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『トリビアの泉』

4年ぐらい前になるだろうか。フジテレビの『トリビアの泉』制作担当という人からメールが来たことがある。以下がその全文だ。差出人の氏名は一部変更してある。

差出人: 黒木 梨奈
送信日時: 2004年9月27日月曜日 20:45
宛先: XXXXXXXXXXXXXXX
件名: 番組協力のお願い
今福 道夫様
突然申し分ありません。
フジテレビの「トリビアの泉」という番組製作を担当しています黒木と申します。
私どもの番組は視聴者からいただいたハガキを元に雑学を紹介する番組なのですが、今回「とても、派手な卓球がある」というおハガキをいただきまして、それについてリサーチしています。なにかご存知であれば教えていただきたいと思いご連絡させていただきました。
現在VTRとして、台の上にのったりする中国のエキシビジョンマッチの映像のみが手元にあるだけなのですが、詳しいことがわかっておりません。
お忙しいとは思いますが、よろしくお願いいたします。
日本テレワーク株式会社
品川区東品川X-XX-Xフジテレビ別館XF
03-XXXX-XXXX
黒木梨奈 090-XXXX-XXXX

どうだろう。なんと怪しいメールだろうか。まず、差出人名が怪しい。まるでAV女優のような名前だ。本当にこんな本名の人がいるのだろうか。それに今福道夫って誰よ。宛名を間違えているのだ。しかし内容からすると間違いなく私宛だ。たぶん、私が『日本超卓球協会』というサイトをやっているので、検索でヒットしたのだろう。日本卓球協会と間違えているのだ。それにしても、こんな情報だけでどうやって協力してほしいというのだろうか。第一、どうしてそのハガキをくれた本人に聞かないのか。電話番号が書いてあるところを見ると、東京まで電話をかけろということだろうか。

これは新手の詐欺に違いない。私はそう思った。しかし、ここからどうやってどんな詐欺行為に持ち込むのか見当がつかない。どう考えても詐欺の種類が思い浮かばないし、第一、本当に『トリビアの泉』かもしれない。それで、書いてあった携帯の電話番号に電話をした。すると、「今忙しいので後でかけなおす」と言われた。「さすがテレビ局、目が回るくらい忙しいんだろうな」と思ってドキドキして待っていると、そのままかかってこないではないか。人をバカにしている。不審感を募らせながら、今度は書いてあった会社に電話をかけて、黒木という人が本当にいるかどうかを確かめた。すると確かにいるという。

それから10日も経ってからまた黒木という人からメールが来た。今度は「総務の方に問い合わせされたようで」という前ふりの後に詳しい説明があった。そのハガキをくれた視聴者はネットで映像を見たのだが、探せなくなったというのだ。まあ、アクロバティックなショー卓球で台に上がったりするといえば80年代に活躍した中国の陳新華あたりだろう。携帯に電話をするとやっと本人が出た。話してみるとそそっかしい感じではあるが普通の人のようだった。黒木梨奈というのも本名だそうだ。陳新華の説明をして「映像を見れば選手名がはっきりわかるので送ってくれ」と伝えた。しばらくするとVHSテープが送られてきて、やはりそこには陳新華が映っていたが、封筒には、タニシだかヤドカリだかを研究しているどこかの大学教授に宛てたお礼の手紙が同封されていた。

あまりにひどい仕事ぶりなので「大丈夫でしょうか」と失礼なメールを出したのが最後である。企画もボツになったようだ。本当に大丈夫なのだろうかあの人。

『双眼鏡愛好会』

耳掃除で咳が出る人がどれくらいいるのか検索してみると、当たり前のようにいるようで驚いた。くしゃみに関しては、なんと『太陽とくしゃみ同盟』http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/3900/taiyou.htmlなどというサイトまであった。こういうことは「いろんな人がいて不思議だなあ」と思うにとどめておけば面白いのだが、ここまではっきりするとなんだか面白くないものだ。

2月に中国の広州に世界卓球選手権を見に行くことにした。中国に行くのも海外での世界選手権も初めてであり、卓球王国・中国でのものすごい歓声の中での観戦が今から楽しみだ。もう出場するような勢いである。ついでに卓球王国の取材陣として現地レポートだかブログ番外編だかをやることになっている。

目があまりよくないので、試合観戦のために双眼鏡を買おうとしている。それでサイト検索したら、おもしろいサイトを見つけた。http://binoculars.at.infoseek.co.jp/nyuumon1.htm『双眼鏡愛好会』というのだが、会でもなんでもなく、双眼鏡狂の人がひとりで作っているサイトだ(他人のことは言えないが)。双眼鏡の原理、高い双眼鏡と安い双眼鏡の違いなど、まったく素晴らしいサイトである。なかでも目からうろこが落ちたのは、双眼鏡の性能は倍率ではないということだ。10倍以上の双眼鏡は、明るさと手ぶれのために実用的ではなく、一流メーカーはそういう倍率の双眼鏡は決して作らないという。この人が信頼しているメーカーはカール・ツァイスというドイツのメーカーだ。双眼鏡の内側の反射を抑える処理など、偏執狂的に素晴らしいのだという。カメラ好きにはたまらないマニアックなサイトだろう。たかだか双眼鏡ひとつにここまで情熱をかけているところがすごい。

それで私もすっかり感化されて、ツァイスの双眼鏡を買うべく、オークションで安いのを探している。

いきなり生検かよ!

耳掃除をして咳が出る人などどこにいるのかと思っていたら、さっそく妻に友人から「私も出る」とメールがきたらしい。不思議だ。

06年の1月に人間ドックで、前立腺がんを検知できるという血液検査PSAを行った。普通は40代では前立腺がんなどないのだが、選択肢にあったのでつい丸をつけて受診してしまったのだ。すると、値が6.4であり、がんの可能性があるという。調べてみると、PSAが4~9の人は、25%の確率で前立腺がんだとある。心配性の妻が騒ぎはじめた。

仕方がないので病院に行くと、医者は露骨に困ったような顔をして「42歳で前立腺がんにかかった人がいたら学会で発表できるくらいだ。そもそもどうして受診したのか」などという。ほとんどありえないというのだ。次の検査をするかどうかは私次第だという。それは費用と時間によると答えると、F/T比という血液検査があるという。それなら手ごろな費用なので、後日それをすることになった。何週間かして結果を聞きに行くと、その値もがんの疑いのある悪い値を示しており、医者の態度がすっかり変わっていた。前立腺から直接針で細胞を採取して検査する、「生検」を勧めるという。その検査をするためには、費用もかかるし、2泊3日で病院に泊まらなくてはならないが仕方がない。

前立腺は直腸のすぐ前にあるので、直腸側から超音波による映像を見ながら8箇所ぐらいに針を刺して細胞を採取するのだ。針はほとんど痛くなかったが、肛門が痛かった。

がんといっても、前立腺がんの場合は早期発見すればほとんどそれで死ぬことはないあまり怖ろしくない病気らしいので、結構気楽だった。いたって健康体なのに大手をふって会社を休んで病院のベッドで好きなことをするというのは得がたい経験である。「魔太郎がくる!!」「おろち」「三つ目が通る」などという古いマンガ本を持っていってかわるがわる読みながらパソコンで卓球王国の原稿を書くのは本当に楽しかった。結局、がんは発見されなかったのだが、PSAの血液検査だけはときどきやったほうが良いといわれた。

それで昨年ドーサンに赴任して、10月にPSAの検査をやったところやはり高かった。医者は思うところがあるらしく、2週間分の薬をくれて、飲んだらまたPSAをやるという。それで検査をしてしばらく結果を待っていると、いきなり超音波検診の案内が来た。それで昨日行ってきたのだ。

すると、どうも様子がおかしい。超音波検診をするだけのはずのなのに、「今日の検査の後は、渡す薬を飲めばあとは普段どおりに生活していいが、重いものを持ち上げるのだけは2,3日控えなさい」などという。超音波検診だけなのにどうしてそんな注意をするのかと思い聞いてみると、なんと生検もするのだという。聞いてない。だいいち、まだPSAの結果さえ聞いていないではないか。

すると医者は、「PSAの値が6.1とまだ高いので生検をすることにした」という。というわけで、てっきり腹にゼリーを塗られて超音波映像を見るだけだと思っていたのに、行ったらその場で直腸に器具を入れられて生検されてしまったのだった。日本では2泊3日で手術のようにものものしい感じだったのが、ここアメリカでは行っていきなりブスッである。まるで体温計で体温を計るような気軽さだ。「さすがアメリカ、進んでいる」と思うことにした。

体質

私は太陽などまぶしい光を見るとくしゃみが出る。私の実家の家族は全員がそうだったので、誰でもそうなのだとばかり思っていた。それが違うと分かったのは結婚してからだ。私が太陽をみながらアフラアフラしているのを見て妻が「変だ」と言う。風邪気味のときには室内で蛍光灯を見てもくしゃみが出る。なにしろくしゃみをするのは気持ちがいいので、出そうなときには極力、出る方向に持っていくのだ。くしゃみの後で口内にひろがるしょっぱい味も楽しみのひとつだ。それで、歩いているときとか車を運転しているときに、突然太陽の方向を見ながら歩みをゆるめたり静止したりすることになる。確かにおかしいかもしれない。何年か前、念のために実家で母親に「太陽を見るとくしゃみが出るか」と聞いたところ「なにを当たり前のことを」と言われた。さもありなんだ。

また、私は炭酸飲料を勢いよく飲んだり極端に辛いものを食べると、しばらくしゃっくりが出る。妻が「気になるから止めて」と言うが好きでやっているわけではないので無理な注文だ。

そういう妻にも奇妙な体質がある。耳掃除をすると咳が出るのだ。これなど私にはとうてい考えられない異常なことに思えるのだが、おろらく全国にはそういう人は他にもいるのだろう。

くしゃみ、しゃっくり、咳とくれば残るはあくびだろう。私はいつでも好きなときにあくびを出す特技がある。方法は簡単、あくびをするように大口を開ければよいのだ。ほんの5秒くらい待つとすぐに本当のあくびがでる。そんなことが何の役に立つのかと思うだろうが大立ちだ。コンタクトレンズにゴミが入ったときに自由自在に涙を出して洗い流せるのである。まいったか(問題はあくびを出すための予備の5秒と本当のあくび合わせて10秒以上も大口を開け続けていなくてはならないことで、さすがに人前ではできない)。

体質ということでは、一昨年死んだ祖母の耳垢が湿っていたのを思い出す。調べてみると、日本人の16%が湿った耳垢であり、白人は90%以上が湿性なのだというから楽しいではないか。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%9E%A2
なお、湿性耳垢は優性遺伝なのだそうだ。もちろん、湿った耳垢の方が生物として優れているという意味ではない。遺伝の影響が個体に現れやすいという意味である。さらに、乾性耳垢は、皮膚がむけたものであり、湿性耳垢は、耳垢線というところから出る分泌物だという。調べてみるものだ。

アメリカの人形

今週、日本の材料メーカーの人たちが出張に来た。妻の知り合いでもあるので、我が家に来てもらって、卓球こそしなかったが楽しく語らった。

そのうちの一人が、子供にアメリカ製の遊戯カードを頼まれたとのことで、トイザラスに連れて行った。

そこでいろいろなオモチャを見たのだが、なんといっても凄いのが女の子用の人形の顔だ。我々の感覚からすると、どれもこれも異常にケバケバしく、日本の女の子ならもらったとたんに気持ちが悪くて泣きたくなるような顔なのだ。ところが、これがアメリカの女の子の間では絶大な人気があるのだという。こうなるのが彼女らの願望であり夢なのだろう。

ちなみに、ここいらでは、プレゼントをあげるときにはレシートをつけてやると喜ばれる。そうすると、気に入らないときには店に行って交換が換金ができるからだ。大手の店では、特に商品が壊れていなくても、ただ「気に入らない」というだけの理由で返却を受け付けている。

もちろん、故障もしょっちゅうだ。私が乾燥機を買ったときは、一緒に買わされた配管の直径が合わなかったし、電源の形も違っていて、配送してくれた人がその場で両方とも交換した。ところがスイッチを入れたとたんにガリガリと物凄い異音がして「壊れてるね」といわれた。いい加減にしてほしい。

ある日本人は、買ったガラス製品が割れていてクレームをつけに店に行ったら、その店に展示してある同じ製品も割れているので「ほら、こうなっているんだ」と示し、説明する手間が省けたという。喜んでいいのだろうか。

それで、とにかく店にはかなり大きな返却コーナーがあって、いつも人が並んでいる。最近はもう慣れてきて、1割ぐらいの確率で壊れていると思うことにしている。

コーヒーの自販機とトイレットペーパー

会社の休憩室にコーヒーの自販機がある。コーヒーだけではなくてピーナッツとかいろいろ売っているのだが、その中にレギュラーコーヒーの粉の入ったカートリッジが売ってある。すぐ横にそのカートリッジを差し込むとコーヒーが淹れられる機械が置いてあるので、一応、淹れたてのレギュラーコーヒーが飲めるというわけだ。

私は薄いアメリカのコーヒーが嫌いなので、あまり美味しいとは思わないが、それはいいとして、問題なのは量だ。備え付けてあるコップにその機械で淹れると、コップすれすれの量のコーヒーが注がれて、とても持ち運べないのだ。それで、いつも1cmぐらいは捨ててから運ぶことになる。日本では考えられない大雑把さだ。

他にも、よく感じるのがトイレのトイレットペーパーの位置だ。トイレットペーパーを片手で畳める人はそうはいないので、それは体の前にあるべきだろう。ところが、会社でも家でもレストランでも、トイレットペーパーの位置がことごとく使い難い位置にあるのだ。たいてい、体の前方ではなくて横の壁についている。ときには体の真横のこともある。右ひじの横の壁についているトイレットペーパーを、どうやって上手く引き出して畳むのか想像してみて欲しい。体を大きくひねらないと両手で取れないのだ。しかも場所によっては体のすぐ近くについていて、引くスペースがなかったりする。もっとひどいのになると、体の真横でしかも、壁に沿って引き出すようになっているのだ。肘の横の壁に、体の後方に紙を引くように取り付けられてあるのを想像してみて欲しい。使うなと言っているに等しいではないか。

こういうこところを見ると、彼らは、使い方は眼中になく、見た目だけで製品を設計しているのだろう。それとも、アメリカ人は、コーヒーをこぼすのが好きだとか、すっかり紙を用意しきってから便座に座るとか、思いもよらぬ使い方をしているのだろうか。そんな奴いないだろう。アメリカ人は、こういう細かいことで(細かくもないんだが)誰も文句を言わないのだろう。

動物園

10月の始めに、モンゴメリーの動物園に行ってきた。モンゴメリーはアラバマ州都で、車で2時間ぐらいのところだ。州都だが、町は小さく、たいして都会でもない。商業と政治を分離しているのだ。それにしても我ながらしょっちゅう出かけているが、なにしろ子供に現地の友達はまだできていないし、家から出るには車が必要なので、娯楽となると家族で出かける以外にないのだ。だから日本にいたときとは比較にならないほど家族で遠出をすることになる。

動物園でいろいろ奇妙な形の動物を見ると、本当にこれが遺伝子の複製ミスと自然淘汰の結果だろうかと思う。もちろん、「奇妙」というのは人間を基準にした勝手なもので意味などないのだが。いくらアリクイが蟻を食うといっても、自然淘汰で口があんなに伸びるだろうか。不思議だ。まあ、必要な口が伸びるのはよいとしても、使わない器官が退化する現象は未だに現代の進化論では完全には説明できないという。せいぜいが、使わない器官と使う器官にかけるエネルギーの配分に基づいた説があるぐらいだ。エネルギーは有限だから、使う器官が発達した個体は、その分だけ使わない器官につかうエネルギーが少ない確率が高いだろうという苦しい説だ。http://ja.wikipedia.org/wiki/退化

園内で子供がエビフライのような形をした松ぼっくりを拾って「エビフライだ、エビフライだ!」といって妻に見せたところ、妻は本物のエビフライを拾ったと思い、烈火のごとく怒って面白かった。

子供たちが定規を家から持ってきていたので、何をするのかと思ったら、自動販売機の下に落ちているお金を拾うためだという。うちの子供たちは、日本でも自動販売機があるとその下を探して金を拾うのを楽しみにしていた。実際、日本でもアメリカでもかなりの確率でお金が落ちているのだ。将来それで生活するといっている。トホホ。

その話を会社の同僚にしたと言ったら、子供たちに「どうしてそんなことを言うの」と抗議をされた。なんだと思ったら、その人の子供にも拾われるので自分達の拾う分が減る、というのである。アホなりに考えているようである。

ドライ・カウンティ

2日に郁美さんとスタンの家に、家族で行ってきた。日本からの土産話がとても面白かった。スタンにとっては卓球三昧の極楽だったようだ。とくに、東京で卓球のユニフォームを来たおばちゃんの一団に出くわしたときには、アメリカでは考えられない光景に目を輝かせていたそうだ。日本に住んでもいいようなことを言い始めていると言う。

郁美さんの家に行く途中、お土産にビールを買おうとスーパーに入ったのだが、置いてないという。そのときに「ジャルコニー」と言われた。何のことだろうと思っていると、次の店でも「売ってない」と言われた後でやはり同じことを言われた。3件めに入った、ドーサンなら絶対にビールを売っているはずのチェーン店でも売ってなかったところで「これは何かある」と気がついた。それで店員に何て言っているのかスペルを聞いた。するとdry county(ドライ・カウンティ)と言っていたのだった。辞書で調べると、dryには「禁酒法の」という意味があった。countyは郡だ。つまり、その一体は禁酒の郡だったのだ。今回あらためて実感したのは、英語の聞き取りとは、単語を知っているかどうかにかかっているということだ。dry countyという単語とその意味を知っていれば、たぶんそう聞き取れたはずだが、知らないのではジャルコニーにしか聞こえないのだ。日本語だって同じだろう。「すがらい」なんて意味のないことを言われたら誰だって何回も聞き返すし、正しく聞き取れないだろう。

郁美さんの家でカラオケをしたのだが、そこにあったVCDが台湾製で、パッケージが微妙に間違っていた。「アヅアの純真」とか「イメーヅ」「あなただげを」とか東北弁みたいで面白い。

赴任ということ

元旦に、することがないので、家族でバッティングセンターに行った。と、見覚えのある歩き方の人がいる。しかし彼は日本にいるはずで、ドーサンなどにいるはずがない。近づくと本人だったので驚いた。4年前にドーサンから帰任したはずの人が、年末年始の休みを利用してお忍びで家族で懐かしみに来ていたのだ。ちょっと感激した。何もない田舎のドーサンだが、子供にとっては故郷である。かつて4年半、自分が住んでいた家が今では別の人が住んですっかり変わってしまったのを見てしみじみとしたそうだ。

私が働いているドーサン工場には工場設立の77年から、日本人赴任者が常時10人以上滞在している。ほとんどの赴任者の任期は、2年から5年の間だ。中には2回も赴任した人も何人かいるが、だいたいは一回である。

初めて赴任すると、空港で赴任者たちの家族総出で歓迎を受ける。赴任者の数と任期から計算すると、平均すると4ヶ月に一人のペースで新しい赴任者が来て、入れ替わりに誰かが帰任していくことになる。始めは全員が先輩だが、そのうち自分が中堅になって、最後には自分が来たときにいた人たちは一人もいなくなる。そして最後の日、来たときと同じように空港でみんなに見送られて帰任するわけである。任期はだいたいは決まっているものの、いつ帰任命令が来るのかは基本的にわからない。帰任が近づくと、次は俺の番かな、などと思いながら何ヶ月か何年かを過ごすわけだ。いよいよ帰任が決まると、まわりの人も「帰る人」ということで、どこか別の感じの対応になる。私が赴任して11ヶ月経つが、その間に3人見送って1人を迎えた。

こういう光景を見ていてつくづく思うのは、これは人生そのものだということだ。学校なら卒業年が決まっているし皆いっしょにだが、赴任は違う。いつ迎えが来るかわからないし、来るときも去るときも一人だ。ただ人生と違うのは、赴任の場合には、多くの人は日本に帰るのを楽しみにしているところだ。しかしこちらの生活にも情がうつり、やはり帰るときには名残惜しい気持ちも出るようである。

人の一生をシミュレーションしているようで、なんともいえない気持ちになる。

『毘沙門極楽会』

以前、学生時代に作った小冊子『現代卓球』をここで紹介した(9/27)。実はその前に、『毘沙門時代』という小冊子を同じく一番弟子の戸田と作っている。

当時、我々は大学祭などでなぜか宗教サークルのところに行って議論をしたりしていたので、いっそのことこっちも宗教を作ってやれとばかり、ふざけて『毘沙門極楽会』というのを作ったのだ。毘沙門という言葉は、なんとなく凄そうな響きなので毘沙門天から意味も知らずに借用しただけで他意はない。私が教祖で、戸田が布教主務の二人だけの宗教だ。20年前の当時は、パソコンもワープロも持っていなかったので、大学の研究室でワープロを使って、自分の考えた文章が活字になるのが面白くてしかたがなかった。それで、最初に名刺を作ることを思いついたのだが、どうせならと、その会報を作った。

会報を作るとなると、それなりに活動をしなくてはならないということで、実際にいくつかの宗教団体に行ってカバンの中にカセットレコーダーを忍ばせて議論を戦わせた。街で宗教の人にわざと勧誘されやすいように、戸田とバラバラにひとりづつ歩き、ひとりが勧誘されたら、もう一人とは偶然会ったふりをして一緒に着いていくという寸法だ。向こうから誘った以上、こちらは大手を振って彼らのアジトに行って議論をしてよいわけだ。議論といっても、別に喧嘩をするわけではない。素朴な疑問をぶつけるだけのことだ(最後には険悪になることが多かったが)。

毘沙門極楽会の教義はまったくデタラメだ。とにかく他の宗教を否定することだけが目的なので、「人を見たら泥棒と思え」とかデタラメな教義しかない。歴史は4億年、信者は500億人、経典は薬師如来紋別帳の毘沙曼荼羅経ということになっている。『毘沙門賛歌』というテーマソングも作って録音してあるので、そのうちアップしようと思う。

この毘沙門極楽会に感激して飛んで火にいる夏の虫のように引きつけられて来たのが2番弟子の田村だ。会報の中での田村の「なにくわぬ顔」が素晴らしい(田村との対比のために鬼気迫る顔をしている戸田も素晴らしい。よくこんな異常な表情ができるものだ)。カゼで熱があるのに無理やり笑わせて撮影したことを思い出す。このように、会報で大きく取り上げてやったりしたのに、なぜか彼は最近、私との師弟関係を強く否定している。難しいものだ。