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ヤフオクの寄せ書きラケット

知人から、ヤフーオクションに貴重なラケットが出品されていると情報があった。
1956年世界選手権東京大会の日本代表選手たちの寄せ書きラケットだ。
http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/129953115

それぞれのサインの主を当時の卓球雑誌をあたって調べてみた。

まず簡単に分かるのは荻村伊智朗、富田芳雄、角田啓輔、大川とみ、渡辺妃生子だろう。

ちょっと難しいのが川井一男、設楽義子だ。何が難しいって、読むのがではない。失礼ながら、あまり有名ではないので、あまり知っている人がいないという意味だ。

そういう意味で上級編は次の3名だろう。

坂井昭一、金田一丈夫、田坂常雄

後半2名は選手ではなくて、日本選手団長と監督なのだからさすがの私も知らなかった。

最後までわからなかったのが、右端の縦に並んでいる2名と左下のやつだ。右のは田中良子と読めなくもないが確信がないし、左のは長谷川と書いてあるように見えるが、長谷川喜代太郎なら総監督なのだが、どうも喜代太郎には読めない。

なんといってもこの寄せ書きの最大の欠陥は、田中利明と江口富士枝がないことだろう。こんな超ド級の選手のサインがないなんて。

ところで、設楽(したら)義子っていうのは、山形出身でもあることだし、私の隣の大学にいた設楽選手のお母さんか何かなのだろうか。卓球が得意な設楽という名字の人がそういるとも思えないし、顔写真も似ている。

それにしれも、字を見るだけで荻村伊智朗はなんかカッコいい。ただの字なのに、もう、光って見えてしょうがない。松下浩二が、自分の試合のビデオを見ていて、不意に荻村伊智朗が登場しただけで緊張するという。なんともすごい人がいたものだ。生きているうちに会いたかった(下手な記事を書いて抹殺されていたかもしれないが)。

社内卓球の奇妙なルール

昼休みの卓球は今も毎日続いている。

私はときどきそれを見に行くのだが、先日からちょっと気になる光景を見ていた。ときどき、台上で2バウンドするサービスを見逃してノータッチする場面があるのだ。いくら動きが悪いアメリカ人とはいえ、それほど短くもないサービスにノータッチとはおかしいし、第一、わざと動きを止めている様子がある。

先日、ちょうどそれがゲームの最後の場面であったため、ノータッチをしたレシーバー側に点が入ったことが分かった。驚いて、「今、どうしてこっちに点が入ったの?」と聞くと、「だってダブルスでは2バウンドするサービスはミスだろ」と言うではないか。どうも、”卓球通”であるデリルがそういうルールをみんなに教えたものらしい。ミスどころか普通の卓球の試合では、長いサービスはすぐに相手に攻撃されるので、90%はショートサービスを使うのだ。

会社のアメリカ人たちはずっとデリルの誤ったルールを信じていたのだった。私が卓球のラリー回数を多くするために考えていたルール改正案と奇しくも同じであった。

1986年 ロックンロールオリンピック in 菅生

ロックが好きなのにミュージシャンやファンの素行の悪さが嫌いである矛盾の続きだ。

それを初めて強く感じたのは1986年に宮城県菅生であったロックンロールオリンピックという野外コンサートだった。ルースターズとスターリンを目当てに行ったのだが、ファンたちが中高校生ばかりで、すでに22歳だった私は場違いなところに来てしまったような気がした。レコードは聴いていたが、コンサートにはほとんど行ったことがなかったのだ。

ロックンロールオリンピックは、朝から晩まで何組かのロックグループが順番に出てくるお得なコンサートで、当時、毎年夏にやっていたイベントだった。

客席は椅子もないただの芝生なので、人気グループが出てくると客たちは一斉に前列に押しかける。そのたびにDJが、前の人が怪我をするので前に押しかけないように注意をしていた。何度注意をしてもほとんど効果がないようだったが、あるときついにこのDJの我慢が限界に達した。突然、声色が変わり「お前ら、止めろって行ったら止めろ!」と怒鳴ったのだ。そこまではいい。次にこのDJは「お前ら、女の子のひとりも守れねえのかよ」と言ったのだ。なんだそれは。いったい、何がこのDJにこんな不良同士の仁義のような奇妙な台詞を言わせたのだろう。このDJ本人が、大人にもかかわらず本気でこのような価値観を持っているのか、それともロックファンの中高生ならこう言われればその気になって反省すると思ったのだろうか。とにかくこの不快感は忘れられない。

さらにこのDJ、怒りが収まらないと見えて、ファンたちに説教を始めた。はっきり覚えているのは次のような台詞だ。「どうせお前ら、こうやってロックだなんだと大騒ぎしてるけど、あと2、3年もすれば綺麗にスーツ着て大人しく就職活動して、電車に揺られてるんだろ?」と批判したのだ。わけが分からない。一緒に行った、中学教師を目指して就職浪人をしていた友人が「間接的にオレが批判されてんのか?就職のどこが悪いんだ」と言った。

このDJの主張を要約すると、どうもロックファンは、コンサートでは会場の秩序ではなくて女の子を守るために前に押しかけないようにして、なおかつ就職はしないものらしい。

こいつ、たまたま自分がDJという職を得ているからそんなことを言っていられるんであって、DJの才能も音楽の才能もない大多数の凡人にそんなことを勧めてどうしようというのだろう。この世界では物事がわかっていないこんな人間が大きな顔をして、あろうことか中高生に説教までしているのだ。

ロックという表現は大好きだが、その周りにたむろしているこういう人たちとは絶対に関わりたくないと強く思ったものだった。

ジュンくんの逆襲

ガンダムが面白くなかったことをブログに書いたら、さっそくジュンくんが説明にきた。

家で奥さんと話したところ、「いきなりアニメ50話は確かにきついので、もっと解りやすい劇場版映画を見せた方が良い」という結論になったそうだ。それで、さっそくそのDVDを持ってくるという。しかしその映画は3作あるので、合計6時間は見てもらいたいそうだ。絶句・・。

さらにジュンくん「ガンダムのプラモを作ると好きになるかもしれません」と、いかにガンダムのプラモデルが精巧にできているかを手振りをまじえて力説してくれた。いきなりプラモ。順番が逆のような気がするのだが。

ジュンくんは、ガンダムのプラモデルを、色違い、表面仕上げ違いで何種類ももっていて、そのすべてを組み立て用と保存用に2セットづつ持っているという。「実家においてきた分が多いので全部見せられないのが残念です」と語る。ま、残念・・かな。大学のときのアニメファンの女性クラスメートが、アニメ雑誌を保存用と切り抜き用と通常使用用に3冊づつ買っていたのを思い出した。

ガンダムファンはすごい。ちなみに、ここの赴任者の中にもう一人ガンダムファンがいて、すでに会合をもっているようだ。

嗜好の矛盾

ときどき、自分の好きなものに矛盾があることに居心地の悪さを感じる。

その最たるものがロックだ。私はビートルズを初めとするロック、中でもパンクロックが大好きなのだが、ロックのファッションとかいわゆる不良の人たちは全否定である。だから、日本のロックミュージシャンが粗暴な話し方をするのを聞くと、なんとも複雑な思いにとらわれる。そういうものはもともとロックが持っている要素だとはわかっているのだが、受け入れられないのだ。その自分の矛盾がとても嫌なのである。

他にもある。自動車の模型は好きなのに、本物の自動車には興味がない。野球マンガは好きだが、野球には興味がない。歴史には興味があるのに現実の政治には興味がない。ワルドナーを神とあがめているのに自分はシェーク両面表ソフトだ(これはいいか)。緑茶は問題ないのに抹茶の入った菓子は嫌いだ(これもいいか)。

こんなことを気にかけているのは私だけだろうか。

ガンダムオタク

2ヶ月前に赴任してきたジュンくんが、極端なガンダムオタクだ。なにしろロボットアニメはガンダム以外は見ないというのだから、アニメオタクですらない、ガンダムオタクなのだ。

私も小学校の頃まではロボットアニメを見ていたが、卓球を始めてからは部活の時間との関係もあって、自然と見なくなってしまった。ガンダムといえば覚えているのは、高校のときに隣の席の奴が、「普通のアニメと違うんだ」と言って絶賛していたことだ。

それで、いつかは見なければならないと思っていた。ジュンくんにそれを言うと、当然のようにDVDセットを持っているという。それで借りることになった。

ジュンくんは何も言わなかったが、家に帰って包みを開けて愕然とした。ボックスの表面の透明フィルムが新品のままなのだ。「破るなよ」というジュンくんの無言の圧力を感じる。「うわ」と思いながらカリカリと爪の先で止めてある粘着テープを剥がしてフィルムを開けてそのままの形でボックスを抜き、高いところに置いて「さわることも捨てることも禁止」であることを家人に伝えてからDVDを見始めた。

しかし残念ながらどうにも入り込めない。翌日、ジュンくんに「面白くない」と正直に言うと、まだ2、3話では面白くないはずだという。何話見ればいいのか聞くと「半分くらいは見ないとダメです」という。半分ってことは25話、ざっと10時間かよ!なんだか絶望的な気分になってきた。

このまま見るべきだろうか、止めるべきだろうか。

ゴダール

黒ぶちメガネにしたら、ハゲ具合がなんとなく映画監督のジャン・リュック・ゴダールっぽく見えるので嬉しい。さすがゴダールだ。

頭頂がゴダールの方が乱雑で、私の方がすっきりしている。これは勝っているのだろうか、負けているのだろうか・・。

プールとちらし寿司

先日、アトランタに泊りがけで行ってきた。
子供たちの楽しみはホテルの温水プールで、妻の楽しみはアトランタ市内のハイウエイ運転と日本食だ。私の楽しみは車の助手席(運転しないので)やホテルで本を読むことだ(だから自分の家が一番いいのだが)。

プールでの子供たちがうるさいと思っていると、おかしな遊びをしていた。ひとりが潜水していて、息が苦しくなって水面に顔を出したところを両側で待ち構えているふたりが柔らかい棒でバンバン叩くのだ。これを交替でやっていた。これは一体どういう遊びなのだろうか。

一方、妻の楽しみであった日本食だが、「ちらし寿司」がごらんの通りだ。たしかに寿司が散らばってはいたが・・。

卓球ブームの状況

会社での卓球ブームがいよいよ本格化している。

昼休みには毎日5人がやってきてダブルスをやっているありさまだ。卓球のために昼食も近くの休憩室で簡単に済ませて卓球をしているようだ。

ラケットは、私が4本用意したものだが、スーパーで4本で8ドルほどの超極悪品だ。一応ラバーが貼ってあるように見えるがほとんどプラスチックで、とても硬くもちろん回転はまったくかからない。木で打っているのと同じだ。まごうことなき腐れラケットだ(いや、腐ることもできない材料だ)。

私は彼らの卓球を毎日楽しく眺めているのだが(それだけで楽しい)、この人たち、どんどん上達してきている。それもまた楽しい。

卓球台を持って来いと私に言ったデリルが一番上手なのだが、この男、私といい勝負だと他人に吹聴しているらしく、ゲイリーが私に「本当なのか」と確かめにきた。私が真実を伝えると、ゲイリーは「それならデリルを0点でコテンパンにやっつけてくれ」と言う。私はそんなことはしたくないと言うと「あいつがいい気になっているのが許せない」と言う。「これがアメリカ式なんだ。本気出してやっつけてくれ」と再三言われている。普段からよっぽど気に入らないらしい。

自分のラケットを使えば0点というのも不可能ではないが、さすがに確実なわけでもなく、挑戦して失敗するのもちょっと嫌だ。無難なところで適当にやっていこうと思う。

村上春樹

最近、村上春樹の小説を読んでいる。『海辺のカフカ』『パン屋再襲撃』と読んでいて、以前宮根さんに借りて読んだ『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と合わせて3冊読んだことになる。

私はそもそも小説というものを読まないのだが、村上春樹といえば世界的に認められていてしかも売れているというものすごい作家だから、これなら私にも魅力がわかるのではないかと思って読んでいる。ところが面白くない。面白くないのは趣味の問題だから仕方がないとして、わけが分からないのは困った。ファンの人たちはわけがわかっているのだろうか。

そう思っていろいろ調べてみると、村上春樹本人が実はわけがわからないそうなのだ。「頭の良い人がいろいろ解説をしてくれていますが、私はよくわかりません」と語っているのだ。村上春樹は、日常生活で経験したいろいろなことから、言葉にできないある思いがわきあがり、それを表現するのに小説を使っているという。その思いは言葉にできないので、小説以外の形態で説明することはできないという。

さすが小説家、うまい表現だ。「解る」ということは言葉にできることだから(「味がわかる」などというのとは別の「解る」だ)、そもそも彼の小説には「解る」べきことは何もないのだろう。「解る」のではなくて味わう、感じるべきなのだと思う。

しかし、ここで疑問が生じる。村上春樹が表現したいと思っている「ある思い」が読み手に伝わっているかどうかは、実は確かめようがないのだ。客観的な言葉にできないものは確かめようがないからだ。考えうる実験として、村上春樹に、何の思いもなく空っぽな小説を、いつもの巧みな比喩を駆使した文体で書いてもらい、それをファンが評価するかどうかを試すのだ。いつもと同じように絶賛されれば、ファンは彼の表現の妙や文体を好いていたのであって、彼の思いを感じていたわけではないことになる。逆の結果なら、ちゃんと彼の思いは伝わっていたことになろう。しかし現実にはこの実験は不可能だろう。なぜなら、村上春樹が小説を書く動機は、その思いを表現したいことだから、表現したいことがないといかなる小説をも書けないだろうからだ。

うーん、深い。