自転車の乗り方(田村先生より)

昨年の震災をきっかけに、田村から自転車を借りていて、そのままもらうことになった。
高級なスポーツ自転車だということで、乗り方を教えるという。

自転車の乗り方ごときで今さら他人に教えてもらうことはないと思ったが、目から鱗のノウハウがあった。
それは、信号待ちなどで一時停止をするときの姿勢だ。

よく交通安全指導などでは、完全に自転車を降りて横に立つように指導するが、これは面倒なのでなかなか従わない。そこでよくやるのは、サドルに腰掛けたままつま先を地面につけて姿勢を保つことだ。ところがたいていサドルの高さはそんなに低くは設定していないので、かなり苦しい姿勢となる。なんとか立っていてもちょっと押されるとバランスを崩して転ぶほどだし、ときどき路面に出っ張りなどがあると、得をしたような気になってそこに片足を置いたりする。
女性などは、そういうのがいやで、サドルに腰掛けたまま両足が完全に地面につくほどサドルを低くしていたりする。

しかしこれらはどれも根本的に間違っているのだ。楽にペダルを漕げるサドルの高さは、ペダルが一番下に来たときに膝が少し曲がるくらいであり、そのような高さにサドルを設定すれば、どう頑張ってもサドルに座ったまま地面に足はつかない。また、サドルに座ったまま地面に足がつくほどサドルを低くすれば、漕ぐ時には足が曲がりすぎてとても疲れることになる。止まったときにサドルから降りないことと引き換えに、自転車を使っている時間のほとんどを占める「漕ぐ」という動作を不当に疲れる条件にしてしまっているのだ。

どうして人はサドルから降りないで頑張るかといえば、サドルから降りるのは何か面倒なような損したような気になるし、完全に自転車を降りるためには片足をサドルの上を回す全身運動が必要になって面倒だからだ。私もほぼ40年間、このような間違った考えで自転車に乗ってきた。

ところが自転車界には、自転車を降りずに楽に両足を着く方法があったのだ!

それは・・・腰を前方にズラしてサドルからお尻を外して、フレームをまたいだまま立つだけだ。なんと簡単な!やってみるとなるほど素晴らしい。こんな簡単なことを40年間、自分で見つけられなかったことが悔しいが、発想というものはそういうものなのだろう。

ともかく、田村が言うにはこれは自転車乗りの常識であり「サドルに腰掛けたまま止まっているのは素人」だそうだ。ペンホルダーの裏面の指を3本広げているようなものだろう。心当たりの人はさっそく試していただきたい。ああ悔しい。小学校ででもちょっとそういうことを教えてくれればよいものを。

ちなみに、ネットで見つけた「スポーツ自転車の安全な乗り方」でも実演者はもちろんこのように止まっていたが、解説されているのはそのことではなくて、逆走するなとか無灯火は止めろとかいうもので、止まるときの姿勢については一言も触れてはいない。逆走や無灯火以前の、解説するまでもない当たり前のことなのだ。しかしこれは、そう言われなければ気づかなくてなおかつ重要なことなので、こういうことこそ強調してもらいたいものだ。こういう肝心なことを解説できていないというのはこれはこれで感度が低いと思う。

幽霊の番組

テレビでなにやら幽霊の怖い番組をやっている。

こういう番組に出てくる幽霊は、髪の毛がやけに長いことが多いが、いったい全体、どこにそんなに長髪の人間がいるというのだろうか。明らかに現世の人間より幽霊の長髪率は高い。これだけでも辻褄が合わないではないか。

と、このようなことを言うと三男が「幽霊になった後も髪が伸びるからじゃない?」なんて言う。なるほど、霊界に床屋はないということか。しかしそれなら子供の幽霊は成長してそのうち成人式を迎えたり、青年ならやがて定年を迎え、さらに霊界でも死んだりするのだろうか。

世の中には、幽霊がいると思う人が結構いるらしいが、ガタガタ言ってないで証拠を持ってこいと言いたい。デタラメや妄想はうんざりだ。

Kさんの含蓄

代理店のKさん代理店のKさんという方と仕事でお会いし、車の中で2時間ほど話した。Kさんはすでに定年を過ぎているのだが、請われて働いているということだった。

人生の話になると、なんとKさん「私はもういつ死んでもいいんです」と言う。たいしたことをしてきたわけではないが、特に思い残すこともないし、楽に死ねるなら本当にいつ死んでもよいという。私はそこまで達観していないので、そんなことを言えるKさんに対して少々卑屈な気持ちになった。

「私はそこまで達観できません」と言うとKさんは「そりゃ伊藤さんはまだ48だからまだまだでしょ」と言う。そうだろうか。Kさんの65歳までたったの17年ではないか。17年の長さはどうかと17年前を振り返ってみれば、1995年で、天津で中国がスウェーデンの4連覇を阻止し、孔令輝と劉国梁が決勝を争ったときではないか。冗談ではない。ついこの前だ。あっという間ではないか。たったそれだけの時間を生きたらKさんのように達観できるだろうか。

そのような疑問をKさんにぶつけると、聞いたこともないような意外な話が返ってきた。「歳をとると時間は長く感じるんです」とのことだ。Kさんによれば、歳をとると、よっぽど特別な趣味や才能がある人を除けば、できることがどんどん少なくなってあまり活動をしないので、とにかく暇で時間が長く感じるのだという。だから、55歳あたりから現在まではとても長く感じ、もう沢山だという気持ちだという。

この感覚はKさん独特のもので、他の人には当てはまらないかもしれないが、たまたま私に当てはまるかもしれない。そのように考えるとちょっと気が楽になった。含蓄のある話を聞けてよかった。

Kさんの車には、電子機器マニアの同僚が頼みもしないのに勝手に社有車に取り付けた「余計なお世話」のカーナビだかレーダー探知機だかがついていて、交差点にさしかかる度に「事故が発生した場所です」と車が炎上する映像を流していた。「バカバカしい」とKさんは語った。

オーラの無料鑑定

携帯電話にオーラの無料鑑定の宣伝が流れてきた。
無料で鑑定してもらえるとはなんと素晴らしいのだろうか(そもそも有料の鑑定も聞いたことはないが)。
おそらく直接会わなくても名前と誕生日でも送れば見てもらえるのに違いない。
いや、それすら必要ないだろう。なんたってオーラが見えるくらいだからどんなに不思議なことがあっても不思議ではない。

あだ名

クラス会ともなると、まるで童心に返って当時のあだ名で呼んだりすることがあるが、陰でだけ使っていたあだ名については使うわけにはいかない。

たとえばこんな具合だ。

・赤っ面
・ロバの下半身
・河合奈保子の偽者
・漢文野郎
・びっくり狸

すべて女性につけたあだ名だ。私は当時から紳士なので本人の前で使ったことはない。

クラス会

実は高校のクラス会にも参加してきた。

私のクラスは理数科といって学年に1つだけの科だったので3年間一度もクラス替えをしなかったのでさぞかし結束が固いかと言えばその逆で、なんと席替えもしなかったので席の遠い奴らとはほとんど交流がなく、30年も経つというのにクラス会は今回が2回目だ。しかも44人中、来たのは11人だけだった。いみじくも話題は席替えに及び、実は1年の夏までにマイナーな席替えを2回やっていたことがわかったが、いずれにしても私は入学から卒業まで窓際の前から2番目の席で(50音順だったのだ)、隣接する5人は3年間変わらなかった。

今回は、クラスから初めて亡くなった人が出たということで、彼を偲ぶ会だという神妙な連絡が来たので参加をしたのだが、行ってみるとなんと会場は屋上ビアガーデンで主催者の二人が浴衣に派手な衣装で現れ、正装に近い服装で来た参加者たちの非難を浴びていた。死者をまったく偲ばない会であった。

人生は短い。

OB会

お盆なので帰省して高校の卓球部のOB会に出てきた。
OB会は毎年お盆と正月の2回行われていて、現役や他のOBたちと試合をするのだが、私は久しぶりの参加だ。

試合結果は惨憺たるものだった。後輩の息子で県ベスト4だという中学2年生が来ていて、スコスコにやられるし、高校2年生の女子にもサービスが取れなくて0-3でやられた。普段、世界レベルの卓球を見て「日本の卓球を改革をしないとダメだ」などと言っているのに、実技がこのザマなのが本当になさけない。説得力ゼロだ。

夜の部の飲み会では、卓球王国9月号に書いた後輩の長岡が来て、私を「評論家」呼ばわりしやがるので正座させてやった。かと思えば田村からは祖父母の七回忌の最中だというのに携帯電話に「ドライブのフォーム云々は自分がまともにできるようになってから言ったらどうだ」などとメールが来るし、まったくどいつもこいつも失礼な奴ばかりだ。

理論と実技の乖離には一生悩まされるのだろう。このルサンチマン(わからない人は辞書を見るように)を今後の原稿に生かして行きたい。

丁寧に負けるとはこれいかに

町内の卓球クラブに行き、クラブ員の女性とオリンピックの話になった。
愛ちゃんの試合の報道で「福原愛選手は丁寧に負けました」というのを聞いて
「丁寧に負けたってどういう意味?」と思ったそうだ。荒くやって負けたとか、簡単に負けたとか競って負けたとかならわかるが、丁寧に負けるとはいったいどういう状態を指すのかというわけだ。あかたも「負ける」という目的に対して計画通りきっちりとミスをして万全を期して負けたとでも言わんばかりだ。

卓球をしているものなら「丁寧」を見ても今さら何も思わないし、ごく一部の「困ったオヤジ」以外は駄洒落にするのもはばかられるが、一般の人から見ればこれが自然な反応なのだということにあらためて気づかされ、なおかつ不条理ギャグともいえる「丁寧に負ける」という表現がなんとも可笑しかった。

「ながら見卓球」

ヤフーの卓球のスコア速報ページに、興味深いリンクが張ってあった。
「卓球女子団体決勝を識者と観戦!ながら見チャンネル」と書いてあるので何かと思ったら、二人の男が女子団体決勝をテレビを見ながら語り合うという面白いものだった。
http://www.youtube.com/watch?v=hOPtt_u1RPo&feature=plcp

片方は荻村伊智朗の伝記『ピンポンさん』の作者である、ノンフィクションライターの城島充。リアルタイムで聞いたら面白かっただろうなと思う。

日本の卓球の限界は、福原対李の試合に表れていた。福原は第2ゲームの8-9から空恐ろしいバックハンドスマッシュとレシーブスマッシュを3連発して、このゲームを11-9で獲った。金メダリストにここまで迫った選手はいないだろう。素晴らしい技術だ。しかし、我々はこれを賞賛してばかりいてはいけない。この結果は福原の卓球スタイルの限界そのものを表しているのだ。どんな選手でも、低いボールに対してスマッシュを入れ続けることはできない。ボールがゆるく高かった1950年代をのぞけば過去にそのようなやり方で世界チャンピオンになった選手はほとんどいない。あえていえば1993年エーテボリ大会の玄静和だろう。日本の伝統はスマッシュだ、という物言いは、それができた古き良き時代の錯覚であり、現代卓球ではあまりにも難しい戦術なのだ。

中国の女子選手たちはスマッシュをほとんど打たない。日本選手よりずっと体が大きいのにバックにほとんど回り込まず台から十分な距離をとり両ハンドで回転量の多いドライブを打つ。だからミスをしない。日本選手は体も小さいしドライブの球威がないから、どうしても台に近づいてスマッシュをしないと点を取れない。現状の日本選手の実力では、リスクのある卓球にしか可能性はないのだから、そのようにやるしかない。しかしスマッシュでは限界がある。今後は、体が小さくてもスマッシュではなく、ドライブを中心としそれで相手をぶち抜く球を打てるように筋力を鍛えるべきだと私は考える。日本の特徴はスマッシュだなどというノイズを聞くべきではない。

まあ、それでも中国から2ゲームをとり、韓国を一蹴したシンガポールに3-0で勝ったのだから十分な気もするが、中国を倒すことを目標にした場合は、どうしてもこのような話になる。

ドーハの悲劇

サッカー界では「ドーハの悲劇」などと言われているが私は知ったことではない。

卓球界でドーハといえば、日本女子が中国に肉薄した最後の試合だ。

忘れもしない2004年世界選手権ドーハ大会(忘れてたけど)。日本はグループリーグを1位で抜けて、決勝トーナメント1回戦で中国と激突した。日本は梅村、藤沼、そして15歳の福原だ。対する中国は王楠、張怡寧、李菊の非道ともいえる面々だ。

日本 2-3 中国
梅村 2-3 王楠 ○
福原 0-3 張怡寧○
○藤沼 3-2 李菊
○梅村 3-2 張怡寧
福原 0-3 王楠 ○

このときの藤沼と梅村の卓球は、中国指導陣から「理不尽なまでの速攻」と評された。
これ以後、日本女子で世界選手権、オリンピックで中国選手に勝った者は一人もいない。リスクのある卓球をしなければ中国に肉薄することは出来ない、しかしそういう卓球では結局は勝てないのだ。「日本の伝統は速攻」などという妄想はやめなくてはならない。

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