神業

会場がどよめいた水谷の神業がこれだ。
吉村がカット性ブロックを水谷のフォアサイドに絶妙に送ったのだが、水谷は瞬間的に、このボールが、ネットを迂回して直接相手のコートを狙える点まで行くボールであると判断し、故意にボールの近づくのを遅らせてボールがその位置に来るのを待ち(ビデオを見るとそれがよくわかる)、見事、直接相手のコートに叩き込んだ。

このようなボールはフライトのほとんどが台の外なので、前後左右ちょっとでもズレると入れることはできない。しかも水谷は、軌道の頂点を台の高さからわずかボール1個分だけ上にコントロールしたため、ボールはほとんど弾まずに台の下に落ちていった。真ん中の写真は、ボールが台に弾んだ後、もっとも高くなった瞬間の映像だ。なんというコントロール!

試合には負けたが、全日本選手権決勝の最終ゲームでこのボールを打っただけでも水谷はひとつの偉業を成し遂げたと言ってよいと思う。

水谷の筋力と回復力

今度は水谷のプレーだ。吉村の思いっきりカーブするドライブに対し、あろうことかその曲がりの到達点を予想しバックサイド深く回り込んで勝負をかけている。右手を床に着くほどの捨て身の体勢で打ったにも関わらず、一瞬にして立ち上がり次のボールをさらに厳しく攻め立て、コーナーギリギリを狙った結果、エッジボールで得点している。

筋力・回復力・巧緻性、そのいずれもが完全に常人の範囲を逸脱していることがわかる水谷のプレーだ。

吉村の「柔軟性」

水谷が吉村のミドル付近に打ったドライブに対する、吉村の上半身だけで無理やりフォアで打ったプレーが見事だった。昔から卓球界ではこのような身のこなしを指して「柔軟性が優れている」と表現し「だから柔軟体操が大切だ」と言われてきたが、完全に間違いである。

卓球選手は、関節の稼動範囲よりもはるかに小さい範囲でプレーをしているので、いわゆる柔軟性は何の関係もない。このようなプレーを可能にしているのは、重力に抗して体を支える足腰の筋力なのだ。もし、このときの吉村の格好を床に寝て真似をすれば、誰でもできる程度の関節の角度のはずである。長谷川信彦に代表されるように、柔軟体操が苦手で筋肉の塊のような選手が卓球をすると体を柔らかく使えるのもそのためだ。

吉村のボール

卓球は対人競技なので、強い選手同士が試合をしているのを見ると、ヘタな選手との差がどれくらいなのかは、よくわからない。

実際には、水谷や吉村のボールは全日本選手権にやっと出たぐらいの選手ではまったく返せないだろうし、その選手たちのボールはその辺のホビープレーヤーはまったく返せないのだ。

吉村の打っているボールがどれだけ凄まじいかを示すため、その軌道をトレースしてみた。水谷が打ったフォアドライブに対して、吉村が何気なくカウンターをしたところなのだが(それ自体が“何気なく”ではないのだが)、実はこのボールが物凄く曲がっていて、ほとんどエンドラインに平行に飛んでいるのだ(角度の関係でそう見えるので、実際はそこまでは曲がってないと思うが)。こんなもん、とてもじゃないけど触れるわけがないが、水谷は普通にブロックしている。大変なことである。

疑問

自分の名前をGoogleで検索したみたら「伊藤条太に関する疑問」というのがヒットした。誰かが質問コーナーでした質問文に私の名前が含まれているだけなのだが、まるで私が疑惑の人みたいで、ちょっと面白かった。

「待つわ」

昔、あみんという女性デュオがヒットさせた「待つわ」という曲があるのだが、私はこれが大嫌いである。といっても、この曲に罪はない。嫌いな原因は、私の特殊な体験にあるのだ。
この曲がヒットしていたころ、知人の女性から手紙をもらった。そのころは電子メールなどないから、電話以外の連絡は手紙だったのだ。その手紙は、普通の世間話の内容だったのだが、後半に、何の説明もなくこの曲の歌詞が書かれていたのだ。ところが私はそのとき、あまりテレビを見ないせいか、この曲をまったく知らなかったのだ。それで、私はこの歌詞をその知人の素の言葉として読んでしまったのだ。そのときの私の驚愕を想像してほしい。以下が「待つわ」の歌詞で、そのときの私の思いが括弧の中に書いてある。

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可愛いふりしてあの子わりとやるもんだねと 言われ続けたあの頃 生きるのが辛かった
(はあーっ?言われてないだろそんなこと。誰も言ってない言ってない!)
行ったり来たりすれ違い あなたと私の恋
(なっ・・行ったり来たりしてないだろ!あなたと私の恋って・・えーっ?)
いつかどこかで 結ばれるってことは永遠の夢
(む、結ばれるってアナタ・・・・・)
青く広いこの空 誰のものでもないわ 風に一片の雲 流して流されて
(なんだか知らないけど他の話になったようだな。その調子でいってくれ)
私待つわ いつまでも待つわ たとえあなたが振り向いてくれなくても
(おま、どうしたんだ一体?なんでそんなに唐突に・・・・)
待つわ いつまでも待つわ 他の誰かにあなたがふられる日まで
(だあーっ、余計なお世話だっ!俺はしょっちゅう振られてるけど、それとこれとは関係ねえっ!)
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という感じで、私は腰を抜かさんばかりに驚いたのだった。その後、これが歌の歌詞であり、知人はただその曲を気にいっていたので書いただけだということが分かった。しかしそのときの私の驚きというか不安は今でもその曲を聞くと思い出され、それがこの曲の印象になっているのだ。
そういうわけで嫌いなはずなのに、今もときどきこの曲が頭の中で鳴る。いろんな意味でインパクトのある曲だということだろう。さすがに一時代を築いただけの曲である。

交差歩

少し前、スポーツ界で活躍する日本人が、外国語を駆使していることを紹介するテレビ番組があった。

そこに石川佳純が出ていて、中国人のコーチがいるために中国語に堪能であると紹介された。中国では卓球の技術が日本より細かく言葉にされているので、卓球の技術を論じるときには便利なのだという。そこまではいいのだが、その例として「交差歩」と出たのには笑った。

「日本語では“足を交差させて飛びつくフットワーク”と言わなければならないのに中国語だと“交差歩”の一言で済む」と解説されていた。誰が“足を交差させて飛びつくフットワーク”なんて言ってるよ(笑)。交差歩はもとは中国から来た言葉かもしれないが、日本の卓球界でも60年代からとっくに使っている。視聴者に意味がわかりやすいからといって、ろくに調べもしないで適当に作ったのだろう。

もしかするとカスミンがディレクターに聞かれてそう言ったのかもしれないが、カスミンは特殊な環境にいたためかもしれないし、他人の言葉づかいなど興味がないだろうし、なにより私は彼女をこんなクドイ話に巻き込むつもりはないのだ(自分で取り上げておいてなんだが)。

とにかく、確認しなかったディレクターが悪いことに決まった。

マンガ論

全日本のときには親戚の家に泊まった。
そこで、久しぶりに会うおじちゃんとおばちゃんとゆっくりと話し合った。

私の小さい頃の話になり「条太ちゃんはマンガ家になりたかったのよねえ」と言われた。それでマンガの話になった。私が吉田戦車と高校の同級生である話が出たので「おばちゃんが読んでも面白くないですよ」と言った。なにしろそのおばちゃんは亡くなった祖父の妹であり、80歳を過ぎているのだ。

それで彼女が「最近のマンガは全然面白くない」と言う。「面白かった昔のマンガってたとえば何ですか」と聞くと「のらくろ」だそうだ。

不条理マンガどころか、戦前のマンガである。山上たつひこも赤塚不二夫も手塚治虫さえもすっとばしての話である。面白いも面白くないも、そもそもマンガを読まない人なのだから無理もない。

病み上がりの荘則棟?

編集部の速報に、私のレーティング普及活動の様子が載っていたので、その写真を借りた。
今野さんいわく「病み上がりの荘則棟みたい」だそうだ。荘則棟といえば60年代に世界選手権で3連覇した伝説の選手だ。嬉しいような嬉しくないような。

とりあえず比べて見た。

田丸さん再来

昨日に続き、田丸さんが来訪した。

今度は自作の冊子を手にしている。中を見ると、例によってワープロ(パソコンではない)と手作業の切り貼りによる、取り返しのつかない労力を注ぎ込んだ冊子である。おそらくこれを理解できる人は田丸さんの他には世界に何人もいないだろう。その意味でのみ、アインシュタインの相対性理論を彷彿とさせる卓球理論である。

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