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『ストロング・ラーメン』の末路

ドーサン市内にある日本食レストランKYOTOに久しぶりに行ってきた。ドーサンでは珍しくラーメンを出すところだ。インスタントラーメンではあるが、私はもともとインスタントラーメンは大好きなので、全然問題ない。

ただ問題は、この店では汁に入れる湯の量が多いために、極端に薄味で出されることだ。インスタントラーメンであることは確認済みなので、店員にお湯の量を少なくして濃い味にしてくれと頼んで「ストロング・ラーメン」といえば通じるまでになっていたのだった。ストロングとは濃いという意味だ。

ところが、久しぶりに行ったら以前の店員が見当たらない。当然ながら「ストロング・ラーメン」と言っても通じない。それで、以前やったように、お湯を少なくして味を濃くしてくれと説明したのだが、なかなかわかってもらえない。「辛くして欲しいのか」と聞かれたので、不安ながらも「そうだ」と答えた。たしかにこのインスタントラーメンは韓国製で辛いため、スープを濃くすれば当然辛味も増すから、辛くしてくれというのは間違っているとも言えないのだ。

そしてやってきたのがご覧のとおりだ。

とほほ・・七味唐辛子とペースト状の辛味が付いている。汁を飲んでみると見事に薄い。なんとも悔しい夕食だった。

イエス様

先日、道路で奇妙な人を見かけた。
なにやら十字架のような木を運んで信号待ちをしていた車の間をぬって歩いて道路を渡っていたのだ。

一瞬、工事か大工さんのような人で、木を運んでいるのかと思ったが、木の下に車がついていて、もともと運ぶ目的になっていることと、十字になった木材を運ぶ必要があまり考えられないことから、おそらくこれは、イエス様への忠誠を表明しながら町を旅している人なのではないかと思われる。

しかしそれにしては荷物が少ないのが不自然である。マイクに写真を見せて聞くと、やはりイエス様への信仰を表明している人だとのことだ。日本でいえば、托鉢をして歩く僧侶のようなものだろうか。

少年犯罪

『戦前の少年犯罪』という本を買った。これは画期的な本である。著者は、少年犯罪の凶悪化がいわれている昨今の風潮が本当なのかを確かめるため、昔の少年犯罪がどのようなものだったかを新聞を丹念に調べ上げて一冊の本にまとめた。

その結果、昔の方が凶悪度も数も今とは比較にならないほどひどいものだったことが明らかになったのだ。誰も彼もが「最近の犯罪は異常だ」と言うが、そのような異常者は昔の方が今よりもずっと多かったし、子供は切れやすかったのだ。この事実を見誤ってその原因を探っても当然、正しい解決策などできるわけがない。

この本に対して下のような書評があった。

<なるほど、ここに並べられた目をおおいたくなる事件を眺めていると、“昔の子どもはよかった”“現代の子どもはモンスター”的な言い方には何の根拠もないことがよくわかる。しかし、「ジャーナリストも学者も官僚なども物事を調べるという基本的能力が欠けていて、妄想を垂れ流し続けています」という著者の憤りはよくわかるのだが、戦前の子どもは「簡単に人を殺し」、現代の子どもは「ほんとにおとなしくなった」とまで言うのもやや断定的すぎるのではないか。データは少年犯罪の増加を示していないのに人々の不安は高まる一方、というところにこそ子どもをめぐる最近の問題の本質があるのでは、とこの労作の著者に尋ねてみたい。>

「データは少年犯罪の増加を示していないのに人々の不安が高まる一方なのはなぜか」って、この人は本当にそんなこともわからないで書評を書いているのだろうか。そんなもん、視聴率がとれるからテレビやマスコミが多く取り上げるからに決まっているではないか。こんな愚問を書く前に書くべきことがあるだろう。それは、間違った事実認識に基づいて現代人の心の闇だのなんだのと少年犯罪の原因を推定してきたのだから、自分たちの書いてきたことが間違っていたことを認めることである。それを書かずして何を負け惜しみを書いているのだろうか。これだけでこの人の物事に対する姿勢が良く分かる。

昔の方が悪かったのだから、現代の少年犯罪の原因には、ゲームも核家族化も受験戦争もネットもファーストフードも何も関係がなく、むしろこれらは少年犯罪を抑制していて、それを推進した方がよい可能性すら考えなくてはならないのだ。

一方、新右翼の鈴木邦男はそのブログで次のように書いている。

<本を読んで驚いた。今よりも、もっともっと少年犯罪は多いし、道徳崩壊も多い。それなのに、「昔はよかった」「今は人々の心が荒んでいる。凶悪犯罪が多くなった」と言っている。無責任に。私だって同罪だ。「妄想の教育論」「でたらめな日本論」と言われても仕方はない。>
前出の書評との差は歴然である。こういうことを「格が違う」というのだ。

I am Wakige

三男が学校でアメリカ人に「日本語で暑いって何ていうの」と聞かれ「わきげ」と教えてやったそうだ。それ以来、その友人は暑いときには「I am wakige」と言うそうだ。

犬でも飛びつくって

血液型性格判断の話だ。血液型と性格に関係がないことはこれまでにも何回か書いた。どれほど関係があるように思えたとしても、これは科学的には認められていない典型的なエセ科学なのだ。当たっていると思えるのは占いと同じで、「誰にでも当てはまることを言う」「当たっている部分だけを意識する」というだけのことだ。

血液型性格判断について医者をやっている知人が言ったことで印象に残っていることがある。「血液型と性格が関係あるかもしれないなんてことは誰でもすぐに思いつくことでしょ。そんなもん犬でも飛びつくって。でも調べても何も関係がないから関係がないって言ってるんだよ。」ということだ。調べてもそんな事実はないという簡単明快なことなのに、未だに血液型性格判断の本には「科学者の間でタブーになっていて認めようとしない」などと寝言を書く。

現代日本人は現代医療の世話になってそれなりに医者を信頼しているくせに、こと血液型と性格についてはなぜだか専門家の言うことよりも、自分の思い込みやら与太話のような雑誌記事やテレビを信じるのだから、その方が不思議である。雑誌記事にしてもテレビにしても、私のようなライターが毎回頭をひねりながら何の根拠もなしにデタラメを書いているのに。

いつだったか、知人の女性に「私、A型なんだけどいつもB型に間違われるんです」と言われたときはあまりにも可笑しくて大笑いしてしまった。医者に血液型を間違われたら死ぬぞ!などと思ったら可笑しくてたまらなかった。その女性は自分の話がウケたと思って喜んでいて、それもまた可笑しさに輪をかけたのだった。

時間が足りない

読んだり見たりしなくてはならない本やDVDがたまってきた。買ったり借りたりもらったりしているうちにこんなになってしまった。

とりあえずこれらを消化した後で原稿を書こうと思っているが、もちろんこれは逃避である。

それなのに明日はペンサコーラ卓球クラブの面々がわざわざドーサンに練習に来るので、午前中は卓球である。

まったく、仕事をしている場合ではないなあと思う。

もうひとりの靴凝り性

凝り性というわけではないのだろうが、ジュンの他にもう一人、こだわりの靴を履いているハッシーという人がいる。ハッシーといってもアメリカ人やイラン人ではない。そういうあだ名の日本人の同僚である(苗字の見当がついたことと思う)。

このハッシーの靴、ポイントは中敷で、型をとって足に完全にフィットしているのだそうだ。そのため、靴本体は2万円ぐらいだが、中敷だけで1万5千円ほどだという。これがとても素晴らしく、靴を履いている気がしないし、靴底も片減りがしなくなり、姿勢もよくなり、それどころか革靴なのに「走れちゃう」んだそうだ(本当だろうか)。それほど素晴らしい靴ならぜひとも私も作ってみたい。

話を聞いていて、てっきり老舗の靴メーカー製だと思っていたら意外にもスポーツ用品のミズノ製だという。どうりで走れるわけだ。

ちなみにハッシーは人並みはずれて足が小さいため、ジュンと比べるとジュンの靴がバケモノのようである。先っぽが空洞なのだから当然だ。

ハッシーは、今日からホノルルマラソンに参加するためにハワイに旅発ったが、さすがにちゃんとランニング用シューズを用意していったようである。

人生の意味

先日ブログに書いた、死の恐怖に関連して、人生の意味やらなぜ自分はここにいるのかといったことを相次いで話したりメールをもらったりした。

こういうことは、もの心ついたころから誰でも一度は考えたことがあると思うし、哲学的にも永遠のテーマだろう。

しかし実は私はその答えはとっくにわかっている。誰でもわかっていると思う。わかっているけど認めたくないだけなのだ。

自分や人間がここにいることに意味や目的などあるわけがない。

地球ができてから現在までの46億年を1年にギュッと縮めたとすると、最初の生命が誕生したのが2月17日頃だ。恐竜が登場したのが12月12日頃で、12月26日頃には絶滅した。現在の人間が登場したのは12月31日の午後11時31分頃だ(これが20万年前)。

意味とか目的などというのは、人間の考えた概念である。人間がいなかった気の遠くなるような長い時間のことを想像してみる。地球にどんな洪水や噴火が起こっても、生物が登場して繁栄と絶滅を繰り返したとしても、それを「楽しい」とか「悲しい」とか「思う」ものが何一つ存在しない世界だ。せいぜい、痛いとか暑いとか旨いという感覚がある程度だろう。そういう、明らかに意味も目的もない世界が46億年も続いてつい最近登場した人間が意味だの目的だのと考えているわけだ。人間は意味と目的だらけの生活を送っているから、あたかもこの世にはすべて意味や目的が最初からあったような気になるのだ。

しかし、人間も生物の一種であり、犬やねずみや細菌と同じく、遺伝子の突然変異と自然淘汰で偶然に登場しただけのものだ。人間が登場して生きていることも、磁石のプラスとマイナスが引き合うことや物体に力を加えると加速することと同じように、もとをたどれば自然現象の一つにすぎない。

そういうものに原理はあっても、意味などない。それは人間の脳の中にある妄想のようなものだ。

「人間の存在には意味も目的もない」ということをどうしても認められない人は、神様という、いかにも人間が考えたような人間に似たものをこの世界の根本原因とむりやり想定して意味を見つけるのである。

その気持ちはよくわかるが、明らかに人生に意味などない。目的もない。人間が正月の午前0時30分(つまり20万年後)に絶滅してしまっても、3月頃に太陽がどんどん大きくなって地球を焼き尽くすまでは、また意味など考えるものがひとつもない荒涼とした世界が延々と続くのだ。歩いているときや車を運転しているときなど、つい目に映る物体を見て、まだ文明がないころ、このコンクリートの材料たちはどこの地中や山に埋まっていたものだろうとか、吸っている酸素原子は原始地球誕生以来、どういう経路をたどって今ここまで来たのだろうかなどと考えてしまう。

人生に意味はないけど、楽しいことを味わう特権を得たと思って楽しもうとは思っている。どっちにしろ我々はあっという間にいなくならなくてはならないのだ。