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クリスマス

クリスマスが終わったが、まだあちこちの家で飾りを続けている。せっかく用意したのだからしばらく飾っているのだろう。

飾りを見ていると、しきりにキリスト誕生の様子を再現したものが多いことに気づいたが、なにしろクリスマスとはイエスさまの誕生祝いなのだから、当然であった。サンタクロースとかトナカイの飾りも多いが、意味を考えれば、キリスト降誕が本筋だろう。私にとっても、ディズニーランドのように楽しげなものよりは、やはりキリスト降誕の飾りの方が深さが感じられてつい、見入ってしまう。

それにしても、普通の家の庭先にこのようなものが置いてあるのを見るのは、興味深いとともにミスマッチな感じがして面白い。だいたいは実寸ではなくて小さめに作ってあるので、七福神の置物のようにも見える。

真摯な信仰心というものは心打たれるものがあるのだが、それがオウム真理教とどこが違うのかとか、科学的良心との折り合いを考えると、複雑な感情が沸いてしまう。

アメリカの野菜

初めてドーサンに出張に来た7年前、ついた夜に、食料の買出しに近くの食料品スーパーに行った。そのときに見た野菜の異様な形は衝撃的だった。その異様な形と縮尺を間違えたような大きさが、前途多難な仕事の先行きを象徴しているようでなんとも不安な泣きたいような気持ちになったものだ。野菜の形がこんなに違うんじゃ、人間も違うわけである。中にはナッパ・キャベツというものが売っているのだが、どう見ても日本の白菜である。アメリカ人に「これは日本の野菜だ」と言ったら意外そうな顔をしていた。

その出張は3人で来たのだが、私がトランクの鍵をなくすというトラブルに見舞われた。どこを探してもない。いよいよ仕方がないので、会社に行ってバールでトランクを壊して開けようということになった。それで同僚の武俊が車のキーを出すと、なぜかそこに見覚えのあるキーが。私のトランクのキーだ。なんと不思議な。私のトランクのキーが武俊のズボンのポケットに入るなど、あり得ないではないか。

よーく考えたら、たった一つだけ可能性があった。宿舎に着いたときに、各部屋の鍵をテーブルに置いて、その鍵を取る方法で各自の部屋を決めたのだが、そのときに私が、トランクのキーを部屋の鍵と一緒にテーブルに置いたのに違いない。そしてそれを武俊が取ったのだ。それ以外には考えられない。なんとも情け無い話である。

オカルト談義

元の職場の後輩に、Tという大変見どころのある奴がいる。Tはほとんどの人が私のオカルト談義に興味を持たない中にあって、完全に食いついてくる得がたい人材である。ただし、その食いつき方は、何でもかんでも私に反対する立場ではあるのだが、興味が無いよりはマシである。職場の飲み会ともなれば、私は常にTのところに行って「それではこれはどう思う?」などとオカルト議論を吹っかけてはTをエキサイトさせて楽しんだものだ。仕事の話などする余地がない。

Tは「宇宙人が地球に来ているなんていう奴は頭がおかしいです」という一方で、幽霊や超能力は絶対にあると断言する。私にはどっちもどっちのあやしい話なのだが、彼の中の何かがそれを判断しているようだ。
それで、幽霊の話になった。私の立場は「幽霊が存在する証拠が出てきたらいつでも認めるが、今のところそのような証拠は無いので認められない」という単純明快なものだ。これがTには面白くないらしく、いろいろと難癖をつけてくる。Tによれば、幽霊とは電磁波の一種で、物理的実在だそうだ。大学で物理を学んだものの発言とは思えない。電磁波なら測定すればわかるではないか。そんな簡単なことならどうして今まで誰もその存在を証明できないのだろうか。

「条太さんはもし殺人現場で寝ろと言われたら寝れるのか、幽霊を信じないなら寝れるはずだ」と息巻く。私はそんなもの、必要があれば寝れると思うが、それではつまらならないので、あえて「気持ち悪くて寝られない」と答えた。するとTは得意になって「矛盾してるじゃないですか」と突っ込んでくる。私の理性と感情が矛盾していても、それが幽霊の実在の議論に関係がないことがTには分からない。

これに第三者が加わると収拾のつかない議論になる。Tが「世界中の民族で幽霊を見た話があるのは実在する証拠だ」という。私が「それは人間が本能的に死を恐れているからで、実在の証拠にならない」と答えるとTは「オレは死ぬのは怖くないですよ」と言う。こいつが死ぬのが怖くなくてもこの議論に何の関係があろう。それを聞いていたSというやつが「それなら今すぐ死んでみろ」とムチャクチャを言う。死ぬのが怖くなくても今すぐ死にたくない理由はいくらでもあることが、この男にはわからないのだ。Tだけでも議論の筋道がわからなくて大変なのに、更にこういうやつが議論に加わると話が全然進まなくて、一体なにを議論しているのかさっぱりわからなくなるのだ。それはそれで盛り上がって面白い。3人で喉をからしながら激論をすることになる。

ある飲み会の翌週の月曜、Tはよほど私との議論が悔しいらしく、昼食のときに蒸し返してきた。「条太さん、幽霊が実在しないってことは、祟りとか呪いもないってことになりますね。それでいいんですか」と言う。そそれは・・霊魂よりもっと信憑性がないではないか。更にTは「これはどう説明しますか」と前置きして「気功師が自分の体重を軽くすることができる」と言う。テレビで気功師が生卵に上がって潰さない超能力を見たのだという。どんどん話のレベルが落ちていくのは一体どうしたことだろうか。こちらの方がよっぽど不思議である。

Callaway Gardenに行ってきた

同僚のゲイリーに教えてもらったCallaway Gardenというところに一泊してきた。大きな敷地の公園で、電球をたくさん使った電飾が見事だと言うので2ヶ月くらい前から予約していたのだ。ドーサンからは車で3時間くらいだった。窓の無い車に乗せられてゆっくりと園内を回って電飾を見たのだが、一周するのに一時間もかかってとても寒かった。電球は800万個使っているそうで、大変な規模だ。たしかに綺麗だったが、電飾で綺麗なのには限界があるなあと思った。いくら色が鮮やかでもそれ以外の情緒に訴えてはこなかった。子供たちもイマイチという感じだった。私も高校ぐらいまでは、「面白い」ことだけが価値であり、「綺麗」などというものには何の価値も感じなかったので、今の息子たちが感動しなくても当然だと思う。

翌日は近くのサファリパークに行った。サファリパークというものは初めてだった。レンタカー代をけちって自分の車で園内に入ったら、バカでかいトナカイみたいなのに角で車を傷つけられた。車の近くに餌を落としてしまったので、それをトナカイが食べようとしたものだから進化の袋小路である無用のツノが車をこすったのだ。しかし、前を走っていた施設のレンタカーをみると、窓ガラスがなくて、トナカイやバイソンが頭部をまるごと車内に入れて客の餌を食っていたので、たぶん上半身ヨダレだらけになっているだろう。それも困る。汚れてもいいようにカッパでも着て行って、レンタカーを借りるのがいいのだろうきっと。もう行くこともないと思うが、万が一あったら覚えておこう。

帰りにドーサン近くの郊外のところで思わぬ看板を妻が見つけた。「サイッキック・リーディング」とある。さすがアメリカだ。ここまで大っぴらに超能力をうたうとは。たぶん、行方不明の子供の居場所などを透視するのだろう。私はこういうものはインチキだと思っているのだが、どうインチキなのかとか、その証拠を見つけるとかに大変興味がある。ところが妻は、私と違って「議論する時間ももったいない」ほどの完全否定なので、どんなに私がこの話をしたくても「時間のムダ、人生のムダ」と相手にしてくれない。それで私は、職場の同僚や友人に唾を飛ばして語ることになるわけである。もちろん、「テレビのチカラ」や「超能力捜査官」など論外である。http://www005.upp.so-net.ne.jp/kaieda/tousinouryoku.html

愛・・・しりそめし頃に・・・

沢山の本とDVDがが日本から届いた。通販で買ったものを妻の実家に送って、まとめて送ってもらっているのだ。藤子不二雄Aの自伝『愛・・しりそめし頃に・・』の藤本弘への追悼話を読んで泣いた。

夜は家族で車で40分くらいのエンタープライズという町に出かけて、クリスマスの飾りを見物してきた。ある住宅地が自分達で飾っていて、一般の人が車に乗ったまま見物できるようにコースが住宅地に作ってあるので有名なところだ。どういう人たちがなぜやっているのかは知らない。出口に募金箱があったので3ドル入れた。

ピータース

卓球王国1月号に書いたロナルド・ピータースの写真をアップするのを忘れていた。今年の3月に7年ぶりに再会したときのものだ。帰り際に車のダッシュボードから拳銃を出して見せられたときの写真だ。この人がどういう人物なのかは、卓球王国をご覧ください。

綿花畑

卓球の帰り道が、なかなか風情があるのでつい車を停めて撮影してしまった。風情がある道路の横に広大な綿花畑が広がっているので、歩いて入っていって手にとって見た。しげしげと綿花を見るのは初めてだ。本当に植物に綿が生っているのだ。これでは服を作ったり布団に入れたりしたくなるのも当然である。

綿花畑を見るたびに思うのが、これを手で摘んできた黒人奴隷たちのことだ。どれだけの黒人たちが綿を摘んで一生を終えたのだろうか。近くにあった農家がいい感じなので勝手に撮影した。こういうさびれた感じが私はたまらなく好きなのだ。

久しぶりに卓球

ウォレンからメールで誘いがあり、久しぶりに卓球の練習をした。まともな練習は4ヶ月ぶりぐらいだ。行ってみると、ウォレン、チャック、キースの他に、ペンサコーラというところから車で3時間もかけて練習に来た人が二人いた。9時には来ていたので6時に出てきたことになる。本当に好きなのだ。

12時になってヘトヘトになっていると、「これからダブルスをやろう」と言う。これ以上やったら死ぬので帰ってきた。「お前は何歳だ?」「43だ」「私は56だ。どうしてそんなに疲れるのだ?」といういつものやり取りがあった。6時にペンサコーラを出てきた56歳が3時間以上も練習をするのだ。たいしたものだ。

かえりにロビーを見ると、キリスト誕生の様子を再現した飾りがあった。ペプシコーラの自販機の隣にあるのが違和感がある。そういえばもうすぐクリスマスだ。なにしろ神様の誕生日なのだから重要なのは当然だ。それにしてもこんなところにまで神様かよ、と思っていたらその体育館は教会の施設だったことを思い出した。それじゃ仕方がない。

テレビと本

アメリカに来てからテレビをすっかり見なくなった。英語だから見ても分からないということもあるが、アメリカ在住の日本人のための日本語放送も1チャンネルだけあって契約したのだが、半年間にまったく見なかったので先日解約してしまった。

どうして見る気にならないのか考えてみると、パソコンのインターネットで十分な情報が得られるし、日本で見ていたような好きな番組はどっちみち見られないからだ。日本で必ず見ていたものと言えば、「世界まる見えテレビ特捜部」とか「BSマンガ夜話」とか、ときどきやるNHKの海外ドキュメンタリーなどだ。こういうものが見れないので、テレビを見ないということになる。

その反動で、ネット販売やネットオークションで本やDVDを沢山買っている。「トリック」「ビートルズアンソロジー」のDVDをすべて揃えたし、「がきデカ」「トイレット博士」といったマンガの抜けた巻を買い足して揃えようとしている。「がきデカ」は今読んでも面白い、奇跡のようなギャグマンガだ。「キャプテン」もまた、言葉で言い表せない凄いマンガである。

一番思い入れが強いのは「トイレット博士」で、小学校高学年から現在まで何百回読んだかわからないほど好きだ。しかし今では廃刊なので、抜けている巻が手に入らない。その抜けている巻を古本屋で見つける夢を今まで何回も見た。
それで、先日ネットで検索していたら、なんと廃刊になっている本をどうにかして勝手に製本してしまうというサイト「復刊ドットコム」http://www.fukkan.com/fk/index.htmlというのを見つけた。そこで「トイレット博士」の抜けている巻をすべて注文してやった。届くのが楽しみだ。

北九州出身の伝説のロックハンド「ルースターズ」のCD28枚DVD5枚ボックスセットも買った。

これらに加えて、もともと持っていた本やビデオを繰り返し見ながらブログや卓球王国の原稿を書いたりしていると、時間が足りなくてゴルフどころか卓球もできない。かといって睡眠時間を削る気はない。人類の知の集積である文学も少しは読まないとダメだろうと思い、三島由紀夫、川端康成、大江健三郎、阿部公房、夏目漱石といった有名な人たちの文庫の名作も買ってきたがさっぱり読めない(私は小説というものはほとんど読んだことがない。評論や主張は好きなのだが、小説は話が頭に入らないのだ)。

トイレット博士を何百回も読んでいて言うことではないが、つくづく『人生は短い』。

双子の話

我が家の長男と次男は一卵性双生児だ(次男がイチロウというヒネリ入りだ。もちろんイチロウとは「伊智朗」である。名字と「伊」がかぶっているのだが、そこまでして荻村伊智朗の名前をつけたかったという過剰さが良いのだ)。自分の子供が双子だと分かったとき、こんな面白い偶然が自分の身に起こるとはなんて幸運なのだろうと、宝くじに当たったような気がしたものだ。

双子だとわかってから本などで調べて、いろいろなことがわかって面白かった。まず、双子の確率だが、一卵性の場合は、250出産にひとつだそうだ。これは、家系、民族、国によらず世界中でほぼ一定の確率なのだという。一方、二卵性の場合には家系、民族、食べ物、薬物などによる影響がかなりあるのだという。私はこれまで子供が双子だと言うと「親戚に双子いるんですか?」と何度も聞かれたが、そのたびに「一卵性の場合は人類共通で1/250の確率なんで、家系は関係ないんです。私の親戚に双子はいませんが、仮にいたとしてもそれは偶然です」と答えてきた。大体の相手は話の途中から見る見る興味をなくしていくのが顔色からわかり、ちょっと欲求不満である。話し方が悪いのだろうか。

双子の違いを見ると、遺伝子が影響をおよぼす範囲がわかって面白い。指紋、ホクロ、毛の生え方などははっきりと生まれつき差がある。これらは遺伝子という設計図がコントロールできない物なのだ。これに環境の差が加わって、結局はかなり差が出ることになる。身長、体重、知能などはかなり似ている。性格はそれらに比べると相当に違うが、大きく見れば似ている方だろう。

双子だとテレパシーなどあるのかと思われがちだが、そういう片鱗はまったくない。単に遺伝子が同じだけの別の個体なのだから当然である。日本人どうしは外国人と比べれば近い遺伝子をもっていて顔も似ているが、だからといってテレパシーに近いものがあるかといえばまったく無い。それと同じことだ。人間と動物の比較でもよい。
もちろん、同時に同じことを言ったり、好みが同じと言うことは沢山あるが、遺伝子も歳も環境も同じなのだから、そういうことがあるのは当たり前である。無いほうがおかしい。

世の中には、双子のお母さんの会というのがあることを知った。どこから紹介されたか忘れたが、すぐ近所にもあったのでおそらく全国いたるところにあるのだろう。たしか、市が斡旋をしている会だったと思う。そういう公的な会なのだ。双子のお母さんならではの苦労を相談したり協力する会のようだ。なかでもなるほどと思ったのは服である。誰かからお下がりをもらおうにも、双子用の揃ったお下がりをくれる人など普通はいないからだ。双子の会に行けば、これらが豊富に手に入るというわけだ。もっとも我が家の場合は、特に揃えようとは思わなかったので、もらいもの以外は双子で揃えて買ったことはほとんどない。いつもバラバラである。
双子用のベビーカートは、双子のお母さんでも持っている人はほとんどいなくて、ベビー用品のレンタル屋で借りることを教えてもらったりした。横に並んだのと縦に並んだものがあり、我が家では横に並んだのを借りていた。

他にもいろいろと子育ての相談をしていたようだが、私が覚えているのはこれくらいだ。双子を持たなければ一生その存在を知らなかったであろう会が、実はあちこちにあるなんて面白い。さすがに三つ子以上の会はあまりないと思うが。

*写真は10年以上前のもので、創刊まもない卓球王国に載せてもらおうとして撮影し、見事載せてもらったものだ。