月別アーカイブ: 9月 2007

ビートルズ5

これまで発表してきたビートルズごっこの写真は、実はある程度、技術が発達してマシなものを選んでいたのであるが、ここまでくるのにはかなりの時間がかかっているのである。たとえば8/21にアップした『レット・イット・ビー』は2回めのものであり、1回めのやつはあまりにひどいので出すのがためらわれたのであるが、これも面白かろうと思い、今回出すことにした。

この当時もっていたカメラは感度が悪く、室内ではフラッシュを焚かないと映らない代物であった。私はどうしてもポールの顔の左半分に影をつけたかったのだが、フラッシュを焚いたのでは影ができない。そのため、ポール役のやっちゃん(ポールに似ていると以前から目をつけていた、5つぐらい歳下の近所の子供だ)の顔の左半分に墨を塗ったのであるが、影というよりは顔半分を打撲した人のようになってしまった。せっかくバックに茶色のちゃぶ台を立てているのに、フラッシュのせいで青くなってしまっているのも悔しかった。

また、いつも無理やり撮影役をやらせていた私の3歳下の弟には、このときは人数の都合からリンゴ役をやらせた。ここでも問題はリンゴの目と鼻の茶色の影である。これが重要だと考えた私は、これを再現しようとして弟のその部分に歯磨き粉を混ぜた茶色の絵の具を塗ったのだが(絵の具に歯磨き粉を混ぜると弾かないので何にでも塗れると本で読み、いつもプラモデルに塗っていたのだ)、なんだかトカゲのようなわけのわからない顔になってしまった。嫌々やっている弟の表情が、図らずもリンゴの表情にぴったりである。

どいつもこいつも家にあったばあさんのカツラを適当に何個かのせて撮影したのだが、私のジョン・レノンの長い金髪だけは似たものがなく、しかたがないので画用紙に色を塗って短冊状に切って頭にのせるしかなかった。この中途半端さ加減が恥ずかしく残念である。なお、当時は今のように小さいメガネは売っていなかったので、ジョン・レノンになろうとして丸メガネをかけると、どうしても中華料理屋の親父みたいな顔になってしまうのだった。この後、メガネ屋で偶然みつけた子供用の丸メガネに大人用のツルをつけてもらって、小さい丸メガネを入手したものである。

そういうわけで、この中でやる気満々なのは私と、ジョージ役の繁則だけなのであった(意図を理解し尽した表情からもそれがわかると思う)。後年、高性能の一眼レフを卓球部の後輩から借りて、フラッシュなしで顔の影を嬉々として撮影したのが、以前アップした写真なのである。なんともレベルの低い話だが、バカバカしさの面白さという点ではこちらの方が上であろう。目的はビートルズになることだったはずだが。

ガレージでの卓球

アメリカに来て初めて自宅で卓球をした。ガレージにずっと置いていたのだが、誰もやる人がいないので一度も出したことはなかった。昨夜、阿部さんを含めた日本からの出張者3人を夕食に招いたのだが、そこで卓球をやることになったのである。

ガレージから車を出してスペースを空け、家側のドアを開け放して冷気を入れて冷やし、4人で卓球をした。私以外は全員がいわゆる卓球経験者ではないが、みんな運動神経がよく、ちょっとだけやるつもりが2時間にも及んでしまった。全員、汗ぴっしょりである。

私は卓球にあまりに近い生活をしているため、卓球の魅力を忘れかけていたのだが(変な話だが)、大声を出して熱中する彼らを見て、あらためて卓球の親しみやすさと面白さを実感した。負けるて腐る場合を除けば、卓球自体をつまらないと思う人はいないのではないかとさえ思えた。まったく素晴らしい夜だった。

フリーマーケット

ドーサンでは郊外に毎週土日にフリーマーケットをやっているところがある。店が100軒以上あってとにかくいろんなものを売っているのだが、ナイフとか手裏剣とか、やたらに凶器の割合が多いのが面白い。中には土だらけのコカコーラの瓶など売っていたりして不思議である。

そこの看板にFlea Marketと書いてあったので、私は「ははあ、Free Marketと書くべきところをわざと同音異義語で洒落ているのだな」と思った。家に帰って念のために調べてみるとFleaとは「ノミ」のことであった。そうえば、フリーマーケットのことを日本語では「ノミの市」とかいうなあと思ったら、実はノミの市というのはFlea Marketの直訳だったのであり、Free Marketは日本人がよくやる間違いだったのである。周りにこれを話すと半数ぐらいの人は知っていてバカにされた。知らなかったものは仕方がない。

他にもいろいろと発見をするのは結構楽しい。

たとえばパイナップルはパイン・アップルだが、パインとは松のことである。どうして松のりんごがパイナップルなのかと思ったら、わかった。松ぼっくりの形がパイナップルに似ているのである。パイナップルと命名した人がパイナップルより先に松とりんごを知っていたであろうことも同時にわかる。

トレンチコートというものがあるが、トレンチとは溝である。溝とトレンチコートがどういう関係にあるかと調べたら、トレンチとは戦場の塹壕のことも指し、第一次世界大戦で兵士が塹壕(トレンチ)で着るために作られたのがトレンチコートだったのである。

コートの話で思い出した。背広の襟の形や無意味についているボタン穴の由来をご存知だろうか。じつは背広というのは、えりを立てて首に巻くとぴったりと合い、詰襟状態になるのである。もともとナポレオン時代だかの兵士が首を守るために詰襟を使い、それをめくってだらしなくしたのが流行したのが背広のルーツなのである。私は寒いときに背広の襟を立ててみたときにあまりに見ごとな詰襟になってちゃんと第一ボタンの穴があることに気がついてこれを発見した。みなさんも寒いときは背広の襟を立ててみることをお薦めする。

最後にダメ押しの一発。officeとはoff+iceで、「氷の無いところ」という意味なのを発見した。これはウソである。

yeah right

7年前、この町に出張に来たときに、ロナルド・ピータースという人の家に泊りがけで卓球をしに行ったことがある。彼は歯医者でインテリで、食事の間中、いろいろな自説を語ってくれた。その中でひときわ役に立って記憶に残っているのがyeah rightの話である。

ロナルドは私に「面白い英語を教えよう。英語でyeah rightって言ったらどういう意味だと思う?イエスかノーのどちらだと思う?」と聞いた。yeahはyesだし、rightは「正しい」だから、単体ではどちらもイエスの意味である。私は「わざわざあなたがそう聞くということはノーの意味なのですか」と言うと、そのとおりだと言う。

彼は用例を語ってくれた。たとえば友達が「俺、明日大統領になるぜ」と言ったようなときに「yeah right」と言えばよいのだという。理由は知らないが現実にはそういう皮肉の意味でしか使われないのだそうだ。方言の可能性もあると思ったので、しつこく聞くと、これはテレビや映画でもそういう使われ方しかしない言葉なので、方言ではなくてアメリカ全体の共通事項だという。日本語でいうなら「そりゃよーござんしたね」とでもいう感じなんだろう。

翌週、職場で何人かのアメリカ人に聞いてみると彼らも全員が同意した。よほど親しい友達どうしが皮肉で言うとき以外は使わない言葉であり、ましてビジネスではありえない失礼な言葉だと言う。そこでブライアンは「実は本社(日本)のSさんがしょっちゅうそれを言うのだが悪気はないとわかっているので気にしていない」と告白した。これは相当腹に据えかねているに違いない。

そういえばそうだ。私もしょっちゅうそのSさんが電話口で「イエーライ、イエーライ」と相槌を打っているのを聞いていたのである。これはまずい。その人は社外との交渉の担当なのだ。社内ならともかく、社外の人に「そりゃよーござんしたね」と相槌を打っていたのではどうりで交渉が失敗するわけである。これは大変だ。

私は日本に帰るとさっそくその人に事情を説明した。彼は「言い方によるんだよね。状況とか。」と言って決して認めない。

悔しいので次に出張に来たときに私は「yeah right」と言って失礼ではない状況や言い方があるかを何人かにしつこく聞いたが、結局どんなに考えてみても「そんな状況や言い方はない」との結論を得た。

確実に知らないことを話すことは危険である。わからないならバカみたいでも安全にyesと言えばよいのであり、慣れたふりをしてyeahと変形させたり、それでは寂しいからといってrightをつけたりするのが間違いの元なのである。もっとも、私は英会話教室で、講師の話を聞くときにいちいち「イエス、イエス」と相槌を打っていたら「それは変だから黙ってうなづけ」と言われた。ちなみに、「yeah」「you are right」「right」はいずれも問題なく普通に使う。「yeah right」だけがダメなのである。難しいものである。

Balls of Fury

同僚のマイクがニヤニヤしながら「お前にぴったりの映画があるぞ」といって、公開されたばかりの映画「Balls of Fury」を紹介してくれた。なるほど、これは面白そうだ。少林サッカーとベストキッドをあわせたような感じのコメディである。

さっそく家族5人で見に行ってきた。最初、観客が5人ぐらいしかいなくて「お父さん、お客さんいないね」などと言われて沈んだ気持ちだったのだが、だんだんと多くなって、始まる頃には7割ぐらいは入ったように思う。

観客はしょっちゅう笑っていたのだが、英語がわからないためにその笑いの半分以上はわからず残念だった。それでもアクションだけで十分に笑えたので、日本語版をみたらさぞ面白いのだろうと思う。主人公に卓球を教える老師がいるのだが、これがなんと盲目で、それをネタにしたギャグが満載。老師がいいことを話そうとすると、横から老師の向きを話し相手の方に向くようにいちいち直されたり、あちこちにぶつかったり転んだりとバカにしまくっている。

卓球のボールはほとんどすべてCGで、めちゃくちゃである。主人公はデブだし、ライバルたちも全員おかしな奴らで、「卓球の達人はこういう変な人たちだろう」という幻想に基づいて描かれている。日本代表も出てくるのだが、なんと相撲の格好で出てきてマワシをしたまま試合をするのである。負けるとすぐに泣く10歳ぐらいの中国人の女の子や、いかにもオタクっぽい分厚いメガネの白人など、どいつもこいつも滑稽である(ドーサンで卓球の大会を見に行ったとき妻が「卓球しているアメリカ人ってかっこよくない人ばっかりだな」と言った。私は内心ギクリとしながらも「気のせいだ」と否定しておいた)。

唯一、ヒロインの東洋人女性がかっこいいのだが、こいつがなんとCGでも矯正できないほどのへっぴり腰。もっとも卓球の場面はあまりなく、だいたいはバク転したり吹き矢をよけたりして(そういう映画なのだ)飛び回っているのであまり問題にはならない。

最後の方は、主人公のデブとクリストファー・ウォーケン演じる悪の親玉が、卓球台を使わずに、竹やぶ、山道、つり橋などを歩きながらボールを地面につきながら試合を続ける(これでも勝負なのだ)というめちゃくちゃさである。

卓球がコケにされるなどと視野の狭いことを言ってはいけない。こんな形でも卓球が大衆に露出するのは良いことである。コメディにさえならないバドミントンのファンがどれほど悔しがっているか考えてみるのだ。

家のこと

家を選ぶにあたって、20軒ぐらいの家を見ただろうか。アメリカの家は微妙に日本の家と違って面白かった。

まずアメリカ人はふつう家では靴を脱がないので、玄関に靴を脱ぐところはない。写真のようにいきなりリビングなので、日本人としてはどうも落ちつかないのだ。業者もすぐに靴で上がりこもうとするので「脱いでください」とお願いをして困惑されてしまう。脱いでもらって室内用のスリッパを貸したりするとそのまま外を歩かれたりしてどうにも困るのである。

台所にはガスはなくすべて電気製であるが、面白いのが調理台である。まっ平らになっているので、てっきり電磁調理器かと思うとそうではなくて、下に電気コンロが入っているだけなのである。料理台の上には換気扇があるのだが、なんとこの換気扇、吸い込んだ空気が電子レンジの上から吹きだして人の頭にかかるようになっているのである。フィルターが入っているとはいえ信じられない感覚である。これはオプションで外に出す工事をしてもらえる場合もあるのだが、多くはこのままなので、アメリカ人は平気なのだろう。

さて、風呂である。アメリカにはバスタブが無いことが多いと聞いていたが、意外にもほとんどの家にはバスタブがあった。ところが追い焚きというものがない(穴が見えているのはジェットバスの泡の出口である)。夏はともかく、湯がすぐに冷めるような冬は家族5人入るのは難しそうである。バスタブがある部屋は普通の床なので、日本の風呂みたいに湯をあふれさせることはできない。体を洗うのは別のシャワー室であり、バスタブはそっと入るためだけにあるようである。ある人の話だと、バスタブは女性が体に石鹸のいい匂いをつけるために入るもので、体についた石鹸をそのまま流さないでタオルで拭くだけにして上がるのだそうである。なるほど、映画で歌など歌いながら風呂に入って足を上げている女性の姿はそれだろうか。ある日本人は「俺はいつもバスタブに入っている」と言ったら「なんだ、女じゃあるまいし」とアメリカ人に言われたというから(そのときは意味がわからなかったそうだが)、先の話にも説得力が出てくる。真相を確かめるべくグレッグに聞いてみたところ、「男でも女でもバスタブに入るやつもいるし入らない奴もいる。香水を流す奴も流さない奴もいる」とのこと。ただしグレッグはバスタブを使わないが奥さんは使うそうであるから、グレッグは断言したくないだけであって、そういう傾向はあるのだろう。

日本食レストラン

ドーサンには日本食レストランが2件ある。MIKATAとKYOTOであり、いずれも韓国人が経営している。KYOTOはともかく、MIKATAとは意味がわからない。まさか「味方」じゃないだろう。「御方(みかた)」なら古い日本語でありそうな気もするが、なにしろ店員は全員韓国人で日本語は「ドウモアリガトウ」しかわからないので聞くこともできない。そもそも現代の日本人が知らない名前をつけたところで意味がないではないか。店内はなんともいえないデタラメな感じの日本風になっている。しかしうどんや寿司、天ぷらがおいてあり、日本食が恋しいときにはなかなか重宝している。

車で40分ぐらいの隣町にはTOKYOという店があり、やはり韓国人の店である。さらに2時間以上走ると、MIKATO、OSAKAなどという店がある。MIKATOとなるともうまったく意味不明である。写真のMIKATOの店構えから、いかにもデタラメっぽい感じがお分かりいただけることと思う。それにしても店名が「京都」「東京」「大阪」とは、いかにも唐突で滑稽である。

ドーサンに来る前に通っていた英会話教室でそのことを私が得意気に話したところ、講師のアメリカ人に手痛い反論をされてしまった。「じゃ、仙台駅にある『リパブール』ってナンデスカ」「『キャバレー・ロンドン』ってナニヨ」と大笑いされてしまった。店の名前に「パリ」などとあると彼らは「なんだそりゃ」という感じで可笑しくて仕方がないらしい。ぐうの音もでない(私の職場はまさにその『リバプール』で忘年会をやったのだった)。

言われてみれば、KYOTOやTOKYOやOSAKAは、「日本食を出している」という意味がある分だけ『リバプール』や『キャバレー・ロンドン』よりマシかもしれない。

ビートルズ4

今回は私が初めて買ったもっとも好きなアルバム『ラバー・ソウル』(’65年)である。Rubber Soulとは「ゴム製靴底」の意味であるRubber Soleと同音であるが、sole(靴底)をsoul(魂)に変えた洒落のようになっている。その洒落の意味を聞かれてメンバーはずっと「特に意味はない」と語っていて長い間、その真意は明かされていなかったが、ビートルズ研究家のマーク・ルイソンが’90年にその意味を解き明かした。ルイソンはビートルズ関係者以外で唯一、ビートルズが残した何百時間という音源のすべてを聞くことを許された研究家である。彼は、ラバー・ソウルのレコーディング中、曲の合間にポール・マッカートニーが「黒人ミュージシャンがミック・ジャガーを偽者のソウルだと揶揄して『プラスティック・ソウル』と言っている」と他のメンバーにしきりに説明しているのを発見した。これをヒントにしてビートルズがアルバムタイトルをつけたであろうことは間違いない。「じゃ俺たちはプラスチックとまではいかないがゴム製のソウルってとこか。靴底ともダブルミーニングだしな」ってなところだろう。名作『ラバー・ソウル』のタイトルの謎はこうしてその発売から25年後に明らかにされたのである。

私がこの名作のジャケットをカバーしたのは’82年であるから、比べるのも何だが、これもそれから25年後の今日、こうしてブログで世に発表することとなった(ただし、画像のゆがみと色相変更は自分でパソコンで画像処理ができるようになった5年ほど前にやったものである。まだ続けているのだ)。まさかこんなものをしかも卓球雑誌のサイトで発表できる日がくるとは思いもしなかった。インターネットと卓球王国編集部は偉大である。

それにしても、何の発表のあてもなく竹やぶの前でビートルズの真似をしてポーズをとるこの若者たちは、いったいどこに向かっていたのだろうか・・。このうちの二人は今、中学教師である。

方言

徳川宗賢の「日本の方言地図」(中央新書)という本がある。これは、国立国語研究所の研究員が全国2400箇所に赴いて方言の聞き取り調査を行ったものを、徳川が簡約化して文庫化したものである。言語地理学には柳田国男の「方言周圏論」というのがあるらしい。方言の中には、近畿地方を中心として同心円状に分布しているものがあり、これは、昔の都だったところから時間をかけて言葉が池の波紋のように伝わったためだというのである。その伝播速度は平均して1年に600m程度だという(もちろんマスメディアが発達していない前近代の話である)。なるほど、私の祖父母が話していた方言のなかに、それらしい言葉があったわけである。ヒマなことを「トゼンだ」と言っていたがこれは「徒然」だったわけで、千年以上前の京の都の言葉なのである。

柳田が周圏論を見出すきっかけになったのが全国に広がるカタツムリの呼称の分布である。周圏論に従えば、カタツムリの呼称は、古い順にナメクジ→ツブリ→カタツムリ→マイマイ→デンデンムシと近畿地方で変化してきたのであり、これが時間をかけて全国に伝わったのだということを現在の方言の分布は示しているのだという。もっとも新しいのがデンデンムシというわけである。こういうことを知ると、言葉に関して何が正しいかなどという議論には限界があることがよくわかる。

もちろん方言はそのようなものばかりではない。たとえばサツマイモだ。サツマイモのことを九州ではカライモ、中国地方ではリューキューイモ、近畿以北ではサツマイモと言う。これはサツマイモが日本には沖縄(琉球)→九州→本州という順で伝わったことをそのまま表しているのだという。薩摩(九州)の人はサツマイモとは言わないのだ(ただし調査対象は1903年以前に生まれた男性)。

ところで面白かったのは、この方言の調査の方法である。質問に答えてもらう方法なのだが、たとえば「おんな」という言い方を聞くのに「婦人代議士の”婦人”のことを普通の言葉ではどのように言いますか」が原案だったと言う。どうしてこういう聞き方をするかというと、調査対象の人たちが標準語を知らなかったり別の意味で使っていたりすると困るし、また質問に標準語を入れるとその表現に回答がひきずられる可能性があるためである。それにしてもこの原案はひどい。結局これは「獣や鳥については”おす・めす”という区別があります。でもこのことばは人間には使いません。人間についてはそれぞれ何と言いますか」となったという。他にも「恐ろしい」という意味を聞くのに「大きな犬が何匹もほえかかって、いまにもかみつきそうになる。そんなときの感じをどんなだと言いますか」と質問したのだという。これはいかがなものだろうか。難しいものである。

何年か前にマスターズの試合で沖縄に行った。那覇市は町中が観光地で、いたるところに「沖縄ソバ」の看板があった。「沖縄の人がわざわざ『沖縄ソバ』と言うだろうか」と疑問に思い、タクシーに乗ったときに運転手さんに聞いてみた。すると「ソバといえばあのソバに決まっていますから誰も『沖縄ソバ』なんて言いません」とのことである。やっぱり。それでは我々が普通『ソバ』と呼ぶ、あの黒い麺は何と呼ぶのだろうか。彼の答えは明快であった。「あれは『内地ソバ』言います」。聞いてみるものである。言葉は面白い。

情けない奴

私はヒゲが濃い。ジョン・レノンがヒゲをはやした写真を見て、自分もヒゲをのばせるようになればいいなと高校生の頃に思っていたのだが、だんだんと濃くなてきて、二十歳を過ぎたころにはどうやら自分はヒゲが十分に濃いようだとわかり、心底嬉しくなったものである。世の中には、ヒゲを伸ばしたくても薄くてどうにもならない人がいるわけで、この点では私は良い体に生まれたと喜んでいる。

問題はヒゲと髪の毛の関係である。ヒゲというのはなにやらとてつもなく硬い。だいたい、手の甲が痒いときなどアゴに当ててこすれば掻けるし(どうしてわざわざアゴで掻くのか、と思うかもしれないが、もう一方の手を使う必要がないので便利なのだ)、そのとき手の甲には無数の白い掻き傷ができるほどである。これだけ硬くて濃いヒゲを何かの役に立てられないものかと思う。

ヒゲが硬いと感じるのは確かだが、本当に髪の毛にくらべて硬いだろうか。短いために硬く感じるとか、生える角度によってそう感じるなどということはないだろうか。人間は錯覚をする動物であるから、こういうことは客観的に確認しなくてはならない。

そこで確認した。アメリカに来たばかりの頃、英語の会議があまりにもわからないので、ふと思いつき、ノートに毛を並べてデジカメで接写してその太さを比べてみたのだ。写真左から順に?ヒゲ、?髪の毛の濃い部分、?髪の毛のハゲている部分、である。結論。毛の太さの関係は、日常感じている通りであった。ヒゲは間違いなく直径が太い。本当に髪の毛より太いのである。それにひきかえ、ハゲ部分の毛の細いこと。われながら情けない奴である。ヒゲの太さの1/3ぐらいしかない。これは断面積、曲げ剛性にしたら1/9ということである。しかも長さも密度も少ないのだろうからこれでは薄く見えるのも道理である。ハゲるわけだよこれじゃ。

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