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ケネディ宇宙センター

先日、車で6時間ほどかけて、フロリダ州のケネディ宇宙センターを見物してきた。偶然にも若田さんを打ち上げたスペースシャトルが帰還した日だったが、それは見なかった。

かなり広い敷地で、バスツアーに入ってあちこちを見て説明を受けたのだが、例によって英語があまりよくわからない。

唯一はっきり分かったのは、ロケットを打ち上げるときの騒音がとても大きいことを説明したところだ。ロックコンサートでもっとも大きな音を出した記録は、1960年代のイギリスのロックバンド「ザ・フー」の129dBでギネスブックに載っているが、ロケットの打ち上げの騒音はその16倍にもなるという。こんなことだけよく分かってもしょうがないんだが。しかしちょっと嬉しい。

広大な敷地内の川にはワニがあちこちにいて、バスガイドの男がそのたびにバスをとめて客に見るように勧めていた。研究者がときどきワニに食われるというようなジョークを盛んに話していたが、客はあまり笑わなかった。このバスガイド、自分のジョークにひとりで大笑いしているのだが、どれもこれもイマイチな様子が客の反応から見て取れる。

せっかくケネディ宇宙センターにアメリカ中から見物に来ているというのに、ワニの話をああもしつこくされたのでは客もたまったものではあるまい。あとで以前行ったことのある人にきくと、そのときもガイドはワニだの鷹の巣だのをさかんに説明していたと言う。たぶんこのガイド、ロケットに興味がないんだと思われる。

不思議なくらい何も思いつかない

小説かドラマの脚本を書いてみようと案を練っているが、不思議なくらい何も思いつかない。練る案もない。いつも本を読んだりドラマや映画を見ては分析したりしているのに、自分で何か考えるとなると全然ダメだ。頭の中はまったくもぬけのカラだ。考え始めるとどうしてもすでにある話になったり、自分の意見を考えてしまう。根も葉もないことを考えるとはこれほどまでに難しいものなのか。それとも、フィクションを作ることのできる人はある特性があって、私のような批評家タイプはそれはできないことになっているのだろうか。

雑誌のコラムではある程度の読者を得ている私が、フィクションは一行も書けないなんてことは納得がいかない。

話を作るためには、登場人物が何かで困らなくてはいけない。困らないところにストーリーはない。病気で困れば医者の話だし、犯罪で困るのが刑事ものだし、片想いで困るのが恋愛ドラマだし、地位で困れば出世ものだし、金で困るのがサラ金ものだ(めったにないが)。

あとは、キャラクター主導なのかストーリー主導なのかがある。特徴的なヤツを主人公にしてその特徴をもとに話を転がすのか、環境を異常にして普通の主人公を転がすのかだ。いずれにしても何一つ思いつかない。これまで、こんなことを考えようとしたこともないので無理もないが、もうしばらく考えてみようと思う。

たぶん、書ける人というのは、こんな分析的なことなどしなくても、子供の頃からどんどん空想して話が湧き出てくるんだろう。私はそれがないので、上のように理詰めで要素を組み合わせて無理やり作るアプローチしかない。それにしても悔しい。

学校から帰ってきた息子が「まだ不思議なくらい何も思いつかないの?」と言う。うるせえよ。

悔しいこと

本を読んでいて、最後の方のページになって、海老せんべいの海老のように丸まって平らになっているしおりの紐を発見したとき。

「私」と「あなた」

さて、妻の呼び方などよりもっと根本的な問題に移ろう。もっとも基本的な人称代名詞、自分自身の呼び方だ。私は普段、自分のことを「俺」と言う。大学時代の一時期、「僕」と言っていたような気もするが定かではない。

会社に入って上司と話すときに困ったのが、自分のことをどう言ったらよいかだ。「俺」では粗野な感じがするし、「僕」ではなんとなく幼いような、あるいは東北人の私からすると気取ったような感じが自分でする(今の50代は意外にも「僕」がポピュラーなようだ)。「私」も、学生時代までは「私」を使うのは女性だけだったので抵抗があったが、結局、無理して使うようにして今では慣れた。文章もこれで書いている。今の若者に流行っているのは「自分」だが、これもなんとなく客観的あるいは体育会系の色を持っている。

英語ではどんなときでも「I」で済むのに、日本語では何の色も感じさせない無機的な一人称が存在しないのだ。日本文化は、常に他社との関係を強く意識する中で成立してきたものだからだろうか。

さて、実はもっとこまるのが二人称、つまり「You」に相当する日本語だ。これも無機的な表現が存在しないのだ。たとえば会社の同僚と話すとしよう。「あなた」と言ったらちょっと失礼な感じがする。かといって「あなた様」ではへりくだりすぎ。もちろん「お前」はもっと失礼だ。「お宅」などと住居を引き合いに出すのも変だ。「君」も失礼、「お手前」は古い。「そちらさん」なんて言ったら気が狂ったかと思われる。「ユー」も同様。

恐るべきことに、ごく普通にYouに相当することを言えないのだ。で、多くの人は目の前の相手に向かって「宮根さんは明日どうするんですか?」などと名前を言うことになる。困るのが相手の名前を知らないときだ。なるべく主語を使わないように話しすしかないが、どうしても必要な場合には「えーと、あの、そ、そちらさんの・・」などと言うしかない。名前を聞く場合にはもちろん「お名前は・・」と主語を省いて話す。

こういう言語は他にもあるのだろうか。「日本語では普通の相手に使えるYouに相当する単語がない」と言ったら、アメリカ人は信じてくれるだろうか。「信じられない。お前ら、いったい二千年も何やってきたんだ?」とでも言われそうだ。

それにしても何故なんだろう。

奥さん

身内の呼び方で気になるのは「奥さん」だ。「奥さん」は「お子さん」と同じく尊敬語だ。自分の子供のことを「うちのお子さんは」と言ったらおかしいのと同じく「うちの奥さん」「うちの旦那さん」と他人に言うのはおかしい。

もっとも、そう言いたくなる気持ちはわかる。他にしっくりくる言葉がないからだ。以下に妻と夫を表す言葉をあげてみる。

妻-夫
家内-主人
奥さん-旦那さん
女房-亭主
嫁-婿
カミさん-ごくつぶし?
かあちゃん-とうちゃん
うちの人-うちのヤツ

私も結婚したばかりのころ、正しくは「妻」だとわかっていても、使い慣れていないしかしこまった感じがしてとても言いにくかった。「女房」や「カミさん」は年寄りっぽいし、共働きなのに「家内」は事実と異なるし、子供もいないうちから「かあちゃん」もおかしい。「うちの」だと、名称をはっきり言えない不快感にとらわれる。

あまりに考えすぎてついには「配偶者」などと口走って奇人扱いされたりした。一度、「嫁」と言ったら「両親と同居してるんですか」と言われた。これは20年前の話だが、今では「嫁」は結構使っている人がいるようで、それほど違和感がないかなと思う。ある時期は一般名詞ではなくて妻の名前を使っていたこともあるが、なんだか知りたくもない人に名前を宣伝しているような気まずさに耐えられず途中で止めた。結局、不本意ながら「うちの」と口ごもっていたような気がする。こんなことでモヤモヤした気持ちになるのが、なんとも不愉快だった。

今は歳もとったしすっかり慣れたので、眉ひとつ動かさずに「妻」と言っている。なお、私の妻を「おまえんとこの妻」と言う知人がひとりだけいるが、わざと失礼を意図してのことに違いない。そういう人なのだ。

用具マニア杉浦くんの学校の先輩だか助手だかに「奥」という名字の人がいて、当然ながらいつもみんなに「奥さん」と言われている。一生に何度それをネタにされるのだろうか。

真面目なのか

学生時代、みんながやることはやらなかったので、結果的に酒は飲まないし、タバコもマージャンも賭け事もしなかったので、アルバイトで卓球をコーチしていたおばさんたちから「真面目なんだから~」と言われて、嬉しいような腹立たしいような気がしたものだ。

まあ、真面目に定義などないのだから、そういうことを真面目だと言うのなら、確かに真面目だったのだろう。そのかわりビートルズに扮装した写真を撮ったりバカ話を録音したりしていたわけだが。

ただ少なくとも、授業を真面目に受けていなかったのは確かだ。今でも思い出すのは1年のときのドイツ語の授業だ。ある物語の本を一文づつ席順に訳させられたのだが、私の文章はたった二つの単語で、文末にクエスチョンマークがついていた。席順を逆算して自分の文章がわかったとき、あわてて辞書を引いたのだが、ひとつの単語が「馬」だとわかった時点で自分の番が来てしまった。しかたがないので私はあてずっぽうに「それは馬ですか?」と答えたのだった。

なんと馬鹿げた訳だろう。いったいどんなストーリーならこんな台詞がある得るというのだろうか。いや、ストーリーだけでなく、馬を目の前にして「それは馬ですか?」と聞く機会が人間にあるだろうか。ない。英語の教科書の「私は少年です」という台詞と同じくらいにない。

友人に「バカ条太、単語二つしかないのにまちがえてやんの。しかも”それは馬ですか”だって。マヌケ」と言われ、自分でも可笑しくて仕方がなかった。正解は「馬はどこ?」だった。この物語で覚えているのはこの台詞だけだ。なにしろこの台詞がわからなかったくらいだから、他の文章を理解していようはずもない。

受け入れがたい習慣

なぜそんなにも指輪を憎んでいるのか自分でもよくわからなかったのでよくよく考えてみた。

結局のところ、何かの世界に入ることを目的に自分を変えるのがとても嫌なのだ。うまく説明できないので、「結婚をしたら指輪をするものだ」に共通する受け入れがたいモノをあげてみる。

・男はプロ野球のファンになる(みんなが野球の話をするので意地でも野球は見ない。しかし野球マンガは読む)
・大きくなったらタバコを吸う(タバコを吸って大人になったような気になることが恥ずかしい)
・大学生になったらマージャンをする(みんながやるので意地でもしない)
・これが本格的だと言って寿司を素手でつかんでネタに醤油をつけて食べる(インド人じゃあるまいしそんな不自然なことはしない。箸を使ってご飯に醤油をどっぷりとつけて食べる。言うまでもなくこれがいちばん美味い)
・運転していて道を譲ってもらったらサンキューの意味でしばし非常灯を点滅させる(非常灯はそのためにあるのではない。そのような言語を勝手に使って悦に入らないでもらいたい)
・飲み屋などで初対面の店主に「これちょうだい」などとタメ口をきく(どこでそんな非礼を身につけたのか)
・両親のことを「おやじ」「おふくろ」と言う。

脈絡がないようだが、わかってくれる人がいるだろうか。私はこういう「比較的みんながやること」が気に入らず、ことごとく拒否してきた。

説明が必要なのは、「おやじ」「おふくろ」だ。「あにき」を加えてもよい。これらの単語は、私の世代にとっては青春ドラマの象徴なのだ。彼らは他人の前でだけでなく、当人に向かってもこのように呼んでいた。「おとうさん」「おかあさん」では幼い感じがして若者ドラマにそぐわないからだ(店員にタメ口をきくのも同じ原理)。家庭内のシーンであっても実際には視聴者に見せているわけで、これはよそ行きの言葉使いなのだ。

現実に父親や母親に向かって「おやじ」「おふくろ」と呼ぶ人は多くはないだろう。いたとしても、小さい頃からではないだろうから、途中からこういう呼び方に移行した時の不自然さを想像するといたたまれない。

当人にはそう呼びかけないけど、他人の前では「おやじ」「おふくろ」と言う人は多い。「父」「母」ならかっこつけも背伸びもない無機質な言葉なのでいいのだが、若い頃は友人たちが「おふくろ」なんて言うの聞くと、なんだかテレビドラマのマネをされているような気がしたものだった。さすがに今は歳もとったので慣れた。

もっともこういう感覚は、地域や世代によってぜんぜん違うだろうから、あくまで私個人の内部の問題である。悪しからず。

指輪の話

先日、『刑事コロンボ』の「指輪の爪あと」を見ていて、そういえば私の婚約指輪はどこにいったのだろうかと思った。どこかにしまっていたはずなのだが、妻に聞くと「知らない」という。指輪などどうでもいいが、せっかく何万円か出して買ったものをなくしたのはなんとも悔しい(といっても2万円くらいのものだが)。

指輪をしなかったのは力を入れて物を持つときに当たると痛いこともあるが、東北の百姓の息子である私が結婚するからといって急に人が変わったように、こともあろうに指輪なんぞというそれまでの美意識になじまないものをつけるというのが嫌だったからだ。だいたい、指輪など単なる指輪屋の策略に過ぎないのであって「結婚指輪は給料の何倍」などという物言いも不愉快きわまりない。こういう何の根拠もない習慣にはぜひとも逆らいたい。

結局買ってしまったのだから策略には乗ってしまったわけだが、つくづく買わなければよかった。

そのあたりのことがわからない人たちからは新婚の頃「独身のふりをしようとして指輪しないんだろ」などと言われ、その救いがたい低俗さに腹を立てたものだ。

妻に聞いてみると私は当時「指輪をしないのは、卓球のボールを持ったときに当たってカチッと音がするのが嫌だから」と言っていたそうだ。ぜんぜん覚えていないが、自分のことながらナルホドと思った。

そういえば、卓球選手は指輪をしている率は少ないのではないだろうか。いつかこれで原稿を一本書いてやろう。

松下浩二インタビュー

卓球王国5月号の松下浩二のインタビューは面白かった。特に荻村伊智朗についてのコメントが興味深かった。「僕は荻村さんに褒められたことが一度もないことを忘れていません」という。今でも荻村が映っている映像を見るだけで緊張するという。

確かに荻村の著書『私のスタインディグオベーション』(ニッタクニュース刊)では松下について「練習をよくやるという話を聞かない」「アクロバティックな動きがない」と厳しく表現されている。

インタビューで松下は「荻村伊智朗を越えることが目標」と語った。そんなことを公言した者はこれまで誰もいない。一流どうしのなんとも空恐ろしい世界だ。

しかし荻村伊智朗はなんたって世界選手権金メダル12個、世界チャンピオン10名あまりを育成(誰のことかわからんが)、卓球関係の著書十数冊、あげくに国際卓球連盟会長だからなあ。あまりにも巨大だ。