけなくてはならないという考えは、たとえていえば、スーパーで売られている果物には目もくれず、野山を歩いて偶然に見つけた果物だけにこだわるのと同じ滑稽さがある。

恋愛至上主義という現代特有の妄想にとらわれてしまった彼女には、出会いの形など何の意味もなく、どこで見つけようが気に入れば同じことであることがどうしても理解できない。

おそらくこのままこの妄想に縛られていくのだろう。果たして運よく野生の果物を偶然見つける日は来るだろうか。

昆虫採集セットの欺瞞

子供の頃、昆虫採集セットを買ったことがある人は多いだろうと思う。中でも特に印象に残っているのが、虫を殺すための赤い液と保存するための青い液があって、それを注射器で注射することだろう。この2種類の役割の違う液を注射するというところがなんとなく専門家っぽくて楽しい作業だった。

ところが、これがとんでもない策略だったのだ。というのも、知る人ぞ知る昆虫採集道具の老舗、『志賀昆虫普及社』の息子が会社に入ってきたのだ。養老猛など、昆虫好きなら誰でも知っている超有名店らしい。その後輩によると、あの昆虫セットの赤い液と青い液は、専門家らしいどころか、どちらも無意味な色水なのだという。そもそも昆虫だろうがなんだろうが、体液の何倍もの液体を注射されれば死ぬに決まっているし、昆虫は放っておいても腐りはしないという。あれは、私のように昆虫に注射して悦に入っている子供をその気にさせるための、文字通りの「子供だまし」の商品なのだという。

本当の昆虫採集家は注射など使いもせず、昆虫を傷めないように紙で包むなどする、一般人の知らない特別な取り扱いをするという。その後輩は小さいときから家業のために昆虫採集を手伝わされていて、いろいろな昆虫の飛び方や習性を心得ていて、かなりのノウハウがあるらしいが、彼にとってそれは趣味ではなくてあくまで「仕事」に他ならなかったという。

何事も一般人が思っていることと専門家の世界は違うものだなあと思ったものだった。卓球もそうなんだろうけど。

送別会での出来事

またひとり、日本に帰ることになったので、送別会を行った。ドーサンは連日40℃を越える暑さなので、プールは夜でも生ぬるい。

例によって例の如く、一次会が終わると男性たちのプールへの落とし合いが始まった。全員、そのつもりで着替えを用意してきているので、どうってこともないのだが、一応、盛り上がった。

一人、とても体毛の濃い人がいて、あまりに見事なので撮影させてもらった。じっと見ていると、彼の腹が狼男かなんかの顔に見えてくるから不思議だ。今でこそ慣れたというが、高校くらいのときにはこれが恥ずかしくて、懸命に抜いたりしていたそうだ。毛は胸からお尻までつながっているらしいが、不思議なことに背中はツルツルだった。

元の同僚にも、首と胸の間だけものすごく毛の濃い人がいた。シャツの胸元から、長いトウモロコシの毛のような豊富な毛がふさふさと出ていたのだ。それより下はいったいどんなことになっているのだろうと想像すると、なんと濃いのはそこだけで、服で隠れている部分はツルツルなのだ。とんだ見掛け倒しである。

日本人だと、全身の毛の合計の上限は限られていて、全身の毛が濃いということはあまりないのだろうか。

「〃」記号

アメリカでは日本人が可否の意味で使う、○×あるいはその中間の△といった記号は通じない。ヘタに書くと「なんだそのサークルとエックスとトライアングルは?」などと言われることになる。もちろん、一度説明すれば納得してくれるのでなんら問題はない。

さらに、日本人がよく「同上」の意味で使う「〃」という記号があるが、なんとこれは意外なことに英語圏共通だったのだ。会社の書類でときどきこの記号を見かけていて「日本の会社だからマネしてくれてるんだろう」と思ってたら、ちゃんと辞書にも載ってた。

英語では「同上」をdittoと書くのだが、辞書でdittoを引くと、その用例の中にditto markとして「〃」がちゃんと載っているのだ。

これ、ちょっと意外ではないだろうか。いや、なんとなく。

気の回しすぎ

もうひとつ気の回しすぎで迷惑をかける人の話。

飲み屋で店員が飲み物の注文を取っている場面。
ある人が「ビールお願いします」と言ったとする。すると、次の人が「ビール二つ」と言ったりするのだ(しかも二本指まで立てたりして)。前の人と合わせて二つだよ、と店員の変わりに足し算をしてやったつもりで得意満面だ(先入観)。

これがどのように迷惑なのかは言うまでもない。

気の利かせすぎ

スペース挿入で他にも不愉快なことを思い出した。

映画の字幕などを見ていると、やたらと傍点を打った文字が出てくるのだ。強調したい言葉でもなんでもないのに、傍点が打たれていて、気になって仕方がない。書いた人の考えを想像するに、あまり一般的ではない話し言葉であるために、文字の区切りを間違える人がいると思って気を利かしてやっているのではないかと思う。それ以外に理由は思い浮かばない。

しかし、下の実例を見てほしい。「きっとふくれる」「ミスらなかった」「トビ心地」こんなもの、何も傍点を振らなくても支障なく読めるではないか。どうしても心配なら「きっと、ふくれる」「きっと膨れる」「飛び心地」とでも書けばいいだけだ。こんなどうでもいい言葉にいちいち傍点をつけられて視線を集中させられるのだからたまらない。読みやすいどころか、はっきりと読みにくいのだ。傍点撲滅運動でもやりたいくらいだ。

そういうわけで、私は自分の雑誌の原稿に傍点を振るのだけは絶対にやらないよう、担当の編集者に伝えてある。

もうひとつ嫌なのが、なぜか片仮名を必ず半角で書く人だ。「今回のガイダンスの問題点は参加者のコミュニケーション不足にあります」という具合だ。文中にいきなり半角のところがあるので読んでいてひっかかるし、濁点のところで文字間隔が変わるのでこれもひっかかってしまう。文字数に制限があって、やむなく半角にして情報を入れようという場合はやむをえないが、日常的にこれをやっている人がいるのだ。

これらの書き方に私が文句をつけるのは、書いている人たちは気を利かしているつもりだからだ。面倒だとか、私利私欲のためだとか、気が利かないとかの理由でやることなら、私は大概のことには文句はない。人間はそういうものだし、お互い様だから他人に多くのことは要求はしないのだ。

ところが、半角スペースを入れたり傍点を振ったり半角片仮名を書く人たちはちがう。気を利かしたつもりで、わざわざ労力を使って読みにくく書いているのだ。親切のつもりで何メートルも後ろを歩いている人のためにドアを開けたまま待っいて、そのために後から来る人を急がせて走らせたりしてしまう迷惑な人と同じなのだ。

分かち書き

学生時代、一足先に就職して外国に赴任した友達から手紙が来たことがあった。それは、異様な文体だった。

「よう 条太 元気か? 俺 は 元気だ。」

というように、単語の間が奇妙に空いた文章だったのだ。そいつは文章などは苦手な男だったから、英語を使う生活に慣れてしまって、日本語の書き方を忘れてしまったのだろう(このような書き方を「分かち書き」というhttp://ja.wikipedia.org/wiki/わかち書き)。いくら理系だったとはいえ、国語が苦手にもほどがあると笑ったものだった。

ところが電子メールが普及すると、外国暮らしをしたわけでもないのに、単語の間を空けて書いてくる人がいることに気がついた。本人は、読みやすいように気を利かせているんだと思うが、まるで新聞の文字を切り抜いて作った脅迫文のようで読みにくいことこの上ない。自分では読みやすいのだろうか。

26個だけのアルファベットで書く英語と違って、日本語は、平仮名、漢字、片仮名、句読点で十分読みやすく書くことができるように発達した文字なのだから、「俺 は 元気だ」などと書かなくても、「俺は元気だ」と書けばちゃんと漢字で書いた部分が平仮名から浮き立って意味の区切りがわかるのだ(もちろん、看板や見出しなどは別だ)。

職場の同僚に極端な分かち書きでメールを出してくる女性がいた。前々から腹に据えかねていたので、ついにあるとき我慢しきれずに「読みにくいから普通に書いてください」とお願いをした。するとその女性は、「そんなふうに書いた覚えはない」と言う。私のパソコンの画面を見せても「原因が分からない。自動でそう変換されるようになってるんじゃないの」などと言う。そんな頭の良いパソコンがあるわけがない。

納得できない私は、その女性の机に行き「じゃ、私が見てるから、いつものように文章を打ってみてください」と言った。すぐに打ち始めたその人、単語を打った後に間髪入れずにスペースキーを叩き、その瞬間、「あっ」と声を上げた。無意識だったのだ。

中 には、わざわざ 半角 の スペース を 入れる 人 も いる(この文のように)。手間をかけて読みにくくしているわけだ。それが読みやすいなら、世の中の本はすべてそのように印刷されているはずだが、そうではない。書くときに生じる、錯覚による違和感が、無駄なスペース挿入作業をさせているのだ。

ただ普通に書けば、どれだけ書きやすく読みやすいことか。

虫眼鏡

子供の頃に資金や知能が足りなくて思う存分できなかったことを大人になって本格的にできるようになったことが多く、楽しいなあと思う。

子供の頃によく小さいおもちゃの歪んだプラスチック製の虫眼鏡で日光を集めて何かを焦がしたりしたものだが、それほどの威力はなかった。今ではもっと大きく精度のよいガラスの虫眼鏡を持っているので、それでアラバマの強烈な日光を集めて照射するとすごいことになる。黒っぽい紙など、焦点を合わせるのも待ちきれずに炎を出して燃え始めるのだ。これは楽しい。

それで、家の周りに干からびて死んでいる昆虫を焼いてみようと思い立ち、子供たちに「虫眼鏡で虫を焼きたい人集まれ~」と声をかけた。子供たちは騒然として駆け寄ってきたが、妻が大爆発した。「死んだ虫をやるんだからいいだろ。なんでダメなんだ?」と言いかけると「この話これ以上する気ないから」と門前払いで、一同、シュンとなった。

後日、ひとりでこっそり死んだ蜂を燃やしてみたことは言っていない。