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畑の進捗

結局、ナスだと思っていたのは雑草だったことがわかった(写真左)。

一方、きゅうりは順調で、見事に生い茂っている。ネットで見て、きゅうりの栽培には棒などが必要とわかったので、昨日、それ用の棒を買ってきてさしたのだが、驚いたことに、もうつるが巻きついている(写真中央)。棒をさしたのが昨夕で、今日の昼にはもう巻きついているのだから、18時間の間に巻きついたことになる。目もない植物が、いったいどうやって棒の存在を知ったのだろうかと考えてみると、おそららくやつらは、一日中、つるを360度ぐるぐるとぶん回しているのに違いない。それで当たった物に巻きつくようになっているのだ。それしか考えられない。たいしたものだ。

また、一時期、雑草かと危ぶまれたトマトはどうやらトマトらしい(写真右)。伸びが遅いが、いつか実が生る日が来るのだろうか。

名前のこと

私はだいたい、他人のものがよく見える性質なのだが、自分の名前だけは小さい頃からとても気に入っている。珍しくてなおかつ読みやすく呼びやすい名前だからだ。いくら珍しくても読めない漢字だったり、「んあ」と発音したり「太郎」と書いて「としゆき」と読ませたりする反則はいただけない。また、たとえ読みやすくても「効果」などという、名前に見えない名前をつけて奇をてらおうというのも反則である。そうまでして珍しい名前にするくらいなら、潔く凡庸に「浩」とでもした方がマシだ。「条太」は誰でも読めてすぐに男子の名前だとわかり、しかも珍しいから気に入っているのだ。もちろん、画数など知ったことではない。

学校の先生にもよく「いい名前だ」とか「ずいぶん立派な名前だからどんな生徒かと思ってたらお前か!」などと校長先生から言われたりしたものだ。

めずらしい名前なので、誰もが私のことを「条太さん」と名前で呼ぶので名字だと思われ「下の名前は何ですか」と聞かれたことが何度もある。あだ名をつけられたことはほとんどない。村上力さんが「じょーちゃん」と呼ぶくらいだ。ここドーサンのアメリカ人で訛りの強い人は「ジオラ」と呼ぶが、これはあだ名とは言えまい(この人たち、tomorrowはルモロウ、todayはルディという感じでtをrのように発音する)。

名前の由来は小さい頃から聞かされてきた。親戚が知人の息子の名前をとってつけたというのだ。その知人は法学者で、息子に名前をつけるときに「世の中は条例で成り立っている。条例に則って太く生きるように」と「条太」とつけたのだそうだ。いかにも法学者らしい話だ(我々卓球人が息子に荘とか郭とか伊智朗とかつけるのと同じだ)。

この話を久しぶりに思い出して「もしや」と思って「条太」をネット検索してみた。すると、山本条太という、ある大学の法学部教授のサイトがあるではないか。この人に間違いない、と思ってその親戚に確認すると、まさにその人であった。私は山本条太さんからとって名づけられたのだ。何か、生き別れになった本当のお父さんを突き止めたような気持ちだ(ちがうって)。

そのサイトでは、当たり前だが「条太さん」という単語がたくさん書き込まれていた。これを見ていると、とても他人事とは思えないのだが、これは他人なのだ(生き別れの父でもない)。

小室の暗躍

何週間か前、3番弟子の小室(仮名)からメールで写真が送られてきた。それは、小室が愛ちゃんと四元さんと並んで写っている写真だった。

5月の初めに仙台で日本リーグの『ビッグトーナメント』というのがあり、その大会の会場運営だかの係になり、その関係で、選手たちとパーティーに同席することができたのだという。

私が広州で女子日本代表チームと撮った写真を見た知人が「普段知っている条太さんと愛ちゃんが一緒に写っていると、よけいに可愛さが引き立つ」と言っていたが、今回、その意味が分かった。

会場運営は大変だが、やってみるものだ。小室の馬鹿野郎。

銃を撃ってみた

同僚のマイクに誘われて、子供たちをつれて銃を撃ちに行ってきた。初め、射撃場のようなところを想像したのだが、マイクの車はどんどん山奥に入っていって、結局そこはマイクの弟の私有地で、だから勝手にいくらでも撃っていいのだという。

これは、他人の土地に入って林の中をうろうろしていると、土地の持ち主に撃たれるということなのだろう。

数10m離れたところに的をおいて撃った。初めに直径4mmの弾のライフルやピストルを撃ったが、音も衝撃もオモチャと同じで、どうということはなかった。筒に爆竹を突っ込んだようなものだ。子供たちもドキドキしながらも撃たせてもらい、喜んでいた。

しかし段々と弾が大きくなっていくと、その音と衝撃は大きくなり、44マグナム(弾の直径が0.44inch=11.2mm)にいたっては、衝撃が凄くて、どこに撃っているのか分からないほどだった。子供たちも恐ろしがって近づこうとはしなかった。だいたい、ピストルなど、撃った衝撃で銃口が真上を向いてしまうほどなのだ。そのくせ、引き金は恐ろしく軽い。自分で改造したのだという。マイクはオートマチックの10連発銃を撃ったりしている。なんと恐ろしい趣味なことか。

一緒にいたマイクの弟は現役の警察官で、その拳銃も撃たせてくれた。初心者の私に撃たせて反応を見るのが面白いらしく、「今度はダーティーハリーみたいに片手で撃ってみろ」とか「今度はできるだけ早く空になるまで撃て」とか言われ、私は手が痛かったが、言われるままに弾倉が空になるまで撃ちまくった。彼は横で、拳銃から飛び出してくる薬きょうを直接キャッチしたりして遊んでいた。的の後の直径5cmほどの木の枝が吹っ飛んだ。

「銃は危険じゃない。危険なのはそれを使う人間だ。」というのがマイクの口癖なのだが、撃ってみたところではどうみても危険だった。面白いとも思わないし、もう触りたくない。

子供たちは、落ちている薬きょうを宝物のように拾い集めて持ち帰り、妻に怒られていた。

食べ物が寄ってくる

私の妻は「食べるために生きている」と言っていいくらい食べることが好きだ(本当は生きるために食べるはずなのだが)。パソコンの壁紙は常に食べ物の写真だし、日本の寿司屋の「今日のお勧め」をむなしく毎日チェックし、食通の人のブログを読んでは「うおー」と叫んだりしている。

美味しいもの情報を得にくいここドーサンでも、労力のほとんどを食べ物の情報収集につぎ込んでいる。カバンの中には常に好きなレストランのメニューと地図を持ち歩いていて、話相手に、食べ物にかける情熱をアピール。酒も好きなので、相手がどのくらい酒が好きかのチェックも怠らない。

妻曰く「最近、食べ物の方から寄ってくる」という。レストランのオープン情報をくれる人や、食事を作ってくれる人が増えてきたというのだ。英語を習うために通っているはずのカレッジ(市民センターのようなもの)の非英語圏出身の友人たちが、スパニッシュ料理、韓国料理、ベトナム料理と各国の料理を作ってくれるらしい(今晩はベトナム料理だったらしい)。

妻たちは私より一足先に、来週から一時帰国なのだが、そろそろラーメンや回転寿司の幻も見えてきたようで車の運転が心配である。

戦艦アラバマ

先週はモービルという町に、博物館として展示されている本物の「戦艦アラバマ」を見てきた。私は戦艦には興味がなく、まったく知らない船だったが、第二次世界大戦で日本と戦った船だと知り、とても複雑な気持ちになった。

甲板に備え付けられた大きな銃を見ていると、これが「人を殺すために作られた船」であることを実感させられる。そして、その殺された人たちは我々の先祖たちなのだ。館内に展示された敵国兵士である日本軍兵士の人形と、神風特別攻撃隊の説明書きを見ると胸が締めつけられる。日本人と戦ったアメリカ人の気持ちもわかるし、逆もわかる。彼らはお互いにそれぞれの義務を果たしただけなのだ。

それにしても痛ましい。

戦艦アラバマの航行図を見ていたら、仏壇の写真でしか見たことのない、マニラで戦死した曽祖父の弟のことを思い出した。彼は岩手医専(岩手医大の前身)を卒業し、所帯を持って医者をやっていたが、あるときついに召集された。いよいよ出征の日、母親に会いに実家に来たが、「この戦争は絶対に負ける。生きては帰ってこれない」と言って母親の首に手をかけてぶら下がって泣いたという。一度玄関を出て、また戻ってもう一度母親にすがって泣いてから出て行き、家が見えなくなるまで何度も何度も振り返りながら行進して行ったそうだ。そしてマニラに軍医として配属され、そこで戦死した。どのように戦死したかは知らない。

この話は、一昨年、94歳で死んだ祖父から聞いた。死ぬ1年ぐらい前に、戦争のことを聞いておこうと根掘り葉掘り初めて聞いたものだ。祖父は、先の曽祖父の弟のことを上のように形容したが、自分自身については、なんと「軍隊は楽しかった」と語った。どこが楽しいのかと聞くと、ビシビシと指導されて規律正しい団体生活をするのが楽しかったと言うのだ。死ぬかもしれないとも何とも思わなかったと言うのだから呑気な話だ。鉄砲の安全装置をかけ忘れて上官にぶん殴られたことが思い出だと言い、軍隊時代の身分証明書のような札とそれが入った濃緑色の袋を大切そうに部屋の上の方に飾っていた。

戦争の話を聞いたとき、祖父も祖母も「こんな話をよく聞いてくれるな」と喜んでいた。もっと聞けばよかったと今では思うが、あれだけでも聞いて良かったとも思う。メモを取らなかったのが残念だが、まさか実家に遊びに行ってメモをとるわけにもいかなかったのだ。

シンクロ

友達からもらったDVDで、ちょっと前のテレビドラマ『ウォーターボーイズ2005夏』というのを見た。男子高校生がシンクロナイズド・スイミングをするドラマだ。

劇中、頭の悪い高校生が、看板に「シンクロ」と書こうとして「ツンクロ」と書いてみんなからバカにされる場面があった。それを見ながら私は心の中で「シ」を「ツ」に間違えている上に、小さい「ュ」が抜けてるじゃないか、と思った。

それでは「シュンクロ」だ。会社で作っている製品の不良の呼び名である。・・・絶句。

コーヒー牛乳を長崎宏子に

西公園プールで監視員をしているとき、中学校の水泳大会が開かれたことが何度かあった。ある大会のとき、私が休憩で事務室に入っていくと、けが人のためのベッドに水着の女性がバスタオルを肩にかけて座っている。

気にせず持参したコーヒー牛乳を飲もうとすると、所長が「なんだい条太、長崎さんにもあげだらいっちゃ」と仙台弁で言った。長崎さんもなにも、わたしはそんな人、聞いたこともない。しかも唐突に飲み物をあげろとはどういうことだ。しかし、なにかただならぬ雰囲気を感じたので、私は深追いせずに「はあ・・どうぞ」とだけ言って恐る恐る紙パックのコーヒー牛乳をコップに注いで差し出したのだった。後でその人は、まだ中3なのにオリンピックに出るかというほど有名な水泳選手で、中学校の大会に出に来て、足を怪我をして休んでいたのだと知った。そう思って後から気をつけてテレビを見ると、かなり有名であることが分かり、なんだか損をしたような気がした。

私のコーヒー牛乳を彼女が飲んだかどうかは覚えていない。ただ、まったく無言で少しも笑わず、愛想がなかったことだけははっきりと覚えている(知らないオヤジたちが好奇の眼差しでよってたかってコーヒー牛乳など飲ませようというのだから当たり前だ)。

テレビ出演

プールの監視員のアルバイトをしているとき、テレビに出たことがある。

西公園プールでは、毎年8月のもっとも暑い時期になると、「夜間プール」と称して、社会人にだけ夜9時ぐらいまでプールを開放する。このときに、地元のテレビ局が「今年も夜間プールが始まりました」などと季節の風物といった趣で、ニュースで取り上げるのだ。

撮影に来たのはNHKだったと思う。客のふりをしてインタビューをされる、いわばサクラが監視員の中から選ばれるのだが、それが私になったのだ。生放送だったのだが、困ったのは、本番の30分も前からずっと休まずに泳ぎ続けさせられたことだ。ちょっとでも休むと「続けてください」と言われる。いつ映ってもよいようにだとはいえ、とても疲れた(後に自分でビデオ撮影をするようになると、彼らの気持ちがよくわかった)。

いよいよ出番になると、マイクを持ってプールに入っている女性アナウンサーめがけて、「自然に」泳いでいって、声をかけられてインタビューに答えるのだ。私は事前の台本どおり「日中にプールに行けない我々社会人にとっては、夜間プールはありがたいですね」などと真っ黒な顔で答えたのだった。

偶然テレビを見た友人からは、「なんか水中カメラに向かって泳いでくるわざとらしい奴がいるな、と思ってたら条太で驚いた」と言われた。どうみても社会人には見えなかったそうだ。そりゃそうだ。

このプールの監視員の連中、なにかといえば水着を着ていない人をプールに突き落とす「もてなし」をしていて、女性アナウンサーも毎年、プールに投げ込んでいた。

私が赴任しているこちらでも、会社のホワイトハウスで集まりがあると、裏庭のプールに落とし合うのが恒例となっている。どこでも同じようなことをするんだなと思った。

プールの監視員

大学1年から3年まで、夏場には仙台市営の「西公園プール」というところで監視員のアルバイトをしていた。監視員のもっとも重要な役割は、おぼれた人を助けることだ。初めは、溺れる人などそういないだろうと思っていたのだが、溺れる子供は毎日当たり前のようにいるという。自分におぼれている人の見分けがつくだろうかと思ったが、先輩が「大丈夫、慣れるとすぐにわかるから」と言い、実際そのとおりだった。

プールで溺れる場合、よく映画やドラマでみるようにバチャバチャ暴れたりしない。初めは溺れると思っていなくて、トントンと飛び跳ねながらだんだんと深い方に動いていって(プールの底は斜めになっているため)、だんだんと疲れてきて、顔を水面に出すタイミングが不規則に長くなったらまず間違いなく溺れているので、監視員の出番だ。

周りは子供たちがいっぱいでも、みんな自分が遊ぶのに忙しいし、おぼれている人の見分けなどつかないから、誰も気がつかない。仮に声をだしてもみんな絶叫しながら遊んでいるので聞こえない。自分のすぐ後で友達が溺れていても気がつかないのだ。

中には監視員をからかって溺れたふりをする子供もいるが、彼らは本物を知らないので溺れた真似も全然似ておらず、だまされることはない。

そんなわけで、溺れている人を見つけられるようになったときは「俺もプロになったな」と思ったものだ。一夏に何人を救助したかわからない。プールと言うところは、監視員がいなかったら何人溺れ死ぬか分からないところなのだ。

このアルバイトで、世の中の人間というものの幅の広さを知った。ある成人男性が、子供を抱っこしてプールに向かって小便をさせていたのだ。気がついたときにはもう遅いし、こういう方と話ができる自信はなく、無視させていただいたのだった。